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七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅶ>】

「ぐぬぅぬぬ……」


 私室の勉強机に両肘置いて、悶絶させれる頭痛と胃痛に呻き声を漏らして、アタシは口から勢いよく飛び出しそうな怨嗟の言葉を必死に抑え込んでいた。考え得る最悪の想定を飛び越えた先の遥か最悪を想定した計画、些細な綻びを許容する遊びをしっかりと持たせた、年単位で一手一手を着実に踏み固めた計略。

 抱き込んだ野心溢れ返るロンディニオン銀行の幹部は数知れず、ダメ押しに日和見の確約を取り付けた三番目に大叔父と近い重役、テンプル翁の口利きも合わさって些細な失態を演じる事に定評のあるお父様を相手にしても破綻の芽は完全無欠に生えてこない。

 筈だったわ……会議当日にまさかの二日酔いッ!診療所直行!?か~ら~のッ欠席!!

 ありえない!ありえない!ありえないから!

 どういう精神構造?確かにお父様の基礎的な事柄の悉くのあれこれも何から何にまでも金星人的な思考と発想に基づいているわ。太陽が程良い場所(ハビタブルゾーン)に住まうアタシ達地球人とは、決定的に論理が致命的にズレている、でも共通する概念はあるのよ?知的生命体同士……それとも…無い?皆無?存在しない?


「ぐぎぎぎぎぃ……」


 お父様は当面もう無理だわ。この一件で痛感させられた人達は清水の舞台から飛び立つ決死の覚悟で、生死を懸けるにも等しい覚悟で、この大勝負で大博打の賭けに参加した。だのに!お父様はその覚悟に最もしてはいけない形で答えてしまった。最低最悪をジャム作りの作法で煮詰めに煮詰めた最低最悪の裏切り…ジャム作った事は無いけど。

 もうお父様に担ぎ上げる物的価値は無いと、損失に見合うだけの見返りが無いと、むしろ損失しか見返りがないと、参加者全員に知れ渡ってしまったわ。

 次の手は…無い。

 いいえ正確には今現在の進行形とする手が無いだけ、お父様の失態は取り返しがつかないだけで巻き返しの手はまだある。こういう窮地に最もしてはいけない行為は焦った大股の一歩、歴史の多くで崖からの一歩だと、英雄英傑が夢半ばで散る姿で証明しているわ。

 まずはぬかるんだ足元を砕石を敷き詰めて舗装する事から始めるのよ。

 とアタシが心の内で苛む胃痛に耐えながら頭脳の平静さを取り戻した頃、まさに頃合いを見計らって来訪を告げる扉を叩く音が聞こえた。


「お嬢様、会計士の方をお通ししても?」

「早かったのね、いいわさっそくその人だけ通して…お茶とかは特にいらないから呼び鈴、響くまで決して近づかず、扉を開けたまま呼びに行って」


 秘密を聞く耳も話す口も少なければ少ないだけその秘匿性は担保される、基礎中の基礎であり基礎は物事の心理を鋭く貫いている、これ怠るわ破滅。符丁を忘れずに用立てておくのも秘密を守る上で欠かせない作法。


「資産の計算に一段落を付けましたのでご報告に参りました」

「ありがとうサマースキルさん、待ち遠しかったわ」


 そしてアタシの秘密を知るのは現状3人、1人は推理の間もいらずに当たり前のテンプル翁、もう1人はテンプル翁が直々に信用に足ると紹介状を書き認めた、業界では名の知れる会計士クリスチャン・サマースキル。ちょび髭を蓄え古風に片眼鏡(モノクル)をはめ込む粋な、身形に古臭さではなくクラシカルを纏う素敵な老年手前の御仁。

 数字を何よりも正確無比に乱れる事無く計算して、1ファージングの漏れも無く1ファージングの数え間違えも無い。ただし不正な会計は一切お断りな清廉さもありながら、仕事相手の品位は問うても善悪は問わない人でもある。

 きゃは♪そういう人の方が、お腹の無作為な探り合いをせずに済むからアタシは好ましく思うわ。良く磨かれた愛用を続ける革靴の音を響かせてサマースキルさんはさっと扉を閉めて、小脇に抱える書類をこちらへ差し出す。


「さあ今のアタシの総資産を…何でかしら?ねえサマースキルさん、手を放してくれるかしら?」

「……お嬢様、旦那様に関して心中お察しします」

「あらそう…手、放して?」

「本当に色々と心中察するよキャスリン」

「だったら手を離してくれるかしら?」

 

 差し出された書類、現在のアタシの資産が書き認められた用紙を差出のだから受け取ろうと、掴んでみれば微動だにせず、サマースキルさんは何を思ってなのか?頑なに書類を掴む力を緩めようとせず、逆に涼しい顔で小話に花を咲かせようとしてくる。

 普段の彼なら無駄な行為を嫌って、パッと渡してパッと話してパッと報酬を受け取って帰り、行きつけのパブでソーセージ&マッシュにエールを添えて楽しむ筈。

 ソーセージ&マッシュ!心弾む響きよね…アタシもジェインの事をとやかく言えないわ。  

 あの子はチップバティ、バターを塗ったパンでフライドポテトを、チップを挟んだだけの物をこよなく愛していた。そしてアタシはオーブンで焼いたソーセージにマッシュポテトを添えて、グレービーソースをかけただけの料理が大好き。

 切っ掛けは…テンプル翁からこの方を紹介された時の、初顔合わせで赴いたパブで食べたのが始まりで、あの年になるまでまともに肉類を食べて来なかった反動かしら?美味しいソーセージの美味しさに歓喜して、頼めるなら必ず頼む好物となってしまったのは?

 まあそれは小脇に置いて、まずはアタシの資産がどれだけなのか?確認が優先事項。


「旦那様の今後はどうお考えで?彼は当面…いえもう使い様がないのでは?」

「聞いたわ、大叔父様が釘刺しにひょっこり顔を出したって……」


 件の会議、お父様が二日酔いで欠席という醜態を晒す中で大叔父様が来てしまった、獅子身中の虫である自分に近い幹部を縊り殺す片手間に、集まるお父様に寝返ったり日和見をする社員達に身を凍らせる笑顔を振りまきに!

 日程表ならその時の今頃、ヘルヴェティア行きの飛行船で優雅な旅路でも満喫している筈だったけど、まさかお父様…いいえきっと感付いているその後ろにいる存在、アタシへの欺瞞として撒かれた餌でしかなく、まんまと()んでしまった。全ては台無しのちゃぶ台返し、お父様の価値は元から無価値だったけれど、今では無価値にすら劣る価値を得てしまった。

 癇癪の一つでも子供らしく起こしそうだけど、昨今の世界情勢は良い追い風になって買い込んだ一部の株価は鰻登り、買い集めた土地その他も心地よい値上がり。赤字覚悟のあれこれの心中荒れ模様は天気晴朗!だから冷静でいられるのよ。


「そうですか…まあ、あー…まあえー…お悔やみを申し上げておきます」

「はい?」


 人様に書類を受け渡しながら何を仰るのかしらこの会計士は?お悔やみ?身内に死者は…旧本家の骨肉相食む日常風景なら確かに、誰か1人か2人は死んでるかもしれないわ。アタシの耳まで届けば、喧嘩両成敗、無断に陰謀目論むは大衆見物の公開処刑だから両人言い残す事は?ってなるから、知られないように何人か死んでるかもしれなわね。

 ただそれは道端の雑草の中で争う虫同士の小競り合い、アタシが与り知る理由は無く、わざわざ調べる理由も無い、今は…………アタシ…乱視だったかしら?眼鏡、眼鏡…って両目とも正常だったわ、とするならば……0の数が少ないし0の前に数字がない、ただ一つ0だけが堂々と書かれているだけ、どういうことかしら?


「お嬢様の現在総資産は、そちらの、用紙に認められた通り。この家も、家財道具調度品、窓枠の拭き残しに至るまで、既に持ち主は旦那様でも貴女様でもありません」

「……はい?」

「簡易簡潔にお嬢様は現在、1ファージングの資産すら持ち合わせていません」

「…………………………………はい?」

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