七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅵ>】
物語を次の場面へ進める少しの合間にディラン・メイヤーという人物について多少なれ語っておかなければならない。娘達からの酷評だけばかり広まっている彼だが、一応あれどもオクサンフォルダ大学を上方の成績で卒業した秀才なのである。
信じられない!と叫びたくなる感想は当然だが意外性はそれだけ終わらず、周囲が把握した限りで5か国語、それも饒舌な、小粋に雑談も混ぜて話せるので在学時代は外交官を嘱望される男だった。
叔父ヴィンセント・フロスト・メイヤーも諸々の面倒を避けられると、外交官の道を用意しようと舗装してもいた。
しかし彼の持つ、秀でて悪質な人間性は自主的にその道の全てを取り壊してしまう。
多様な言語を巧みに扱えたとしても外交の場では些細な失言が国家間の前面衝突に発展しかねない、些細な失言を雄弁に繰り広げるディランでは到底その職責を負わせる事など良心が許さず、叔父は卒業と同時にバースの片隅に書面上の支店を用立てて隔離した。
その後はどこぞで出会ったキャロル・サニービーンと周囲の反対など物ともせずに結婚、さらに数年後にとある出来事を切っ掛けに叔父から完全無欠に『人間の屑』認定される。
ここまでの時点で彼は人生を完全に詰んでおり、細やかな叔父の肉親への情から慎ましやかな生活を送れる程度に支援を受け、残りの一生を片隅で過ごす予定だった。
娘の死、それもまだ息のある娘の救命措置を積極的に阻んで死なせるという選択を選んだ事で、彼の人生は腸の煮えくり返る事に好転してしまい現在へと至るのだった。
ここまでざっくりと語った上で時間軸を現在に戻す。
「おええぇえッッ!?」
ロンディニオン銀行が本社、その御手洗いの一角、その個室の片隅から酷い呻き声が大音量で発せられていた。個室の外側では数名の、上等なラウンジスーツを身に纏う男達が個室の主となったディラン・メイヤーを心配そうに立ちすくんでいた。
会議の始まる遥か前、早朝に顔を合わせた時から顔は酷い色合いに染まり上がり、ふらつきのある足取りと今からでも吐きそうな所作を繰り返していた。会議の時間が近づくにつれて増々顔は真っ青を通り越し、口を辛抱強く開いたと思えば「気持ち悪い」「体調が思わしくない」と、打ち合わせの為に集まる幹部用の一室で見てる方でも分かり切っている事を呟いた。
だからなのか?何でなのか?彼は気付けを欲しがってしまった。
「ブランデーを一口……」
気付け薬代わりにブランデー、別段奇妙さを感じる事ではない。医療という側面から飲酒は…とうの昔に依存症の恐ろしさなどは知られ社会の問題として周知されていたが、気付け薬としてブランデーを飲むのはまだ医療だった。
例えば動揺した心に一服、気絶した人にちょっぴり、ケガをした人へ薄めて一杯、では今のディランに必要かと問われれば、即言して止めろと言い聞かせるのが当然の対応だったが彼は腐り切っているがメイヤー家の人間。気を利かせてしまった男があっさりとブランデーの満たされた小瓶を渡してしまった。
価格は5シリングに届くか届かないかという手渡した男の月収からすれば上等品のブランデー。蓋をスポンと開け放てば芳醇な香りより劈くアルコールの刺激臭が押し寄せ、正常の手前なら気付けには相応しい気付けの一撃だったが要求した男の容体は単純に二日酔い、それも嗜むワインではなく荒々しいラム酒を前日にも浴びたばかり。気付けの一撃は逆にとどめの一撃となってしまった。
比喩として空っぽと言われていても実際にはちゃんと満たされた頭蓋骨の中の脳みそは、それは見事に強烈なアルコール臭にかき回されて、猛烈な嘔吐感が気軽なノリで踊りだしついに耐えられなくなったディランは、せめてもの自尊心から便座が鎮座する個室へと走り込み吐き続けていた。
つまり彼は現在、アルコールに救いを求める人間となっていた。
娘のキャスリンと結託するジョシュアの前では(本人の脳内イメージとしては)威風堂々と振舞っているが、実際は不安と不安に恐怖で彩られ酒を飲まずにはいられない有様だった。誰よりも恐れおののく叔父ヴィンセント・フロスト・メイヤーに宣戦布告をした、覚悟も無いのに堂々と宣戦布告をしてしまった。日々は戦々恐々が充満し、ふと脳裏に過れば過呼吸を伴いかねない不安が戦列を成して現れる。
ここで救いとなるのは女性、母か、妻か、恋人か、それとも一夜を共にする娼婦か、誰か彼の不安に寄り添えれば良かったのだが、自業自得で孤独の身の上になった彼にはアルコールだけが親友として寄り添ってくれる存在で、アルコールが親友として寄り添ってしまった。
しかも日毎に増して行ったのは飲む量ではなく、度数。
ワインを飲み干し、ビールを浴びて飲み、どれも効き目が悪いと愚痴を立ち寄ったパブで漏らしたのが偶然に、居合わせた元海軍士官の耳に届いてしまう。「ならこれを飲め!」と促されるままに飲むのを躊躇っていた類を飲み干して、その喉を焼く強烈な一撃に彼は最良の友を見出したとそれ以降竹馬の友のように飲み続けた、ラム酒を。
そこからの依存はまさに坂道を転げ落ちるように、断崖絶壁から飛び降りるように進行した。気が付けていたらキャスリンは厳重な鍵付きの酒瓶台で管理を試みたかもしれないが、残念な事に娘という歯止めはかからず依存症の坂道を転がり落ちてこの日を迎えてしまった。
あまりにも見事な嘔吐の雄々しさに、これは「不味い、何か病気撫でのは無いか?」とディランは近場の診療所へ担ぎ込まれ、診察を受け持った開業医は「ただの二日酔い」と診断を下し、会議をあまりにも情けない言い分で重要な会議を欠席してしまう。
そうなってしまえば謀略の大船に乗り込み、大航海へ漕ぎださんと集まった者達も、大後悔時代の幕開けの先陣は泥船と知られ一斉に下船と手の平を返して、老獪なるテンプル翁の予見通りにキャスリンの謀略は大失敗という形で幕を下ろした。
それも黒幕を演じる少女の想像を遥か斜め右上方彼方の展開も含める最悪な形で。




