七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅴ>】
帝都ロンディニオンの中心部、メリルボーン地区とまで口遊めば趣向する者なら知る人にならねばならぬと即に閃くあの地名。ベイカー・ストリートの一角。
三階建ての古き良き趣を留める高層の屋敷。高層、とは言ったけれど…ええ、今の帝都ロンディニオンはさらなる高層に溢れ返り、三階建てでは張り合うのも恥じらってしまい、かつては日の差す窓辺も今では高層建築の陰にひっそりと佇むばかり。
周囲は住居よりも商店が増え続け、好き好んで住む者ばかりとなった街角が麗しき我が家の構える場所。
「お嬢様、到着しました」
「ありがとう」
車は停まり、ドアを恭しく開け放つ運転手にアタシは軽い労いを口にして、そして…億劫な時間の到来に胃痛の再燃を予感してしまう。というのが…。
「ッッッ!!?!」
入る前から漏れ響く、金切り声の中の金切り声が、またあの女が癇癪を起したのだと知らせているから。ちょっと所用……と踵を返さんとしても運転手は事態を察して車を取り換えに猛然と姿を消した後。
つまりアタシはこれからあの女を宥め、年若き瑞々しさに溢れる女中を魔の手から救わないといけないのね。白馬は王子様の専売だけど、と割り切れない思いのまま帰宅。
すると早速、崩れ落ちた黒きゴシック調のドレスに身を包み、純白のエプロンを纏う年の若さは一番若い、アタシより3,4は年を経た鼻の高い雑役女中が恐怖の色に染まっていたわ。
原因は…ええまあそうでしょうね。走り回った駄犬でももう少し上品に息を荒げると、舌打ち交じりに吐き捨てたくなるあの女が、崩れ落ちた女中を見下ろしている。
態勢から推理の必要も無く、些細な粗相に平手打ちを繰り出し終えた後だというのは筆舌の必要はあるかしら?
「どうしたのお母様?何で…―――」
「キャスリンッ!貴女またどこへ行っていたの!?どうして家で大人しく詩集を読む事さえしないの?!寄宿学校へ入るの嫌がって…恥ずかしげもなく!!」
アタシを見出すなりヒステリックの向かう方向をガラリと変えて、古臭いカビ咽返る古過ぎる良家の令嬢がすべき深窓の嗜みを疎かにするのかと、目の前の女は錆び切った金管楽器よりも酷い金切り声で叫ぶ。
アタシを見出すなりヒステリックの方向をガラリと変えて、古臭いカビ咽返る古過ぎる良家の令嬢がすべき深窓の嗜みを疎かにするのかと、目の前の女は錆び切った金管楽器よりも酷い金切り声で叫ぶ。
全能が容姿にまで集約されただけあり、昨今の流行は適度に汗を流し健康的に、されども労働者とは明確に違う見栄えのする日焼け具合が世の男達を魅了する美の一つだとは理解の範疇を越えているみたいだわ。
良く手入れのされた枝毛一つ無く根絶やしにしたブロンドの髪、きめ細やかに日々の美容に神経を尖らせた白い肌、加齢による崩れの無い…時代遅れの細すぎる腰に目を瞑れば芸術的な容姿端麗。
これだけを維持する能力は類稀なのに、客人の来訪の間だけは持ち前の癇癪を抑える自制心は1グレーンすら育んでいない。それが我が母、キャロル・メイヤーなのだから所詮、と鼻で笑って流すしかないのよね。
「そういうお話はまた今度にしてもらえるかしら?アタシはお客様を待たせている、お母様はこれから集会、そこにいる女中は仕事の真っ只中」
「キャスリンッッ!?ええ、もう時間ね…私は反対しているわ。それよりもお前!早く支度を手伝いなさい!」
「はい奥様ッ!?」
キャロルは平手打ちという酷い仕打ちをした年若過ぎる女中と、地鳴りに似た煩い足音を引き攣れて二階へと上がって行く。アタシはその踵を返した足で応接室へと足早に。
時間から推測したら……ホットチョコレートでも飲み干している頃合いね。
「騒々しかったのう?三杯目を飲んでいる最中だ」
「あら、てっきり四杯目だと思っていたわ。意外に謙虚なお爺ちゃんなのね」
「当然だとも、ワシは謙虚を知る男だからのう」
好々爺然とした物言いをどの面を下げて?とか呟きたくなる、毒っ気のない声色でテンプル翁はアタシを迎える。
齢を鑑みれば呆けていても不自然さを感じないというの良い事に、年若い子とお喋りを楽しみ興じていたらしく、アタシが来るまでの間を文字通り年若い…くは無いけど美醜は中よりの女中達と楽しくお喋りに花を咲かせていたみたい。
普段からお父様とキャロルの世話を焼かねばならなくて、色々と溜め込まなければならず億劫な表情がへばり付いた我が家に仕える女中達は、先程までとてもニコヤカな表情を浮かべていたという空気を醸し出しているんだもの。
「さて美しいお嬢さん方、次はキャシーと楽しくチェスでも興じたい。君達ばかりでは拗ねてしまうからのう」
「あら、美しいだなんて!女心を良くわかっているお爺ちゃんだわ」
「そうじゃろうそうじゃろう、ワシは昔も今も、女性に敬意を忘れぬ男だからのう」
このエロじ…あらいけない!うっかり口汚い言葉を使ってしまう所だったわ!とアタシの苛立つ視線に女中達は早々に部屋を後に。でも仕方がないじゃない!さっきまで貴女達の不始末の後始末をしていたんだから!
あれだけ若い女中をキャロルの視界の隅範囲内にいれるなと厳命していたのに、テンプル翁に媚び諂っている間を件の若い女中に任せていたんだから。
「おじいさん?何度も言ってるけど、あまり紹介状を快く書き配らないでくださるかしら?おかげで能力のある人から順に退職して大変なの」
「職場環境が悪いから仕方があるまい?ワシとて人の心をハーフペニーは持っているぞ」
どうだか、下手をすれば1ファージングすら持っていなさそう。ただ今は人様の揚げ足を探るよりチェスに興じた方が有益だわ。分の悪い賭けは即決で降りるのがアタシの流儀なのよね。
なにせ目の前の相手は見た目こそ好々爺だけど、根っからの生き馬の目を抉り抜いて踊り食いをする政治家、その中でも魑魅魍魎の晩餐会とした国家の暗部でも辣腕を振るっていた男。
本来は、勝つ勝てないを論議する以前のその以前の以前の段階で脱兎が推奨されるのよ!そんな奴を相手にお腹の探り合い何て命をダース単位で用意してもまるで足りないわ。
だからちゃっちゃと椅子に座って、保温性の高い舶来の、アルヴィオン人の趣向に合わせて改良したティーポット型の魔法瓶からお気に入りのカップへ紅茶を注ぐ。
さすれば、香しいベルガモットの囁きが荒む心を和やかに彩ってくれて、これから始める建前としての対局とお互いに利用し合う為の小話に意識を集中させてくれる。
「だがのう、あやつが自由共和国からこっちへ居を移したからには手配してやらんわけにはいかんだろう?人付き合いの壊滅さで、電灯会社を懲戒されたんだからのう」
「はぁ~それであの人達を?止めくださらない、朝から晩まで燻製ニシンとパンの生活には戻りたくないのよ……」
「どこの定食屋じゃい?せめて開いた方にせい」
酷い時には缶詰の塩漬け肉が挟めれば最上な、もっぱら挟まれる事の無いトースト・サンドイッチが主食の何て貧相!な日々だったわ。
こっちに来たらさようならが出来ると思い馳せた時期もあったけど、物価の違いを考えもしていない夫婦の共同作業と雇われたい使用人は、年端の行かない少女か難ありの妙齢しか集まらない日々。
真っ当な、ブローターに救いを求めない食生活が出来るようになったのはここ最近。
テンプル翁には特に悪いとは思わないけど、アタシの精神面での安息をこれ以上かき乱されるのはゴメンよ!レストランから軒並み拒否をされているから死活問題でもあるわ!
と視線で訴えかけるとテンプル翁も……ちょっと気まずそうな……。
「もしかして…紹介状?」
「書いちゃった」
思わず天井を仰ぎ見て、アタシは早々に新聞の求人欄へ『至急。料理技能を持つ雑役女中。年齢は40歳以上の容姿はお世辞を必要とする方』と掲載しなければならないと嘆息が漏れ出す。
人手不足、ええ人手不足、そう人手不足!
いいえ、今はそういう愚痴愚痴とするのは良くないわ。
「それでお爺ちゃん、今日はどんな御用向きなのかしら?若い子目当てだけじゃないんでしょう?」
「いやなに…ちょっと泣き面を拝みにのう、鼻で笑うべきか?腹から笑うべきか?見事に足元を二人がかりで掬われたらしいが?」
「ッ…ええそうね、ジョシュアにも人の足を引っ張り回すだけの反骨根性があったのは計算違いだったわ。一日にして成らず、それが理解出来ないお年頃なのも、ね」
「人間の、大多数は感情と本能を基幹としておる、初手から数式に組み込まれていないのなら違いではなく過ちだぞ?」
「ッッ!?」
人の痛い所の突っ突き方が本当に巧い老人だわ!
アタシが苦手とする人種、行動の規範に理性が含まれていない者、今日の節制が明日の大成という発想の無い者、破滅も破綻も終焉も喜々として甘受する異常者。これらの人種がアタシにとっての天敵。
物事を論理立てて出しか進められないアタシの最大の弱点、臨機応変が不得手。
これらを的確に踏み荒らすのが上記の連中、つまりジョシュアやお父様、そしてキャロル。ただ最後の異常者は幸いにも出会っていないし、長い人生で出会わない方が真っ当だからこの先も期待しても出会う事は無いわ。
「でも、逆転の目は最初から用意している戦略家なのよ?アタシは。この一件だけで破綻するような枠組みで物事を組み立ていないの。既に打開策は講じた後、お爺ちゃんだってご存知でしょう?」
「おお知っておるぞ。孫娘の様な子には親切な男だからのう、野心家の餌付けは容易い。だがのうキャスリン、お主もまだまだ青二才じゃ」
「アタシが?確かにお爺ちゃんと比べたら生きた年数は短いけど、今を働き盛りとする大人並みには加算したわ」
「心得ておる、が、のう。所詮、井の中での話しじゃ、荒れ果てる大海原の航海は今に始めたばかりだ。断言しておこう、失敗する」
心の臓を射貫く眼光でテンプル翁は言い切り、アタシは冷たい汗を流さずにはいられなかった。これこそが戦争外相と慄かれた男、老いは決してこの男の瞳を濁らせる事は出来ないと痛感させられる。
格が違い過ぎるわ。
でも…何も計画に穴は無い、中小の穴はあれども大穴は何一つとして無いの。全ての根回しは完遂されて、後はお父様がその場にいればいいだけ、一つとして大きな穴は無いわ!
「分からんか?まあいい、それよりももう一方は刈り入れ時ではないか?メイヤー氏への借金の申し出、そこから先は使い勝手が良いからのう」
「…青田刈りは嫌いなの。まだ機は熟していない、最後のピースは手に入っても段取りは決めていないわ。即興劇を開けば途端に物語の矛盾で破綻する」
「じゃが行く末を考えればのう、そろそろ用立てねばならんが…まあワシにとってはどっちでも都合は悪くない、お主の手腕を拝見しよう」
「あら、じゃあ堪能させてあげるわ」
亡き妹と比べれば圧倒的に小さな胸を張り、アタシは手ずから敷いた道筋の結実に胸を躍らせる。一抹の不安だけ抱えてしまいながら……。




