序章【彼と彼女の終わりの物語<Ⅴ>】
死んだ…のだろうか?
ああ、たぶん死んだ。
胸から下がミンチになって生きていられるのは、プラナリアくらいだ。
ふふっ、俺は人間でプラナリアとは無関係だから、うん、死んだな。
そうなると、ここはどこだろうか?
とても真っ暗だ。
真っ暗な世界で、誰か目の前にいる。
手を伸ばしたら届きそうな距離に誰かいる。
あたしは自然と手を伸ばして、触れようとすると、水面に小石を蹴り入れた時のように波紋が生まれた。すると何となくだけど誰かなのか分かった。ええ、驚きよね!こんな事が起こるなんて予想外だわ!
あはははは!変な気分、だけど嫌じゃないわ。
初めましてなのかしら、それともお久しぶりなのかしら?
ふふっ、たぶん俺は初めましてで君は久しぶり、だ。
俺の目の前には、まるで鏡合わせのように、それか水面に写る自分の姿のように、牧歌のような長閑な、草原を笑いながら走っていそうな顔立ちの、黒い髪の少女がいる。
水面に触れて流れ込んできた記憶は次の自分が体験した記憶だった。
それは夢で見たあの悲惨な末路。
愛して信じて、そして捨てられ続けた記憶。
父に、母に、愛しい人に、親しい人に、触れあったその先で裏切られ続けた記憶。
周りより少し背の高い、カントリーダンスで相手の女性に手が触れただけで赤面してしまいそうな、純朴な顔立ちの少年という、前世のあたしに触れた事で流れ込んできた苦痛の記憶。
時雄もそう生きてしまったのね。
ああ、何とも不可思議な話だ。
目の前にいるジェインが俺の来世なのか?
だからあんな予知夢を見たのか?
ああ、本当に不思議な話だ。
それに俺達が今いるここは、一体何なんだろうか?
とても大きな力の本流、根源に近い場所にいる気がする。
だけど、何より、この浮遊感はなに?
あたし達を包むこの感覚。
浮いている?いいえ浮かんでいるわ。
水の上を流れる木の葉のように、それとも空を漂う雲のように、俺達はたぶんあの大きな流れの外縁にいる。
ただ遠くから眺めながら、流されている。
いや漂っている。
『何度も言っているだろう!?何もしなければいいのだ!』
『医者に目の前の、助けられる命を見放せと?冗談じゃない!私は倫理も道徳も二の次だが人でなしではない!この患者を見捨てるという選択肢は持ち合わせてなどいない!!』
『おま、俺はメイヤー家の長男だぞ!!俺がその気になればお前達のような無資格医はいつでも!!』
『どうぞご勝手に、当然こちらは一秒以下を争っているので処置室に失礼させていただく』
『貴様ら!?』
オーロラのように煌めいて、マグマのように猛っていて、大海原のように勢いがあって、森林のよう生命力に溢れていて、冬の雪原のように静寂に満ちていて、春の陽気のように穏やかで、月の光のように輝いて、太陽のように燦燦と温かい。
あたし達は還るべき場所に帰って来た。
そんな気がする。
なら俺は次に君になるのか?
いいえ、あたしはもう終わり。
終わってしまった。
もう少し生きていたかったけど、貴方と同じで終わってしまったの。
それなら君の次は誰なのだろう?
俺はもう終わった。
君ももう終わった。
さあ、あそこへ行けば分かることよ。
ええ、次の人生はどん底ばかりじゃない事を祈って還りましょう。
『ホーエンハイム、輸液が足りない。もしくは追加だ追加!他所の納品分もこちらで支払うから全部使わせろ!』
『当然の愚問をするな愚か者か貴様?金銭を問う暇があればさっさと投与する手順を整えろ。お飾りの弟子ではあるまいな?』
『師匠、どこから針を通せば!?』
『鎖骨下だ馬鹿弟子!本当にお飾りか貴様は!ロンディニオン校卒の手腕を見せろ!』
おかしい、あそこへ行けない。
何で俺達は引き上げられているんだ?
どうして行かせてくれない?
『弟子よ、容態に変化は?』
『脈は安定しました、幸い…いえ口が滑りました。とにかく容態に問題はありません、急変するような要因もないので、あとは意識を取り戻せば……』
『取り戻しとして、当然の話だがどう説明する?煩い連中は舌先でだまくらかしてるが、当人に関しては黙ってはいられないぞ?』
まだもう少し生きていいのかもしれないわ。
でもどう生きましょう?
あたし、どうしたらいいの?
さあ?俺が聞きたい。
夢は無かった。
生きるのに必死で、ただ立ち続ける為に生きていたから、
『主よ、私の行いは正しかったのか?もしくはあの人でなしの言うお通りに死なせてやるべきだったのか?こんな様になってまで生かす理由はあるのか?私は…いや、違う!都合の良いに考えるなどエゴだ』
あたしもよ。
どう生きようかしら?
ねえ、貴方とあたしの境にあるここを越えたら、何が起こるのかしら?
分からない。
越えてみないと分からない。
あたしも彼もそう思って境へと向かって手を伸ばす。
さっきと同じように波紋が立って、それでも伸ばし続けると、
俺と彼女との境が徐々に消えていく感覚。
さっきの記憶が流れ込んできたのとは違う感覚。
ああ、これは溶け合う感覚。
ねえ、もしも次があるなら、あたしやりたい事があるの。
ずっと、ずっと、主の教えに従って生きて来たあたしが出来なかった事。
ああ、俺もある。
ずっと、ずっと、それは間違っていると教えられて育ったから、ずっとやった事がないんだ。
あははは!前世と来世と同じ事を思ったのね!
なら、ええ、しましょうやりましょう!
ああ、次があるのなら絶対にやろう。
――――を