五章【踏み潰すようなはやさで<Ⅳ>】
体から感じ取れる重心の感覚は、汽車が下りて行ってる事を細やかに語っていた。
時間の感覚が不明瞭なのは暗闇の責任。乗り込んでから時計の秒針がどれ程の回数、12への登頂を繰り返したのか?その基準と出来そうな要素が皆無であるから、実はまだ走り出して数分なのかもしれないと思ってしまうのは致し方ない。
ただ相応の時間が経っている事は明白だ。瞼に感じる気怠さが、善き乙女はベッドへ向かう時間だと教えてくれているからだ。しかして私はその家の善き乙女ではない。なのでおかまいなしに夜更かしにしゃれ込む所存だ。
と心の中で思い耽っていると汽車は唐突に停車する。どうやら目的とする地に着いたようだ。
伯爵と共に客車から降りて少し歩き「ここから階段だわさ」と言われ、私は一歩目を気を付けて踏み出す。上げた足の高さと上げた足の下りるまでの時間で、階段の標高に見当をつけてから、昼間の上り下りと同じ感覚で階段を上っていく。
「無意味に長いからゆっくりでいいだわさ。駆け足は転倒の始まりだし」
「そいつはありがたいね。長い時間行儀良く座っていたから、少しばかり足の動きが鈍いんだ」
と気を利かせられる大人な紳士たる伯爵は、一段一段の歩みをあえて遅くし私の歩みに合わせてくれた。
普通の少年少女なれば恐る恐る、おっかなびっくりで上がるべきだろうからね。暗視眼鏡などという、余程に酔狂な上流階級の子弟が友人同士の悪ふざけで買うような代物を、それも舶来品の最上品を付けている訳ではない。
こければこのままドタドタという大音を立てて落ちる羽目になるだろうから、ここはお言葉に甘えておこう。
それからたぶん…高さで例えると四階に上がれる程度の段数を踏みしめたあたりで、視線の彼方に薄っすらとした光が見える。しかしその薄っすらとする様に私はふと疑問を抱く。
それはまさに窓辺から見る星空の光に良く似ているからだ。
「そろそろだけど、風には気を付けなさいな。たぶん貴女が想像しているのとは随分と違う光景だから」
「違う光景?ここは地下世界なんだろう?なら洞窟の冷や風に体が障らないように、と気を払えと言うべきだと思うけど?」
「あの光の先に行けば嫌でも思い知るだわさ」
「?」
不思議に含みを持たせた事を口にすると伯爵は、僅かに歩みを速める。
なお一応、私の服装は以前イーストウッド卿に買い与えれた衣服一式だ。日傘は似合わぬ有様のままなので、またの機会としたのが少しばかりの残念さ。それでも防寒性は一昔前の自分自身よりもずっと上だ。
鍾乳洞の中でも、快適に歩いて回れると自負心を持って言える。なので小生意気に伯爵よりも先へと、トットっという足音を響かせて階段を登り切り薄っすらと見えたる光と対面す―――。
「きゃっ……伯爵?確か貴方は、行く先が地下世界だと言ったよね?」
「そうだわさ。こここそが地下世界。紛れもなく、疑いようもなく、非常識にもここはロンディニオンの地下に広がる世界だわさ」
突然の突風によろめき、伯爵に支えられる事で倒れずに済んだ私が目にした光景に、我が目を疑わずにはいられなかった。
地下世界、そう聞かされた者が思い描く光景は鍾乳洞かそれともオドロオドロしい地下墓所、はたまた地底の湖や迷宮か?それ等である事は間違いなく、それ等以外を想像する者は滅多にいないはずだ。
私もまたそれ等を思い描き、吸血鬼達の住まう世界ならゴシックホラーのような黒々とした色調の、地下に永大に広がる地下墓所を想像し予想していた。だが実際はどうなのだろうか?
この光景を言い例えるなら天空の駅から見下ろす、夜空を彩り神話を織りなす星の海か?それとも遠く星の海原を渡った先に見える、アレクサンドライトよりも多彩に煌く銀河か?
まさに銀河鉄道の夜に迷い込んでしまった、そう思える幻想的な光景が広がっていたのだ。
「ようこそ、ここがロンディニオンの地下世界たる常夜界。神代の残滓を、神々の残り火を今も絶やす事無く焚き続ける唯一の世界。揺蕩う煌きは、闇を彩る常夜灯の瞬きだわさ」
「……これが街並みの煌き、信じられない」
闇夜に目が慣れ始めてようやく眼下の光景に街並みを捉えた事で、私の興奮に細やかな冷静さが入り込み我に帰る事が出来た。それと同時に自分の今いる場所が文字通り…というよりも信じられない事に、ダムの頂点にそびえる様に建てれた駅舎である事に気が付く。
すぐに近くには、これから乗り込む事になりそうな汽車が佇んでいた。
「さあ行くだわさ。ここから登山…いいえ下山鉄道で麓へ。そこからは馬車で館に向かうわよ」
もう少しだけここからの景色を見ていたいが…本来の目的を忘れてはどうしようもない。なので私は伯爵に誘われるがまま汽車へと乗り込む。今度の客車は先ほどとは違い、どうやら薄明かりが存在していた。
なので特に困る事もなく座席に座り、窓辺の光景を見入る。
そこでふと気が付いたのは、どういう理論なのかはまるで理解の埒外な事に、空に月が浮かび、星も瞬き、雲が流れている!?遠く地平線まで見える事も加わり、地下世界というのが洞窟の凄い版などという自らの浅はかな知性が徹底して叩き潰される感覚に襲われる。
この世界に、カーラという存在として生まれた直後から、自らの固定概念の貧相さを痛感する日々だったが、今日程の衝撃は伴わなかった。
さらに付け加えると、下へと辿り着き駅舎から出た直後にもまた衝撃に襲われる。
あそこに至ってもまだ私の中での、吸血鬼とその日常を映画のスクリーンに浮かぶ姿を重ねていた。人の血を舌なめずり啜る、闇夜を闊歩する人型の化け物という妄想。
実際は?
異様な程に青白い肌と、鮮血のように赤い瞳。口元に光る牙。鋭く尖る耳。そこまでは妄想に準じていたが、続きはまるで違う。行きかう人々の礼節は、アルヴィオンを行きかう人々よりもずっと文明的で。
独特な臭気を放つロンディニオンとはまるで異なる、穏やかな澄み切った街の匂い。渾沌し秩序を失い失楽園の様に増設を繰り返された地上とは違う、丁寧に整備された…乏しい語彙を振り絞って例えるならば、大正浪漫を彷彿させる趣のある景観。
道路は完璧に舗装され、さらには摩訶不思議な色合いで煌く街路灯がどこまでも配置されていた。
馬車へ乗り込んでからここまで、私は後頭部を金槌で執拗に殴打されるような衝撃に襲われ続けている。
「さて、ここいらで説明の続きでもしてあげましょうか」
「…フフッ、ああ…そうしてもらえると実に助かる。予告のない衝撃の濁流で、もう脳が理解する為に休みなく働いているから、そろそろ親切な解説が欲しいね」
「そうねまずはここに暮らす人種からだわさ」
「ここに暮らす人種?吸血鬼達の世界であるならば、住まう人種は吸血鬼達だけではないのかい?」
「発想が貧相ね。背丈は人並み以上だというのに発想が貧相だわさ」
発想が貧相だと二回も言う必要はあったのか?と問い詰めたくなったが、ここで話を脱線しても得する事はないし、こういう御仁は切り返しが巧妙な玄人。口を動かせば動かした分の墓穴を掘り進めるだけだ。
おとなしく貧相だと言われておこう。
「主体を担っているのは吸血鬼。ただし全体の2割前後で6割強は人間だわさ。御者は人間よ、肌の色合いはただ日光と長らく縁遠かった為の色白。彼等は血液の提供と労働を行う事で生活の一切を保証されているだわさ」
「つまり労働者階級という事か」
「いいえ、どちらかと言えば農奴だわさ。彼等はもう二度と地上を踏みしめる事はない。自らの所有権を吸血鬼に譲渡しているのだから。それでも地上よりもマシだわさ」
成程ね。
つまり彼等は血液を提供する供給源であり、同時に日常の勤労に費やす労働者階級でもある。逆に吸血鬼は支配階級、特権階級という事か。ただ街並みを彩る人々は、誰もが真っ当な暮らしを物語っている。
確かに工場で低賃金の人権無視で「おはよう」から「おはよう」まで酷使されるよりもずっとマシだ。
「すると残りの2割もしくは1割と幾らかはどういう人種なんだい?」
「混血児だわさ。吸血鬼と人間の間に生まれた忌子。ナイトロードの慈悲で、迫害される彼等の移住を許しているだわさ」
「忌子?」
「それに関してはおいおいだわさ。あと発音が間違っている。ナイトロードではなく、ナイトロードだわさ。重要だから間違えないように」
「ナイトロード?そいつは奇妙な名称だ。自らを夜道を称する吸血鬼達の女主人とは…」
一体何者なるや?
この馬車の行き着く先で対面するのが、ティースプーン3杯分の興味を増して楽しみになってきた。




