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三章【這い上がり乙女<Ⅸ>】

 さて意気揚々と難事を楽しもうとする今日この頃の私だったのだが、9月に入るなり本格化した個別の実技授業に悪戦苦闘する羽目になっている。そう今も悪戦苦闘中だ、いや本当に苦闘している。


「42点です。カスタードフィリングは及第点と言ってよいでしょう。ですが、基礎であり、土台であり、要であるペイストリーの仕上がりはとても及第点には程遠い。水分量を誤りましたね、手を触れると砕けるでは話になりません」


 ああ、悪戦苦闘しているとも!

 私はシスター・ヴェロニカに連れられて、実技の授業をファーモイ女子修道院で受けている。そこで炊事洗濯、針仕事、家庭に入るのなら女性が覚えるべき嗜みの全てを教えられている。

 がっ!忘れてはいないだろうか?かつての私は、ジェインは名ばかりではあったが上流階級!実際は中産階級の下だったが、ロンディニオン銀行の創業家の令嬢だ。珍しくスコーンの焼ける令嬢だった。

 時雄は…まあ一般的な男子高校生として必要最低限のあれやこれや、程度にしか出来なかったのだから、少なくともタルト生地を焼けただけでも合格点というもの。シスター・ヴェロニカの採点はあまりにも辛口だと思うぜ?


「カーラさん、出来ないは誇れることではありません、出来る事が誇れるのです。何より東方の格言にあります、芸は身を助く」

「うぅ……」


 不服に思うのも無礼極まる正論だ。確かにそうだとも、出来ない事など誇れるのはドジっ子と男の装飾品である事を望む女だけ。自らの足で立とうと願うのならば、男と対等に渡り合える武器を得なければ話にならない。

 その為には誰よりも多くを身に付ける!理屈は分かる。

 しかし、必要になるのだろうか?

 個人授業が始まってからというもの私は、他の修道女に混じって奉仕活動に従事し、時には修道院の清掃、時には炊事番として奮闘、定期的の炊き出しでは修道女に混じる。まるで雑役女中か見習い修道女だ。

 今も修道院の台所でシスター・ヴェロニカの指導を受けながら、カスタードタルトを作り、批評を受けている。これで修道服を着ていたらまさに見習いだ。

 確かジェインは…イーストウッド卿に引き取られるまで見習い修道女として奮闘していたから、回りくどい道を歩んで正道(メインルート)に戻って来たという事だろうか?どっちにしても、戯れもした事のない分野を一から覚えるというのは疲れる。


「では、本日の実技は終了します。こちらの手本として作ったカスタードタルトはチェルシーへの差し入れとしましょう。こっちの不出来な方は物陰から物欲しそうにしている子達に置いて行きましょう」

「ようやくか…どうにも、根っこの部分が家事に疎い気質だったから疲れるね」

「当然のことですよカーラさん。男性の主敵が外での仕事であるのなら、家事とは女性の宿敵。質を問うのならば天井知らずの難敵、それが家事。明日の座学は免除されていますので、早朝より励んでもらいます」


 実に情熱的だね!いつの間にか座学の免除申請しているなんて、私は思いもよらなかったよ。ジェインに数多くの英知を授けた女傑という情報に、誤りは無かったがここまでの情熱家だったという情報が含まれていなかったぜ。

 なので考え方を改める必要がある。半端な覚悟で流さずに、これも全力で取り組む。

 そう決意を新たにして私は、自らの失敗作をテーブルに残し、シスター・ヴェロニカの完成品は丁重にバスケットへしまい込み、シスター・ヴェロニカと共に『選定の家』へ向けて帰路につく。



♦♦♦♦



 修道院から『選定の家』までの距離は女性の徒歩には辛い程度に離れているから、駅馬車のお世話になる。『選定の家』に辿り着く頃合いには茶を楽しむ時間になっていた。


「それでは、お茶の準備をしてから応接室に向かいましょうか。この時間なら親しい来客を迎え入れているでしょう」

「フフン、だから駅馬車だったのか。わざわざ?と思っていたが、本当に情熱的な人だよ貴女は……」

「鍛える、そう決めた以上は全てを学ぶ場として整える、それが私の流儀です。同席し社交を学びましょう」


 本当にね、とこの後に待ち構えている、まさに大きく開く狼の口に飛び込む感覚でシスター・ヴェロニカと共にお茶の準備。人数分のカスタード・タルトとカップ、それとお茶の入ったポット。

 それらをワゴンに載せて応接室へ。

 シスター・ヴェロニカが扉を叩けば、中から詐欺としか思えない優しい声色が響き、扉が開け放たれるとそこには椅子に腰かけるブラッドレイ夫人と……見慣れぬご婦人がテーブルを挟んだ先の椅子に腰を…いや以前に顔を見ている。8月の個人面談の時に見かけた見慣れぬご婦人だ。

 穏やかでいて、淑やかな、壮年の優しい面持ちのご婦人だ。

 ただ今日は体調が思わしくないのか、顔色が僅かばかりに悪い。


「まあまあ、あの時の可愛らしいお嬢さんじゃないの!こっちに来て、お話ししましょう」

「おや、既に気に入られていましたか。手遅れですね、諦めなさいカーラさん」

「あらあら、本当に貴女は変人に好かれるのが得意ね。セリーナに気に入られるとか」


 ちょっと待ってくれるかい!?シスター・ヴェロニカはまだしもブラッドレイ夫人が憐憫の眼差し!?しかもどの口が言うのかブラッドレイ夫人直々の変人認定な人物。このご婦人、どういった方面での曲者なんだい?


「酷い言いようね、ねえカーラちゃん?私が変人ならチェルシーは奇人よ?アーサーが好きで好きでたまらないからって近寄る女性を一人残らず、テムズ川に沈めようとしたんだから!」


 奇人といよりもヤンデレじゃないか!!……あ、うん、奇人と言えば奇人である。ヤンデレの概念は遥か二世紀先に生まれるのだから、そしてしっくりと来てしまった。逆にブラッドレイ夫人がヤンデレでないのなら何デレだっていう話だぜ。


「失礼ね、全員じゃないわよ。半分よ、実際に沈める算段を付けたのは」

「フフッ、ブラッドレイ夫人。五十歩百歩という言葉はこの世界にもあるかい?まさに、ていう言い分だよ。結局沈めようとしてるんじゃないか!」


 全員だろうが、半分であろうが、沈めようとしたのは事実なのだから。どんぐりの背比べとも言える。どっちにしても…本当に沈めてないよね?

 と、とにかくだ、圧倒されている暇はお茶を入れる時間に費やさないとね。

 ワゴンの上のティーポットから、銀製の茶こしを通して、ティーカップに注ぎ入れてテーブルへ。それとシスター・ヴェロニカ作の、上から散りばめれたナツメグが、何とも栄えるカスタード・タルトも忘れずに。

 お菓子にナツメグ?などと怪訝に思うのも致し方ないが、よく合うのだ。

 そも材料が、砂糖、牛乳、卵というシンプルを極める組み合わせ。必然として卵の主張も激しくなる、がそれを甘くスパイシーなナツメグが良く和らげる。和を以て貴しとなす、という偉い太子の格言のように。

 サクッとしたタルト生地の、素朴な甘さとも見事に調和する三位一体のお菓子。

 それがカスタードタルト。


「あらあら、今日もヴェロニカ作?そろそろ貴女の作った物も食べてみたいわ」

「チェルシー…まったく貴女はまだ続けるのですか?ほどほどで止めないから、ウィルも恐れおののき近寄らないのですよ」

「それとこれは無関係よヴェロニカさん。ウィルは少し恥ずかしがり屋なのよ、本当は帰りたいに決まってるもん」


 もん、て!……これが素のブラッドレイ夫人というのか……。

 嗜虐的で加虐的でありながら、どこか純真に幼い…最悪な組み合わせだ恐れるのも無理がない。まだ見ぬウィル・ブラッドレイの幼少期を私は憐れまずにはいられない、きっと周りと同じく手を抜かないスパルタ教育を受けたのだろう。

 トラウマになるのも致し方ない。

 で、だ。

 流れに乗ってしまいそのまま世間話に加わってしまったが、私がこの場に居座らねばならない理由はとは一体?どうやら古い付き合いのお三方、に新参者の私が加わらねばならぬ理由とは?今更な、最初にシスター・ヴェロニカが同席せよと言った時に思うべき疑問。

 家庭招待会に子供持参は礼儀作法に著しく違反する行為。全てを学ぶ場とすると言い切られ、流してしまったが、それ相応以上の理由が無ければ許されない行為。学び、それ以外の、客人も了承する目的があらねばならない。

 そろそろ、お茶菓子だけじゃなくその辺りの説明が欲しいのだけど?

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