三章【這い上がり乙女<Ⅶ>】
進級が決まってからも11月の査定を見据えた私の日々は、予断ならぬ勉学の日々と合間合間の小休みを挟む形で進んで行き、夏が終わり秋を迎える8月。日本とは大違いの涼やかなエァルランドの8月だ。
秋となりましたと言ったとしても、蒸し器の中のような日本とは大きく違うエァルランドの初秋。それだとしても残暑いまだ衰える事がないから、冷やした飲料は格別の美味さなのは万国で共通している事だ。
実力は筆頭という事が内定している私に、かのブラッドレイ夫人はご褒美を与えるというものだから、戦々恐々と新聞と一杯のコーヒーを要求し今それを二つ同時に堪能しているところ。
食堂の一角で、開け放つ窓からお淑やかに通り過ぎる涼風に頬を撫でれながら、六角柱のグラスに並々と注がれた果物を思わせる風味を抱く、酸味が愛らしいコーヒーを優美に味わい。生まれて初めての高級紙……以前はね、そうロンディニオン銀行の創業家の本家とは名ばかりの家だったから大衆紙。
だから最初に目にした時の私の戸惑いは推し量って欲しい。
「しかし…こうも違うとはね……」
中道左派のパラディオン紙はたぶん今日も労働者の権利だとか差別だとかな内容と、教育界でも有名な貴族院の議員が、麗しき少年に肉体関係を強要していたという醜聞を一面に飾っていたり。有名な高級品ばかり作っている会社が、廉価品を大量生産して大手百貨店と取引を止められたり。
後はやはり載っていたかの、ゲームと同じとは言い難いがヘイゼル&バートン社の多額の負債に関する記事。どうやら会社はバートン家に譲渡され、負債に関してはヘイゼル家とバートン家で折半。ヘイゼル家は秘伝のジャムのレシピの使用料をバートン家から受け取り負債の支払いに回すという内容。
本編ではその部分は深く語られなかったヘイゼル家の凋落をこういう形で知る事になるとは、人生は本当に予想の範疇を越えてくれる。そうなると確実なのはシンシアが婚約を交わす事になるリュフト家からの就学支援の取り決めだ。
アルヴィオンでは新興であるリュフト家を創業家とする貿易会社。その会社の御曹司と老舗で歴史あるヘイゼル家の令嬢の婚約、しかし一方は没落している。世間的には邪推の一つでもしたくなる組み合わせ。
そこで少しでも醜聞を作られまいとリュフト家が提案したのがシンシアのカムラン校への入学。双方が名高きカムラン校へ揃って入学したのなら外聞はだいぶ良くなる、だがヘイゼル家にそんな資産は無い。
なのでリュフト家はシンシアが女帝の学徒になるのなら学費を援助すると申し出ている。
女帝の学徒というのは成績優秀者の中でも特に優秀な者に与えられる学費の一部を、帝室が負担してくれるという奨学金制度だ。ただし一般的な奨学金制度とは意味合いが大きく違う。
そもそも入学する資金を用立てるのは、とてもとても庶民には一生を掛けても無理だ。
一部を負担してもらっても焼け石に水…いや熱湯だな。
無駄と無駄の相乗効果、つまり女帝の学徒という制度の本質は名誉と栄誉。
帝室から支援してもらえる優秀の頂点に君臨する生徒への血統書。全校生徒の羨望を集め、その規範と模範として立ち振舞う事を義務付けられた選ばれし者。
はっきりと言っていくら女性の社会進出が割と進んでいるアルヴィンでも、ただでさえ少ない女子生徒の入学枠の、さらに少ない女帝の学徒の枠。普通なら無理だがシンシアは見事にやってのけて入学する…予定だ、ゲームでは。
たぶん、こっちでも同じだろう。
そうそうついでにその年の女帝の学徒に選出される女子生徒はシンシアだけは無く、フィオナも含まれる。彼女は並外れた記憶力を持っているという設定で、勉学においては他の追随を許さぬ天才。
男子生徒を押しのけての学年主席。
ゲーム通りの展開なら、だが。
尚、先程からゲーム通りならと但し書きを語尾に付けるのか?というのはフィオナの父であるレンスター公爵は、ゲームでは貴族とだけ簡潔に語れていたがこっちでは貴族院の若手議員。エァルランド人問題を真剣に取り組む変わり者の政治家、という大きな差異があるからだ。
この世界でのレンスター公爵は、社会が抱える問題の根幹は教育の格差に根差している、と訴え児童労働の禁止と初等教育の無償化を訴える強硬派。文盲の根絶こそが貧困をなくす最良の方策だとし、また対立も軋轢も教育から解決することが出来ると固く信じる信念の人。
重鎮の少年との一方通行な甘いひと時による失脚で、さらに言葉の響きが良くなるのは間違いないと、パラディオン紙ももろ手を挙げて応援する人物。
あと、フルネームは設定されていなかったので今日知った。
レンスター公爵ジャレット・ウェズリー・メイナード。
以上が久しぶりに、または初めて手を触れた高級紙を読んで把握したゲームとの違いだ。これ以上は少しずつ把握していくしかない。目下の問題は私自身の学費と、フェンシグという取り柄さえ危うくなったイーサンが、養子候補の筆頭のままだという問題だ。
一方は後回しにしていても特に面倒にはならないが、学費に関しては可能な限り早い段階で目途を付けたい。その為にはやはり、筆頭と言う箔は必要になる訳だが、どうにも講師連中はイーサンにお熱。
私の方が格上という現実を、実際の事柄としたくないらしい。
「おい」
噂をすれば影来るか。
「何だいイーサン?私に用事か?」
忌々しい赤毛のイーサンのご登場だ。
試験の後、進級が出来ずに10名の養子候補が救貧学校へ送り返された。本当ならこの男を含んで11名の予定だった。シスター・ヴェロニカさえ『資格、資質、素養、全てにありません』と酷評する有様だったのだから当然だ。
ただサーブルの実力は本物だと講師達が熱烈に擁護、結果としては教育界との関係から、ブラッドレイ夫人が折れるしかなくなり首の薄皮一枚で繋がり、引き続き筆頭と言う扱いに留められている。
ようは名ばかりの筆頭。
そんな男が実力では筆頭である私に声をかける、理由は?恫喝?恐喝?そんな玉の有る男とは思えないから誰かからの言伝であろうね。シスター・ヴェロニカ?ブラッドレイ夫人?そのどちらからだろう。
「チェルシー先生が呼んでるぞ。執務室に来いって」
「フフッ、わざわざありがとう」
新聞を畳んで食堂の隅にある古新聞を貯めておく木箱の、重ねられている束の一番上。読みたい人はお次にどうぞと置く。ただ割と難しい単語が多いから、文盲から脱していてもハイハイが限度のイーサンにはまず読めまい。
他の比較してマシな連中なら、辞典片手に窘めるだろうが。
おおよその検討を付けると、切り抜くに値する記事は無かったから、再来週あたりには揚げ物の包み紙に勤しんでいるだろうね、パラディオン紙は。
さて、では行くとするか。
進んで関わり合いを持ちたいとは思えない相手だが、話していて恐ろしくなるも不快にはならない相手だ。今日も楽しくお話と洒落込もう…とその前に、
「ねえイーサン」
「…何だよ」
振り返る私に油汗をにじませるイーサン。
まるでカエルだ、以前は大柄で筋肉質に思えたが今では割と贅肉が多いと思えて来たから、カエルはカエルでもガマガエル。蛇に睨まれたガマガエルのように、脂汗の濁流を流す目の前の男に私は努めて良い笑顔で、
「講師の方々にお願いしてるんだけどさぁ~周りの歯ごたえが悪いから、胸の一つでも貸してくれないかい?筆頭なのはイーサンしかいないから」
「お…俺に言われても…困る…講師の人達に言ってくれよ」
「フフン、そうかい。講師が許諾したなら、そんな時は…お愉しみといこうぜ?」
どこまでも逃げるだろうが、どこまでも追いかけるぜ?
死刑台って、どれだけ後ろに並んでも必ず順番は来るものだから。




