三章【這い上がり乙女<Ⅱ>】
年が明けてからの一月中頃。
トリスタンはその日、上官であるブラッドレイの私事の為に、ファーモイの近郊にある女子修道院を寄った後、久しぶりに自分が巣立った後の『選定の家』の惨状を確かめるのを目的に、出来る事なら顔を合わせたくない人物と、顔を合わせる覚悟を決めて、『選定の家』を訪れていた。
幸いにも出迎えたのは厳しく淡々とした、しかしてその内には深い慈愛を秘めるシスター・ヴェロニカだった。
「おや、ブラッドレイ卿からのお仕事ですか?トリスタン、ちゃんと休息、息抜き、休日は取れていますか?取れていないなら、そうですね…お茶でも飲んでいきますか?」
「問題ありませんよシスター・ヴェロニカ。小官は顔こそ昔のままですが、歴戦と胸を張れる男です。適切に自己判断で休息を取っていますとも」
あの頃と変わらない廊下の風景に、郷愁の念を抱きつつシスター・ヴェロニカと並んで歩くトリスタンは、『選定の家」の実情が前回と比べてどこまで酷くなったのか?それを確認していた。
主に住んでいる子供達についてを。
というのも『選定の家』を無事に卒業するか否かは、実はそこまで大きな問題ではなかった。実力があればあっさりと引き取り手が見つかって、彼等によって名門校に通わせてもらえるから、なので在籍したのちに別の名門校に編入した優秀な元養子候補は大勢いる。
つまりこの『選定の家』での一般では、引き取り手が見つかる事を卒業としている。
ではトリスタンは?
彼は出生こそ一般的な浮浪児だが、拾われるまで経緯が特殊だった為、引き取り手を意図して見つけず卒業した、という事情がある。ただその場合はブラッドレイ家の養子になるのが通例でもあった。
トリスタンはそれを固辞して、自らのアシュトンという名前に拘り、今もその家名を名乗り続けている。
それらを踏まえた上で二通りの『卒業』のどちらも、トリスタンの後は続かなかった。
「チェルシー先生は授業中ですか?」
「ええ、上位組に専属で教鞭を振るっています。なので彼女に用事があるのなら昼食をここで摂る覚悟を、持ってください」
「……それは何とも、しかし、だとすると教員に不足が?」
「いいえ、教員の数は以前と変わりません。ただ怯えてしまっているので、チェルシーが専属で教鞭を振るっているのです」
『怯えている?何とも異な事を……』と、訝しむ感想を抱いたトリスタンが、シスター・ヴェロニカに続いて教室へと入った直後に、チェルシーの愉快そうに笑いを堪える声が耳に届き、トリスタンは思わずビクッとしてしまう。
「あらあら、またなの?何度も言ってるけれど、羽ペンがいくら値崩れてしていて、節約の為に大口で買い取っても、そんな小枝を折るようにされると、節約をしている意味がないわ」
「フフッ、それは申し訳ない。これでも細心の注意を払い、乙女の柔肌を撫でるように扱ってはいるんだ」
「なら、その女の子は逆剥ぎにされているのかしら?今月の再支給はありません、全て暗記なさい」
嗜虐的な狼の笑みを浮かべるチェルシーと、不敵に笑顔を返すカーラの舌戦に、思わずトリスタンは『名誉ある撤退を!』という衝動に襲われる。と、同時に最初に目にした時は、牧歌のような顔立ちだったカーラの印象が、以前と比べて少し変わっている事に気づいた。
だがそれ以上にその後のカーラの表情で、そのちょっぴりな変化の事などは、
「……」
目を見開いて黙々と粛々に、黒板へ刻まれていく文章を、瞬きに抗いながら凝視するその狂喜を抱く表情と、運悪く目が合った瞬間に走ったゾッという悪寒の前に、容易く吹き飛んでしまった。
同時に終始あの視線に晒されていたら確かに、神経の図太いチェルシー以外に、この上位組の教師は務まらない。トリスタンはそう納得して、座学の授業に終わりを告げる時鐘の音が鳴り響くのを、待望せずにはいられなかった。
だがその願望も昼食を終えた後に始まる実技、フェンシングの授業を目にした途端に『今日一日、座学を見続ける方がマシだった』と、後悔に変わってしまった。
それはあまりにも杜撰だったから。
かつてここで切磋琢磨、共食いを繰り広げて来た彼にしてみれば、お粗末なお遊戯会にも劣る惨状だったからだ。特に、
「そこ!もっと深く強く踏み込みなさい!」
今は亡きかつての講師達の代用品として教育界から送り込まれた、国内の選手権で上位の戦績を誇る、というお品書きだけは立派な講師達の教える物事の悲惨さは、その今は亡き講師達から『殺すつもりの教育』を受けたトリスタンにしてみると、
(バカが一つ覚えた事を得意げに…防がれれば抗う間もないぞ……)
などという感想を抱いてしまう実力だった。同時に彼等が隅の方を意識してみないようにしているのにも気が付く。言うまでもなくカーラだった、カーラがそこにいてそこから凝視していた。
途端に襲い掛かりそうな猛禽類のような眼光で。
「君、ええと…」
「イーサン・ホルバインです!アシュトン中尉」
鼻につき纏う鬱陶しさを堪えながら、トリスタンは気になる事をイーサンに尋ねる。
「ではホルバイン君、彼女はいつも見学だけを?」
「はい、ケッペルさんはまだ拙いのでまずは見学をして基本を覚えるようにという事になってます。初日から、転倒したり授業中に羽ペンを折ってしまっているので、怪我をしてしまわないように、という配慮からです」
「そうですか、呼び止めてすまないね。練習を続けてくれ」
会話を終えるとイーサンは模擬試合をする為に集団の中に戻って行き、すぐに名前を呼ばれ模擬試合が始まる。
その試合風景は恵まれた体格を活かした動き、というよりも『巨漢に達人無し』という言葉を体現するような、程度の知れた才能に酔って溺れて基本が疎かになり、分かってしまう人には良く分かる動き。
対戦相手の実力も底が知れているのでトリスタンは、
(目潰しも金的も無いというのがあそこまでお上品だったとはな。昔ならここにいる全員、即日病院送りだ)
彼が在籍していた頃のサーブルの授業は、まさに殺し合いの技術を学ぶ場だったからと言っても、さすがに物騒の過ぎる感想を抱いた。
それからトリスタンは見たくもない風景を見続けた後に、事業の終わりを告げる鐘が鳴り響くのを確認してから、チェルシーと面会する。
今日一日の授業風景を見学して感じた事と、どのように失望したのか?
それと彼女の息子で、軍務を理由に戻って来ないウィル・ブラッドレイの近況を近況の報告も合わせて。
一時間ほど、会話を続けてからトリスタンは『そろそろ』と席を立ち、チェルシーは『ウィルに会ったら年末には戻って来なさいって伝えてね?』と伝号を頼み、トリスタンは快諾しながら、
(ウィルの奴…ついに禿げるな)
と最近、若くして生え際が危うくなった友人の行く末にに確信を抱く。
自分以上に母親を苦手とする古い友人の心境に思いを馳せながら、『選定の家』を出た頃、ふとカーラの事が脳裏を過り同時に、そそくさと建物の裏手に向かう人影が目の端に映る。
(誰だ?あそこは何もない筈だが…最近の情勢を鑑みれば…念のために確認をしておかなければ、後が恐ろしい)
息を潜めるように裏手へ向かう人影を追って、トリスタンはそれ以上に気配を隠して後をつけると、少女にしては背丈の高い人影は裏手にある鬱蒼とした雑木林に、周囲を警戒しながら入って行く。
トリスタンは少し遅らせてから林の中へ。
最初の数ヤードは雑多に生えた草々の獣道だったが、途中から最近になって通る者が現れたらしく、よく踏み固められ整地されていたので、匂いを頼りにせずとも容易くトリスタンは追跡が出来た。
そしてさらに数ヤード進んだ先は開けていたので、さっと木陰に隠れてその先にいる人物に気づかれないように窺う。そこには地面に蹲り方を震わせる、年の割には背の高い少女がいた。
(やはりただの少女だった、という訳か)
早計にもトリスタンはそう思ってからすぐに考えを改める事になる。
何故ならよく見るとその周囲には折れた木の枝が幾つも、いや無数に散乱していたからで、その長さや太さは支給されている羽ペンと程よく同じで、つまりその少女が蹲っているのはか弱い乙女のような事情からではなかった。
トリスタンは気持ち距離を詰めて、少女の周囲に視線を動かして、その有様に思わず目を見開く。
「………」
折れた枝以上に地面へ書き刻まれた、地面を覆い尽くす文字、文字、文字。
何度も消して、何度も書き刻んで、そして消して書き刻む。
きっと、少女がここに来てから始めたであろうと習慣は、以前の『選定の家』にも無かった光景だったので、トリスタンが呆然としてしまうのは必然であった。
それから陽が沈む予兆が表れた頃に、少女は立ち上がり今度はサーブルと同じ程の太さと長さの枝を手に取る。
ただ露骨なまでに無作法な構えを取ってから醜態ともいえる動きで、幼稚な突きの動作をしたものだから、無様に前のめりで倒れ込んでしまう。しかしすぐに小鹿のように立ち上がり、また同じ様の繰り返しをする。
そんな有様だったから草葉の陰から覗き見るつもりだったトリスタンの口は、不意に動いてしまう。
「そのような動きでは、ただただ無駄を積み上げるだけですよ」