幕間【誰かの追憶】
空を覆うように進む巨影。
景気よく蒸気を吹き鳴らし、悠々と雲を追い越しながら進むその巨影の名は『グラーフ・ツェッペリン』。アクィタニア共和国と双璧をなす帝政アレマラントが誇り、姉妹船は帝室の御召船にも採用されている。
ただ飛行船と言ってはいるがこの世界における飛行船とは、帆船のフリゲートを空を翔ける船に板金で成型したような、そんなスチームパンク然とした面持ちをしている船の事だ。ただしこの『グラーフ・ツェッペリン』は僅かばかり、アルヴィオンの飛行船と趣旨が異なっている。
影となっている街並みは、ゴシック調の蒸気に縁どられ、形作られ、彩られる摩天楼ひしめき合うロンディニオン。近くを過ぎ去る飛行船もまた、ゴシック調を基礎としているが『グラーフ・ツェッペリン』は、それ等すらお淑やかに思える過激さだった。
帝政アレマラントの権威を象徴する過美な主張を纏う飛行船、と言うよりもな過美な主張が飛行船の形をしている。そう思える程に豪奢で絢爛で、眼下の街並みと奇妙な不和を引き起こしていた。
誰もが巨影に目を奪われる中で、一人の少女がロンディニオンを両断する、テムズ川に架けられたロンディニオン橋を、スズメのような声で歌いながら渡っていた。
六歳という年齢にしてはとても良く育ち、牧歌の様な顔立ちと艶やかな黒髪を自然に垂らして、とても愉快そうにしかしてどこか自棄混じりな足取りで、ロンディニオン橋を渡っていた。
「ロンディニオン橋落ちる♪落ちる♪落ちる♪ロンディニオン橋落ちる♪可愛いお嬢さん♪」
今日はジェイン・メイヤーの六歳の誕生日で、双子の姉の誕生日でもあり、普段は姉にのみ誕生日プレゼントを買っていた両親が、何を思い立ったのかジェインにも買うと言い出し、先程まで真ん中よりも下の中産階級向けの百貨店に赴いていた。
そこでジェインはすぐに入り口前で待つように両親に言われ、二人の意図に気づく。
最初から誕生日プレゼントを買う気はなく、何時ものように置き去りにするつもりなのだと、予感は的中し置き去りにされる。それもわざわざジェインの前を車に乗って過ぎ去るという、手の込んだ虐待も込みだった。
しかしジェインの心境は『いつもの事ね!いつも過ぎてなれちゃった、もう少し捻りを入れないと意外性が無いわ!』と、気持ちを切り替えて徒歩で駅へと向かい、現在に至る。
財布の中にロンディニオン駅からバース駅までの片道分の路銀を携えて、ロンディニオン駅へと向かって、ただし歌いながら歩いているのは別の理由から内心では、
(やってしまったわ!そう、やってしまった。あたし絶賛大窮地ね!ちょっと見かけて猫さんが可愛くてわき道にそれたのがいけなかったわ、だから目を付けられちゃった!)
最初は気のせいだと思うも、すぐに間違いないと確信をしたジェインは、努めて平静に人通りの多い道を選んで、後ろを付けて歩く薄汚い、浮浪者然とした男から逃げようとしていた。
残念な事に相当に執念深いらしく、つけられ始めてから一時間を経過しても後ろを歩き、思い切ってロンディニオン橋を渡ってはみたものの、それでもすれ違う人達の視線など気にも留めずジェインを追い回す。
内心では恐怖心でいっぱいであったし、今にも走り出したい気持ちに覆われていた。
それでもこういう手合いに対する、一番取ってはならない選択は『走って逃げだす』だと経験から学んでいるジェインは、気づいていないという体で歩き続ける。
その後姿をにやけた笑いを浮かべて見つめる男のさらに後ろから、蒸気機関と車の登場で着実に人々の足という地位を失っていっている馬車が、先程までジェインのいたウィン=リー百貨店から出発した馬車が近づいていた。
「見つけましたよ坊ちゃん、彼女ですね。名前は……」
「ジェインだとキャスリンは言っていたと思う、確か双子の妹だと……本当に双子なのだろうか?まるで似ていないと俺は思うが」
「確かに似ていませんね。普通はどちらかの面影があるものですが、どちらの影も見えません」
「…ヒューバードさん、自然に横に停めてください」
男の少し前を歩くジェインの後姿を確認した、赤毛の物憂げで誠実そうな顔立ちの少年は、杞憂なのではないかと思いつつも、ジェインの近くに馬車を停めるように御者のヒューバードに命じる。
命じられたヒューバードは見事な手綱捌きで、自然に、偶然見かけた少女に上流階級の御曹司が、興味本位で声をかけたという演出が出来るように馬車をジェインの少し前に停める。
「やあ」
「ええと…どなた?」
颯爽と降りて不思議と、懐かしさを覚える笑顔を向ける見知らぬ少年に、ジェインは僅かに困惑する。誰だろう?と自身へ身に覚えはないか、脳裏の記憶に尋ねるも、ジェインはすぐに初対面で間違いないと結論を付ける。
ただそれでも不思議と、懐かしさを覚えていた。
「初めまして、だね。俺はジョナサン・ウィン=リーて言うんだ、ウィン=リー百貨店は知ってる?あそこの社長の息子なんだ、君は?」
「あたし?あたしはジェイン・メイヤー、初めましてジョナサン!」
明るく快活な、牧歌のような笑顔で答えるジェインに、ジョナサンは思わず見惚れる。と同時に不思議とジョナサンも同じように懐かしさを覚えた。
「それでジョナサンがあたしに声をかけたのは、何でかしら?実は今から汽車に乗らないといけなくて急いでるの、ほら!こういう時に限って定刻通りに来るじゃない」
「ああ、確かに、不思議と遅れて欲しい時に限って、機関士が真面目な仕事をするね」
「あはははは!本当にそうよね、あれってすごく不思議!何でかしら?」
スズメのような賑やかで可愛らしい笑い声に、もしかしたら後ろを付けて回る男がいるというのは、自分の気のせいなのかもしれない、と思い始めた頃合いでようやく彼は、スカートを握り、恐怖に耐える少女の手に気が付く。
笑っているし、声も明るいし、声も震えてもいない。
それでも、
「それじゃあ間に合うように、送って行く」
「ええ!?それは悪いわ!初対面の、それも殿方にそこまでしてもらうのは……」
「いいんだ、これは俺がしたいんだ。君を送って行きたいと俺は思っている…ダメかな?」
「…ありがとう、ジョナサン!」
この手を握らないといけない。
ジョナサンはそう思い、ジェインの手を握った。