一章【三度の生は慟哭と共に<Ⅹ>】
“ バース駅で保護したジェイン・メイヤーに関する報告をヴィクター・ウルストンクラフト・ゴドウィンに代わり、弟子エドガー・アレクサンダーが致し候。
神経接合手術に関して、当初は長期間に渡って行う予定でしたが、ジェインの常識を逸した精神力により、一か月と言う短期間で全ての施術を終えることが出来ました。ただ接合部に使う魔法合銀が不足しており、代替えが行えない部品にのみ使う事で、消費量を減らすことには成功しました。
しかし、長期的な視点からやはり接合部に関しては、全ての部品を魔法合銀で賄う必要があり、さらなる援助をお願いしたく思います。
なおジェインの様態ですが、四度目の手術で体力と精神力を使い果たし三日を経た現在でも意識は戻っていませんが、ホーエンハイム医師は脈などの様態は安定しており、後は意識が戻るのを待つだけだと診断しております。
当面の予定ですがジェインの意識が戻り、体力などが回復次第そちらへ拠点を移す予定となっております。またジェインの前世の記憶に関しては、そちらへ移動する道すがら詳細を尋ねると師は申しております。
それとジェインの新しい戸籍に関してなのですが、当人は自分の名前はジェインではないと強く拒絶しており、それに伴い改名を予定しておりますので名前が決まり次第、戸籍の用意をお願い致します”
書き終えた便箋を封筒にしまうエドガー・アレクサンダーは、苦笑いを浮かべ、自分は本当に手紙を書くのが下手だと痛感していた。初恋の相手に送った手紙の返信は『人を見下すのも大概にして!』だった時と比べれば格段の上達はしていた。
しかしエドガーは自らを自嘲するのを止めれない、理由はベッドで高熱に浮かされながら眠る、ジェインだった少女である。
彼は、エドガーは今後も言わないのだろう、または言えないのだろう、僕は君を知っていて再会出来て嬉しい。絶望のどん底から這い上がろうとしている少女へ、決して言えない。彼女にとってジェインだった時の日々は、全て苦痛の色一色に染まっているから。
愛した者と親しい者に裏切られ、その死を誰にも悼まれる事無く、悪魔の申し子に仕立て上げられたという、屈辱。そして今までの彼女と彼が抱けなかった怒り、憎しみを抱くジェインだった少女に、過去の話そうものなら逆鱗に触れる事になる。
だからエドガーは言えない、なので心の中で追憶をする。
それは3年前の事。
諸々の問題を抱えて師と共に故郷アルヴィオンに戻った翌日、パトロンからの送金を受け取る為に、ロンディニオン銀行へと足を運んだ帰り道で、一人の少女にエドガーは呼び止められる。
「そこのお兄さん!待って!コッツウォルズのお羊さんみたいな髪の毛のお兄さん!」
「え?僕の事?」
「そうよ!貴方、とってもカッコいい貴方よ!はいこれ、お兄さんのお財布、さっき落としたわよ」
「え?…あっ本当だ!ありがとう」
財布を受け取ったエドガーは、快活な笑みを浮かべてこちらを見る少女を見て『お礼が欲しいのかな?』と思った。
服装は何度も修繕された不格好で、比較して良い生活をしているだけの、労働者の子供に思えたからで、エドガーは財布の中から数ペンス取り出そうと思った直後、少女は予想外な言葉を口にする。
「それじゃあお財布の中身を確認して、もしお金が無くなっていたら…あたしは今、3シリングしかもっていないけど不足している分はそこから出すわ」
「え?何で君が?」
「いいから早く確認!時には急ぐことも良い事って、東方のお日様が上る国の諺にあるわ!ほら早く!」
少女にせっつかれてエドガーは財布の中身を確認して、1ペニーも減っていないと伝えると、少女は我が事のように笑顔を浮かべる。牧歌のような野原を裸足で走っている姿が似合いそうな、スズメのように愛らしく賑やかに笑う少女に、エドガーは思わず疑問に思った事を尋ねる。
何で、お礼より先に僕がお金を失くして困っているか心配したのか?
「だって、お兄さんは自由共和国から来た人なのよね?それなら旅行中にお財布を落としてさらに中身まで無くなったら悲しいじゃない!少しでも楽しい思い出を作って帰って欲しいから、あともしも帰って来たばかりなら、帰国してすぐに悲しい思いをするのはあたしだって嫌だもの!」
少女は純粋に自分を心配してくれていた。
エドガーはそれに驚いた。こんな幼い少女が、と。
その少女は今、かつてジェインだった少女は熱に浮かされながら眠っている。
誰かがその手を離さなければ、きっとあの日の優しい少女のままでいられたのに。しかしそれは過ぎ去った過去で、ジェインだった少女はかつてのようには生きられないことは明白だった。
あの日、絶望のどん底へと落とされた悲劇の日。
自らの人生を喜劇だと嘲わらった日に。
その日からジェインだった少女は豹変した。
表情からは自らの師に負け時劣らずの狂気を醸し出し始め、笑い声は以前のようなスズメのような愛らしさは消え、猛禽類のように獰猛で、笑顔はそれに比例するように狂気を孕んでいる。
まだ牧歌のような顔立ちのままだというのに。
「ううぅ……ここは、」
「良かった!目を覚ましたんだね、本当に良かった……」
♦♦♦♦
関節…いや殆ど関節は無くなったが、とにかく体中が酷く痛む。
術後の高熱は汗を拭く為に濡らした布すら、あっという間にお湯になる程だとヴィクター博士は言っていたが、この一月の間にそれを何度も味わった。自分の知る今までの高熱に苦しんだ経験が、微熱に浮かされていたと思える体験だった。
それとコッツウォルズの忌々しい呑気な羊のような男が、私の目覚めがそんなに嬉しかったのか、今にも泣きそうな情けない面で、こちらを覗き込んできている。まあ起き抜けのヴィクター博士よりは幾分かマシではあるのだが。
「良かった、本当に良かった。今師匠と先生を呼んでくるね!」
「いいよ、ちょっとゆっくりしたい。何より羊のような顔を見て、ここが地獄でないことにもう少し一安心したい」
「地獄?君は地獄には落ちないよ」
「いや、洗礼を受けていないなら地獄行き。占い師の妄言を信じて自分の娘に洗礼を受けさせなかった親が実際にいたからね、まあ私の元両親なんだけど」
キャスリンにはきっちりと洗礼を受けさせたが、私に関しては占い師が『双子の妹の方は姉以上に大切にしてはならない。家が乱れる原因になる』と言ったせいで、洗礼を受けさせてもらっていないのだ。
まあ異端だの犯罪者予備軍だの言われている連中から、洗礼を受けずに済んだのなら、愚かな元両親にはそのことだけは感謝してやらない訳に行かない。ありがとう、あなた方がクズなおかげで私は幸いだ。
「そう…何だ……」
「おいおい、何でエドガーがそんなに悲しそうなんだ?ここは笑う所だぜ、アッハハハハ!てさ、まさにコメディー的な事態なんだぜ?って、何でますます悲しそうになるだい!」
「仕方ないじゃないか、君は喜劇だって笑い飛ばせるけど僕にしてみれば……」
「なら私が代わりに笑ってやろう。もしくはうちの馬鹿弟子はクソ真面目のクソ常識人だから無理だよ?イヒヒヒッ!」
頭に響き渡るこの笑い、ああ来てしまったかヴィクター博士。
「しっかし本当に耐えるとか、せっかく注文していた墓石が無駄になったぞ?クソモルモット」
「フフン、それはそれは、ご期待に応えられなくて申し訳ない。次回もさらにご期待に応えないつもりだからよろしく、それとホーエンハイム先生にも」
「当然の話だが、俺はヴィクター程のへそ曲がりではない。素直に君が無事に手術を乗り越えてくれてホッとしている。それはエドガーも同じだ」
後ろにいたホーエンハイム先生は、その堅物そうな雰囲気とは裏腹に優しい物腰で私に接する。声は淡々としているがね。
それとヴィクター博士は何やら分厚い本を抱えている、一体今度は何の本だろう?
表紙は無く、装丁も素人仕事なのか雑だ。
「おいクソモルモット、私はともかくとしてそこの馬鹿弟子がモルモット呼ばわり、もしくはクソガキ呼ばわりも嫌がるから、新しい名前を決めることにした。これは異界人名録という、転生者が記した異界の名前が網羅された本だ」
「異界の名前?」
「そうだ、当然の話だがこちらとそちらでは同じ発音でも意味が変わる。これはその違いも記している」
成程、表紙の無い分厚い本の正体は人名録か。
そういえば私は名無しだったな。ジェインはあくまで前世の名前で私の名前ではない、時雄も当然だ。今後を考えれば不便極まりないな。
「さてクソモルモット。好きなページと段落を言え」
「そうだね…ふふっ、425ページの5段目だ」
「ほほう……おお、カーラだ。異界のサンスクリット語に由来し、意味は…神話における時間の神格、つまり死の神もしくは破壊の神を現す、らしいぞ?」
「死の神の暗示…カーラか、いいねカーラ。気に入った!復讐を自らの生と定めた私にこそ相応しい名前だ!」
「気に入ってくれて何よりだクソモルモット、さて体調が戻り次第拠点を移動する。なので解熱剤と鎮痛剤を飲んで惰眠を貪れ、もしくは長旅になるから養生しろ」
「ああ、そうするよ」
ここからだ。
ようやく私は始まりに立てた。
ここから這い上がり、私を欺き陥れた者達に全員へ復讐をする。