一章【三度の生は慟哭と共に<Ⅸ>】
メイヤー邸。
ロンディニオンから汽車で2時間から3時間程の距離にあるバースの中心部から、少し離れた静かな場所に建つ、一応はロンディニオン銀行創業家の、本家の、お情けで当主とされているディラン・メイヤーの邸宅は、まあそれなりの家ではあった。
ロンディニオンの郊外にある本来のメイヤー邸は、叔父であるヴィンセント・フロスト・メイヤーが先代総裁でディランの父親のコリン・メイヤーから、
『馬鹿息子に住まわせるくらいなら、ヴィンスにやる。無理なら売り払え』
と言ったものだから、ヴィンセントは渋々住んでいて、ディランは恨み恨んで未練塗れまみれで現在の、メイヤー邸に住んでいる。それでも父と祖父が幼少期を過ごした邸宅なので、格式としては本家邸宅に劣ってはいない。
ようはディランの器の小ささが、物の価値の正鵠を射れないだけなのであった。
それは妻であるキャロルも一緒だったが、不思議な事にジェインは『素敵なお家だわ!色んな所に仕掛けがあって楽しい!』と、正確にこの家の価値を理解し、姉のキャスリンもまた現在なら理解している。
以前は理解していなかったが、現在はその利便性と先代、先々代の狡猾さで改装した邸宅の、素晴らしい機能の数々に心を踊ろせていた。
「では、こちらに署名を」
「もちろんだとも…これで俺はウィン=リー百貨店の社長だ」
「悪い、とは?お兄さんに対して思う事は?」
「兄貴は善き社長だ、今は悪い社長が必要だから俺だ。安い舶来品の増加で、安さを売りにする百貨店は乱立しているんだ、経営方針の転換は必要だから俺が社長なのは自明の理だろ?」
「確かに、我がロンディニオン銀行は貴殿の様な先見の明と、手腕を持つ傑物に投資する事を惜しみません。是非とも軌道に乗せてください?融資はいくらでも」
無用な調度品と不要な調度品と、素晴らしい調度品がぐちゃぐちゃに混ぜて詰め込まれた一室で、如何にも高圧的な小物然としたディランと、ジョナサンの叔父だけあり赤毛で物憂げな顔立ちの、狡猾な顔立ちのジョシュア・ウィン=リーが契約書を挟んでソファーに腰を掛けていた。
今日は融資の契約を結ぶために、片方は自分のしでかした大失態の後始末に奔走する叔父の目を盗んで、もう片方は甥っ子に唆されて兄に反旗を翻す為に、密談の場を整えて今、お互いに署名を書き終える。
その様を素晴らしい調度品に設けられた覗き穴を通して、隣の部屋から覗き込むキャスリンは内心で、
(きゃは♪爆釣~♪爆釣~♪爆釣~♪馬と鹿が雁首揃えて密談!これってまさに馬鹿って事かしら?)
と楽し気に父親と婚約者の叔父を嘲りながら眺めていた。
片方は自分に不当な苦しみを与える、分家であるフロスト家から祖父と父によって、本家の養子として迎え入れられたヴィンセントへの反逆の為に、もう片方は自分は兄以上に出来るという、思い込みに裏付けされた自尊心からの反逆の為に。
自らの意思と覚悟で、と思い違いをしている様がキャスリンには面白おかしくて、今にも舌舐めずる蛇のように、お腹を抱えて笑いだしたい気持ちで、二人の滑稽な様を眺めていた。
全てを整えたのはキャスリンで、この二人が胸に抱く反逆心もまたキャスリンが仕立て上げたもの。ほんの小さな心の淀みを、耳元で甘く囀るように騒ぎ立て、掻き立て、煮詰めて、整えて今のこの場の密会である。
五歳の頃、キャスリン・メイヤーという存在を蚕食したあの日から、キャスリンに成り代わった者はその家の悪しき令嬢として、いるかもしれない他の転生者に感づかれないように、周到に用意して来た。
そしてほんの一か月前のバース駅で妹を殺したあの日から、キャスリンは一歩ずつ攻略に向けて動き始めていた。妹を殺し、ジョナサンとロベルタを共犯者として抱き込み、今はジョナサンとの婚約に反対する、ジョナサンの父ジョージを排する為の策略を進めている。
(これで実質、ウィン=リー百貨店はジョシュアの私物だけど、だけど、だ・け・ど♪無能と低能の中間男だから、適当に褒め称えれば楽に操れる。財布も今度からはアタシのお財布。入学金はこれで目途がたったわ、残すはロベルタの分♪)
本来ならこの場に乗り込んでくる筈の、耳聡いヴィンセントは便宜上、ディランが引き起こした国営放送を用いて、静かに悼むべき娘の死を嘲るという醜態の、その火消しの為に奔走していて手が回らず。
ジョージはジョージで、ロンディニオン銀行からの融資目的の為に自分の息子を、知る人ぞ知る馬鹿息子と、その悪しき令嬢に差し出したという作り話を、弟によって会社中に宣伝され、さらに信頼していた会社の役員に責任を問われ、辞任もやむを得ない状態で動けず。
(今はアタシの思惑通り、でも次は?その次は?次の次は?下手に干渉し過ぎて、ゲームと違う展開に行くのは面倒よね~エァルランド問題とかあるから、下手に今から皇子攻略に乗り出さない方か無難。実際、干渉し過ぎて一部ゲームと違い過ぎる展開になってるしね~)
同時にどれだけ順調に物事が進んでも決してキャスリンは驕らず、慎重に、謙虚に、悪辣に、狡猾に、父親を介して妹が確実に死んだと確信を得ていても、キャスリンは石橋をたたいて渡るように次を見据えている。
今はまだチュートリアルを終えただけで、本編はまだ先だと。
キャスリンがそう結論付けると同時に部屋の戸を静かに叩く音が響く。
「キャスリン様、朝食の準備が整いましたよ」
「ロベルタ♪今日朝食は何?何?何?」
「上等なベーコンが入ったのでベーコンエッグ、ベイクトビーンズ、焼きトマトとマッシュルーム、それとポテトスコーンですよ」
「そう!そう!そう!いいわねベーコンエッグ、わたしもベーコンエッグ好きよ!さあ行きましょう」
毎月の給料に数ポンド上乗せをした程度で、あっさりと自分へ鞍替えして従順に使えるロベルタに先導され、部屋を出たキャスリンは心を躍らせながら廊下を歩き食堂へと向かう。
ジェインといた時と同じで、自分に対しても同じように笑顔を向けるロベルタに、その後姿を見つめるキャスリンは、
(ああ…反吐が出そう。ロベルタって本当に吐き気を催す愚かな女よね…でもまあ、そこが可愛らしいしのだけど、こういう場合はなに可愛いだろ?)
内心でそう罵り、想う。
同時に婚約者にも同じような思いを向けていた。
ジェインをあっさりと捨てたジョナサンに対しても、
(まさかあいつが彼だったなんて…ああ、ロベルタ以上に吐き気がするわ。物憂げな赤毛の美男子♪一目惚れしたけど…憎愛よねこの感情は?好きだし、愛しているし、慕ってるし、憎んでる、変な感情よね?よね?よね?)
ロベルタと同じように、いやそれ以上の愛情と増悪を抱いている。
愉快と不愉快の中間の感情を抱きながら、笑顔を顔に張り付けるキャスリンはふと、決して拭い切れない感覚に思いを馳せる。
(でも…何でかしら、双子だからかしら?貴女は…生きてるの?ジェイン。もしそうなら、貴方はアタシにどんな感情を抱くのかしら?何時だって、模範解答ばかりで、一方的に踏みつけられてきた貴女が、どんな感情を抱くのかしら。もしかたしたら……)
キャスリンは歩みを止めて窓から見える、どんよりとした曇り空を見つめて、いずれ来る未来へ思いを馳せるのであった。