木々のお喋り
玄関は、これまでとは対照的に至って普通の玄関だった。鎖が巻かれてもいなければ、喋るぬいぐるみもいない。ただ木製の扉と、靴箱がある。
逆にそれが不気味と言えば不気味だったが、そんなことを言い出してはキリがない。
「鍵、かかってないよね」
少女は手を握ったままの少年に、不安げに問いかける。ついさっき、ドアを開けようとしても開けられなかったことを思い出したのだ。
すると少年は、少女の手をそのまま扉の取っ手へと導いた。導くと言うより、クレーンのように持ち上げて乗せたと言う方が正しいかもしれない。
「開けろってこと……?」
少年はなにも言わない。
(……自分で開ければいいのに)
しかし拒むようなことでもない。されるがままにひんやりと冷たい取っ手に手をかけ、外側へ押し出した。
一歩、外に出る。
とたんに、家の中の狭苦しさが際立った。暗い暗い森の中。開放感と同時に、底知れない恐ろしさがふつふつと沸き上がる。
木々がざわめいている。月明かりは見えない。背後から漏れるかすかなランプの明かりだけが、光源となっていた。
「本当に、ここってどこなんだろうね?」
振り返らずに呟く。少年に言ったところで、答えなどないのは分かりきっている。
「……」
バタンと扉が閉まる音がした。少年は少しの間、扉を開けたままにしていたようだ。もしかすると、なにかを見張っていたのかもしれない。
少年が少女の前へ回り込んだ。
その口許だけが見える。何だろうと思っていると、少年の口許がゆっくり動いた。
き を つ け て
「気を付けて?」
少年がくるりと背を向ける。有無を言わせない調子だった。何に気を付けるのか理解できず、少女は焦って質問を重ねる。
「ねえ!何に気を付けるの?」
「……」
「どうやって気を付けるの?」
「……」
「ねえ!」
中途半端に情報を与えられるのが一番怖い。
少年がなにも言わないことに苛立ってしまい、少女はつい声を荒げた。
「教えてよ!喋れないんだったら……文字でも何でも使えばいいじゃん!無視しないで!」
少年が肩を揺らす。
振り返った少年の口は、ぐっと引き結ばれてへの字を描いていた。悲しそうにかぶりを振り、その口をぱくぱく開閉する。
か け な い
「え」
かけない。書けない?少年は話すことだけでなく、書くことさえもできないのか。男の子らしい、けれど幼い手。少女を握るこの手は確かにあると言うのに、その両手は文字を書くことも能わないのか。
どんな事情が、この少年にのし掛かっていると言うのだろう。
少女はいたたまれなさでそっと目を伏せる。
(……可哀想な子なのかな)
改めて少年を見る。今見るとフードはボロボロだ。あちこちすりきれ、今にも破けそうになっていると言うのに、不思議とその奥の肌は見えない。
「……ごめん」
い い よ
そう言ったきり、少年はまた少女に背を向ける。
結局何に気を付けるのか分からないままだが、格段に聞きづらくなってしまった。
……またチャンスがあれば聞き出そう。
今はとりあえず、引かれた手を頼りに進むことにした。肌を撫でていく風は冷たい。スニーカー越しに伝わる枯れ葉の感触が妙にリアルだった。
森の中は暗く、寒く、ひっきりなしに何かの声が聞こえていた。しんと静まり返っていた家の中とは大違いだ。自然を感じるけれど、だからこそ野性的な怖さがある。
少年がいることでいくらかマシになっているが、いなくなってしまったらと思うとゾッとする。
繋いだ手に力が込められたのが分かったのか、握り返してくれる感触が伝わった。無言でひたすら歩く。ちょっと険しい。長い道のりに、少女はこっそりため息を吐いた。どこに向かっているのか……せめてそこだけでも教えてくれたら。
少年の後ろ姿を見つめるが、少女の思念は届きそうになかった。
ざわざわとさざめく木々。少女に届く声なんてそのくらいだ。自棄になったような心地で、何気なく傍らを見上げた。
「!?」
見上げて、少女は目を驚愕に染める。なぜなら「目」が合ったからだ。たくさんの木々。意思が宿らないはずのそれは、様々な表情を湛えて少年少女を見守っている。
「おやおや、気づいた?」
「気づいた?」
「出たんだね」
「出たんだ」
「あそこが一番だと思うけど」
「でも」
「出たんだね」
複数の声が一気に少女の耳へ届く。物言わぬ木々の葉擦れの音と思っていたものは、正しく木々のざわめきだった。
「うそ……」
少年に目を向ける。意外にも、少年は立ち止まって上を見上げていた。かなり急な角度なのにフードはずれない。
少年の様子に名前をつけるとしたら、「やれやれ」だった。
「木……だよね……?」
少女は少年へ確認を求める。こくんと少年が首肯する。イエスノーがはっきりわかるのはありがたいが、贅沢を言うならもう少し詳細な説明がほしかった。
木はおかしそうにおしゃべりを続けている。
「しばらく来ないと思うけど」
「いいの?」
「いいの?」
「また来ちゃうよ」
「だから」
「あの部屋に」
「あそこにいれば良かったのに」
「まあここにいるのなら」
「ここにいるのならなんでもいいけどさ」
おしゃべりの内容はてんでわからなかったが、何となく「あの部屋にいれば良かったのに」と言われていることは分かった。
……ウサギのいる部屋。
正直なところ、頼まれても戻りたくない。
「……あんな部屋やだよ」
反感のまま呟くと、木々にいっそう大きなざわめきが起こった。
「そうなの」
「そうなんだ」
「まあずっといたからね」
「嫌になるかもね」
「ウサギの腹の中」
「狭いし」「狭い」
「苦しい」「苦しい」
「静か」「静か」「しずか」
「じゃあ次はいったいどこに向かう?」
「どこでも」
「君の好きな逃げ場を」
「あの音から、あのことから、逃げる道を」
少年が少女の手を振りほどき、一本の木を掴んだ。フードの下から銀色の何かが現れる。
(え、ナイフ?)
ざわざわとうるさかった木が、一斉におとなしくなった。
「…………その、ナイフって……」
少女が少年へ一歩近づく。少年は手で制した。
その事に少しムッとする。
「ナイフ振り回すのって、危ないんだよ」
木々をかばうように立つと、味方が現れたと見てか木々が色めき立った。
「そうだ」
「そうだ」
「そうだ」
少年はちらりと少女を一瞥すると、構わず銀色の刃をひらめかせる。
「ちょっと!!」
少女が肩を怒らせた。少年のナイフを奪おうと右手を伸ばしたときだった。
ヒューーッ!
突然、激しい突風が吹く。突風は木々と少女と少年を揺さぶり、砂塵を巻き上げる。
「なに……!?」
ふと視界に入った木々は、恐怖の表情を浮かべていた。風の合間合間に、断片的に言葉が聞こえる。
「壊す……を……」
「また……を壊しにき……」
「……が来る」
「……来て……しまう」
「何か来る……?」
少女は呆然と空を見上げる。なにか嫌なものが「来る」。
ゴォオオオァオオオオオオオァオオオオッッッッ!!!
「……ッ!」
この知らない世界で初めに聞いた音。びりびりと鼓膜を殴る重低音。
少女が耳をふさいでもなお聞こえる音。
「怒ってるよ……」
……それは、怒りの咆哮だった。
木々はお喋りなので、色々と重要情報を漏らします。
少年の正体のヒントも少し。