価値観
暗い部屋、彼女のために与えられた寝台は、肌触りも良く、彼女を優しく受け止めていた。
そんな感触を堪能することもせず、彼女は眼前の男をじっと見つめる。
日はとうの昔に沈み、月が天高く昇っている。室内の明かりは、蝋燭が一本だけ。室内の空気が動く度に、頼りなく揺れていた。
こんな時間に、男女が寝台の上に居るとなれば、どんなに鈍いものでもその状況を理解するだろう。
だが、二人の間に、甘い空気など欠片もなく、男は冷ややかな目で彼女を見つめ、彼女も、鋭く男を睨んでいた。
男が彼女の部屋を訪れたのはつい先程。彼女とて、この可能性を考慮しなかったわけではない。
というか真っ先にそれが浮かんだ。
だが、彼女は何でもないように振る舞って、男を招き入れた。
それを望んだわけではない。ただ、それが互いにとってどんなに無駄なことか、知らしめてやろうと思ったからだ。
そうして今、彼女の想像通り、男の予定通り、二人は寝台でみつめあう。
彼女は下から、男は上から、冷たく鋭く、互いを見る。
そして、沈黙の末、口を開いたのは彼女だった。
「どういうつもりですか?」
声音は優しく、表情は笑顔だったが、その目は男を探るように見つめる。
対して男は、表情を変えることなく、たんたんと告げる。
「この状況で分からない程馬鹿じゃないでしょう、あなたは」
そんな挑発的な言葉、彼女はさらりと受け流す。
「ええ。大方、私をここに留めるため、とかなんとか先走った結果でしょうね。こんなことをしても、意味などありませんよ」
もちろん、やり返すことも忘れない。
男も男で、大して気にした様子もなく、頷く。
「ええ、知っていますよ。あなたはこの程度のことなら気にも留めない。けれど、重要なのは過程ではなく結果です」
そう言って、男は自身を支えていた両腕の内、左だけを動かして、彼女の下腹部に触れる。彼女の視線が、より剣呑なものになる。
「ここに、子が宿れば、例えあなたが気にしなくとも、私の周囲が黙ってはいない。その子はあなたの子である前に、私の子でもあるのだから」
彼女は、少しだけ驚いたように目を見開く。男は続ける。
「別に、今日の一度で出来るもんでもないとは知っていますけどね、少なくとも一ヶ月はあるんですよ。そう低い可能性でもないでしょう?」
淡々と、ただ淡々と、当たり前の事実を告げる。確かに、普通の女性ならば月一回は必ずくるのだ。一ヶ月、それはそう長くはないが、そう短い時間でもない。
そして、恐らく彼女は拒まない。男には、そんな確信があった。
「……」
彼女は、しばらく沈黙して、
「ふっ」
笑った。それが切っ掛けになったのか、彼女は笑い出した。可笑しくて堪らないとでも言うように、腹を抱えて、目尻に涙を浮かべて、ただ笑った。
「…あー、可笑しい」
そして、ひとしきり笑って満足したのか、彼女は口を押さえていた両手を伸ばし、男を押し退けて上半身を起こす。男は、そう抵抗もせずにあっさりと退いた。
月明かりに、彼女の銀の髪が照らされ、きらきらと輝く。
「無駄ですよ」
彼女はそう、静かに告げた。
「例えあなたが一ヶ月間、毎晩通い詰めたとしても、ここに命は宿りません。絶対に」
その口調は優しく、ただ諭すように言葉を紡いだ。
「どういうことですか?」
男は問う。彼女は答える。
「私はね、子を宿せないんです」
彼女は、何でもないようにさらりと告げた。いや、実際、彼女にとっては大したことでもないのだろう。しかし、男の方は少なからず驚いたようだ。
「…病かなにかですか?」
そう聞く声は、少し震えていた。
彼女は、男のそんな様子に、少しだけ愉快に思った。
「直接の関係があるわけではありませんが、原因自体はそんなところですね」
━━でも、
と、彼女は続ける。
「そんなことはどうだって良いんです。重要なのは過程ではなく結果、でしょう?」
先程の男の言葉をなぞって、悪戯っぽく笑う。
「あなたの言う通りです。そこに至るまでの過程がどうだろうと、今あるのは結果でしかない。この場合では、私は子をなせない。それだけでしょうね」
そう言う彼女の表情に、悲壮感はない。
「随分…明るいですね」
彼女の態度に、男は疑問を抱く。彼の育った環境を考えれば、当然のことだろう。
彼の周囲で、子をなせない女の価値は低かった。たったそれだけのために、勘当された女を多く見てきた。彼女たちは、総じて悲しそうだった。
しかし、ここに居る彼女は違う。
大して気にした風でもなく、隠そうともしない。
「そりゃあ、好いた人との子が出来ないってのは悲しいですけど、それでも下手に縛られる可能性が減りましたし、存外楽ですよ」
笑いながら、軽く皮肉を吐く。そしてその顔からは、嘘でも虚勢でもなく、本心からの言葉であることが察せられた。
「……」
男が何も言えずに黙っていると、彼女は男を押す。
「さあさ、意味がないことは良くお分かりになられたと思いますので、さっさと退いて下さい。今は夜なんです。私はさっさと睡眠をとりたいんです。安眠妨害は止めて下さい」
そう言われてしまえば、男の方も諦めるしかない。彼女が嘘を吐かないことは良く分かっていたし、何よりこの行為に関しても本当なら拒否したかったのだ。これも戦力確保のためと割り切って仕方なくここまで来たのだ。
だが拒否するための正当な理由が出来た以上、断行する必要もない。ついでに言うなら連日に渡って行われた、夜を徹しての会議のせいで眠気も限界に近い。そんな中で出した結論は単純明快であった。
(…まあいいか)
そう心の中で呟いて、思考をストップさせる。そして、彼女から少し離れ、広い寝台の隅に寝転がり、目を閉じた。
「…?」
一方彼女は、急に動きを止めた男を不審に思い、そっと様子を伺う。しかし、既に眠りに落ちたことが分かると、諦めたように脱力し、寝台から降りて天幕を下ろし、燭台をそばにある机の上に置き、読みかけだった書を開く。
先程はああ言ったが、本来彼女に睡眠は必要ない。
それだけではない。食事も、休息も、一切の生理的な欲求は消え去った。
(仕方なかった。それでお仕舞い)
彼女は生きることを望み、人を捨てた。それについて後悔はしていない。間違っているとも思わない。
(価値観は人それぞれ。それこそ星の数ほどあるんだから、理解されたいとも思わない)
「化け物だろうと、構いはしない」
そう呟いて、彼女は書に意識を沈めた。
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