意地悪な運命
赤羽はとにかく走っていた。
別に、交番に駆け込むとかまではしなくてもいい。
ただ、人目につくところにさえでればそれでいいのだ。
そうすれば、相手がいかに拳銃を所持していようとも、そうそう発砲などできやしないのだから。
そうと信じて、がむしゃらに走り続けていた。
問題なのは持久力である。
自室から教室までを走るだけでも結構な消耗なのだ。そんな赤羽が、このいつ終わるともわからない逃走劇にどこまでもつのか。お世辞にも不安がないとは言えない。
しかも、死と隣り合わせであるという極度の緊張で呼吸が嘘のようにままならないのも迷惑な話だった。ましてここらは勝手の知らないあたりだ。不安が助長されていく。
ただそれでも、来た道を戻るくらいの余裕や冷静さを失ってはいけなかった。
五里霧中と言わんばかりに迷走した挙句、気付けば全くもって人気のないどこかの路地裏の最深部のようなところに来ていた。もちろんここがどこかなど知る由もない。ただただ仕方なく、そのまま目の前のL字路を惰性のように突き進むしかなくなる。
そうして道なりに曲がったその先に待ち受けていたのは、ゆうに3メートルはありそうな柵だった。
いわゆる袋小路だった。
立ち塞がる柵を下から舐めるようにして見上げてみる。
時間をかけさえすればどうにかよじ登れないこともなさそうだが、今はそんな余裕などどこにもない。
引き返すしかない。迷っている時間すら惜しい状況だ。体中から沸々と滲みだす汗をぬぐいながら、仕方なく回れ右をして、今来た角を引き返すことにした。
そうして角を曲がった瞬間、目の前に顔があった。向こう側からも誰かが迫ってきていたらしい。互いに慣性力を完全に殺すことなどできず、まるで引き合う磁石のようにそのまま突撃してしまった。
「痛てて……」
「っ……」
尻餅をついたまま前方に目をやると、まるで鏡でも見ているかのようにほぼ同じ体勢で同じ所作を行う、しかしそれでいて違う格好をした人物がいた。
ニット帽に、ゴーグルに、ジャージに、おまけに少し離れた場所に放りだされた大きな包み。その身形でそれとわかる。
紛れもなくこの人物は、あのニット帽のサンタだった。
食い入るような視線に気付いたのか、当のニット帽のサンタもおでこを押さえながら赤羽に顔を向けてきた。
そこで、ニット帽のサンタは呆けたように口を開きつつ、そのままど動こうとしなかった。じっと、ずっと顔を向けている。
「……お、……あ」
成人男性の発するような低い声にそぐわない、狼狽とも硬直ともとれる様子だった。
一体どうしたのかと思ったが、経験則からしてすぐに合点がいく。
このサンタもまた、顔に刻まれたこの十字の傷を見て、きっと驚いているんだろうな、と。
そう思い当たると赤羽は、ついつい反射的に顔を逸らしてしまう。それが癖となっていた。
そんなことをしているうちに、騒がしい足音や話し声が、ビルの狭間の奥から伝わってきた。緊張が息を吹き返す。
この先が行き止まりなのはたった今確認したばかりだ。つまり、退路は閉ざされているに等しい。そして赤羽たちがいるこの場所までは一本道。まさに袋の鼠である。
気付けば、すでにニット帽サンタは立ち上がって、赤羽に背を向けていたが、赤羽は腰が抜けたように立ち上がることができないでいた。その様子をニット帽サンタはチラチラと横目で確認している。歯噛みすらしているように見えた。飛んで逃げようにも、赤羽を捨て置けないとでも言わんばかりに。
まもなく3人組が姿を見せた。廃墟の地下で見た黒服らと同じ服装で、そしてその手にはやはり拳銃を構えている。
この状況で赤羽に許された権利といえば、もう目を瞑ることくらいだけだった。
そうして耳を劈く独特の音がまずひとつ、容赦なく裏路地を駆け抜けていった。
……あれ?
痛くない。何でもない。
もう何秒かは経っているのに。どうしてだ?
代わりに、いつの間にか台風のときのような突風の音が聞こえている。
いったい何がどうなっているんだ?
勇気をだして瞼をゆっくりと開けてみる。そこで赤羽は、視界に広がる光景に度肝を抜かされた。
そこには、赤羽とニット帽のサンタを取り囲むようにして、空気がにごって見えるほどの高速回転で上空へと伸びる螺旋状の渦巻き、つまり竜巻が発生していたのだ。
まず間違いなくニット帽サンタの所業だろう。
あまりに突然のことに、下から上へと伸びる渦を辿るように自然と目が動く。そんな様子を横目で見ていたニット帽サンタに気づくと、ニット帽サンタはそそくさと正面に向き直った。
対する黒服らは、銃弾を防ぐほどの竜巻のいきなりの登場に驚愕を漏らしつつも、どうにかそれを突破しようとして、3人ともがむやみやたらに残りの銃弾を乱射していた。
だが、風より生まれた竜の渦は、そのすべてを飲みほしていく。けしてふたりには届かない。
ほどなくして、3人の拳銃から銃弾が尽きたらしく、3人がさらなる狼狽を見せる。
その瞬間をニット帽サンタは見逃さなかった。
不思議な力で生み出した竜巻きを一気に霧散させると、地面を滑るようにして黒服らまで一瞬で詰め寄り、そのうちのふたりをあっという間に体術で気絶させた。
それを目にして、残りのひとりがニット帽サンタから距離を置こうと後退をはじめ、やがて反転してそのまま逃走を図る。
ニット帽サンタはその背中に向かってゆっくりと右腕を差し出した。
するとどうしたことか、黒服はまるで背中から見えない何かに押し出されたかのように足を浮かせて吹っ飛び、そのままの勢いでビルの壁に打ち付けられたのだった。
もはや気絶しているようで、重力にしたがって壁沿いに崩れ落ちていく。
脅威を一掃したニット帽サンタが、ふぅ、と一息入れる。
そして赤羽に振り向くと、無言のまま、ゴーグル越しに、ただじっと見つめているだけだった。まるで、これから赤羽をどうしようか、どう処遇しようか、それを悩んでいるかのように。
いずれにせよ、赤羽を殺そうとした黒服らを代わりに撃退してくれた以上、ニット帽サンタが──ニット帽サンタも赤羽の命を狙うとは思えない。
そんなことを頭の片隅に思いながら、今度こそ赤羽は立ち上がった。
とりあえず感謝だけでもしておこうと思った。さっきの様子からして、どうやら日本語も通じるようだし。
そうして赤羽が「ど、どうも、助けてくれて、ありがとうございました」と握手の姿勢をとりながら、棒立ちのままでいるサンタの元までゆっくり歩み寄る。
が、予想に反して、ニット帽サンタはその手を握り返そうとはしなかった。視線を向けたのか、かすかに首は動いたようには見えたが、ただ手を差し出す素振りはまるでない。
何か、不手際でもあっただろうか?
と、そう戸惑っているそのとき。
銃声が、ふたりを阻むように空気を裂いて飛来してきた。
銃弾の接近に感づいていたのか、ニット帽サンタは銃声とほぼ同時にその場から後ろに飛びのける。案の定、まったく予見できていなかった赤羽がそうと気づいてから慌てて後退したときには、ニット帽サンタのいたそのすぐ近くに小さな穴が生まれていた。その事実に、たまらずもう一度腰を抜かしてしまう。
ニット帽サンタはすぐに警戒態勢に入り、そのまま今の銃弾の軌道にそって視線を斜め上に送る。赤羽もそれに倣って見やる。すると、すぐ両脇にそびえ立ったビルの窓辺から、狙撃の失敗を悔やむように歯軋りをする黒服の姿がそこにあった。
ニット帽サンタには、その眼に装備しているゴーグルによって知り得ることができた。黒服のその右手に携えているのが、奇怪な形状をした『FN P90』と呼ばれる機関銃だということが。
『FN P90』は一風変わった機関銃で、専用の弾丸しか装填できないのだが、その弾丸は一発で防弾繊維すらも貫通してしまうほどの破壊力を有している。しかもその弾丸は重心の関係から体内に侵入すると貫通せずに暴れ回り、必要以上に体内を損傷破壊するという。まさに殺意の権化とも呼ぶべき兵器なのである。
そうと理解した瞬間、ニット帽サンタは今までが嘘のように、飛び跳ねる豹のように赤羽との距離を詰め、だらしなく放りだされたその左脚を掴み、続けざま右手で放置されていた大きな包みを掴むと、「え? え? え?」とどぎまぎしている赤羽をよそに、さきほどキングキャッスルにて披露していた風の球状の結界のようなものを自分の周囲に展開して、そのまま打ち上げ花火のように真上に飛翔したのだった。
黒服は再び銃を構えるものの、手にしている『FN P90』が保持する特有の、軌道力や瞬発力に欠ける形状が邪魔をして、素早いニット帽サンタに照準が追いつかないでいた。たちまち射程距離からも外れ、空の彼方に消えていく赤羽らをただ見つめる他なかった。
握りしめた銃をさらにきつく握りしめながら、思い切り歯軋りをした。
そんな黒服が砂粒よりも小さく見えるほどの上空にまで赤羽らは来ていた。
黒服から十分遠ざかったこともあって、上昇速度が徐々に緩んでいき、いくらかして風の球状の結界も解除される。
途端、冬の冷気よりもさらに冷たい風が赤羽の肌に染み込んできた。あり得ないほどに寒い。
同時に、エレベーターでよく起こるような耳の不快感にも襲われた。
そのうえ、なんとなく呼吸もままならない。
そもそも、ニット帽サンタには左脚を掴まれているだけの状態なので、上下逆さま状態だ。
物の弾みではあったが、赤羽は今、空を飛んでいる。
6年前にサンタクロースの存在を知ったあの日から夢に見ていた飛行という体験が、ひょんなことがきっかけで、こうして実現したのである。それも、当のサンタと一緒というおまけつきで。
ただ、命綱もパラシュートも身に着けず片足を掴まれているだけの状態というのはどうにも我慢ならない。というか、恐怖でしかない。ニット帽サンタがうっかり手を放そうものなら、それだけで死んでしまうではないか。
加えて寒さや息苦しさなどもある。正直、楽しいことはひとつもない。
もはや地面が恋しくてたまらなかった。
そのように赤羽が考えているところに、決定的な出来事が起こった。
逆さまの状態になっていたことで、赤羽が常に首からぶら下げている紐が徐々にずれ落ち、そして、そうと赤羽が気付いたときには、もう遅かった。
「あっ──え、嘘だろ、待て、待てってば!」
せめてひもさえ掴めれば、と限界まで右腕を伸ばすも、掴んだのは空気だけであった。
ふたつの指輪は、互いに離れることはなく、しかし月光を帯びて輝きながら、逃げるように赤羽の元を去っていった。
ただそれでも、今から下降すれば、まだ何とか見つかるかもしれない。
「ちょ、降ろせ、降ろしてくれって!」
一縷の望みに期待をするが、事情を知らないサンタは聞く耳を持たず、それどころか顔すら向けてこない。完全に無視を決め込んでいる。
たまらず、「降ろせって言ってるだろ!」と、足が固定されているので上半身を起こして訴えかけた。
すると、ニット帽サンタが重い口を開いてこう言った。
「……お願いだから、静かにして」
それは、どことなく苛立ちを覚えているような口調に感じられた。
成人男性の、割と高めの声。
にもかかわらず幼げな言葉遣い。
そして苛立った口調。
それらが交じり合って、奇妙な迫力があった。赤羽の反抗心が萎える。
次の瞬間、ニット帽サンタは何を思ったのか、赤羽の足首にあったその手を自ら放したのだった。
「え。 あ、ああああっ! ……あ、あれ?」
指輪に続いて、今度は赤羽が落下するハメになる──と思いきや、そうはならなかった。
どういう理屈でそうなっているのかは見当もつかないが(とはいえ、ニット帽サンタの力には間違いないが)、赤羽は今、完全に独りで空に浮いている状態にあった。
考えてみれば、さっきだってペットボトルを浮かせて発射させたりしていたのだから、その応用で人を浮かせることもできるのかもしれない。その考えが頭から抜けていた。
とはいえ、完全な自由でもなかった。
むしろ、完全に不自由でしかなかった。
ニット帽サンタの力で浮かんでいる以上、自分の意志では上昇もできなければ下降もできず、前後左右への移動すらできない。
あのペットボトルと同じと考えれば、もはや完全に『物体』として扱われているのだ。これでは指輪を追いかけることなどできるはずもなかった。
いったいどういうつもりだろうかとニット帽サンタを見やると、そのゴーグルの左眼の部分に異変が起きていたことに気づいた。あたかもその内部に光源があるように、琥珀色の光が灯っているのだ。
それが次第に、光の強さが増していく。色味が鮮明になっていく。
赤羽は妙な予感がした。
ニット帽サンタは今、確実に、自分に対して何かをしようといている。
それがいいことなのか悪いことなの、それはかわからない。
説明も一切ない。ただいずれにせよ、自由を奪われている赤羽にはそれを受け入れる他に選択肢はない。
そしていざニット帽サンタが左手でその両目を覆っているゴーグルをずらし上げようとして、──その動きが直前で止まった。
見れば、その手が震えていた。特に何もしていないはずだが、呼吸も妙に荒々しくなっている。なにより、そのこと自体にニット帽サンタ自身が戸惑っているようにすら窺えた。
「お、おい、大丈夫……か?」
反射的に身を案じる言葉を投げかけていた。
ただ、それがいけなかったらしい。何かの地雷を踏んでしまったのか、ニット帽サンタは突然、自嘲気味に小さく笑いだしたのだ。
「……おかしいよね。こっちができないなんて。あっちはできたっていうのにさ」
赤羽には、その言葉の意味が全く持ってわからない。だから何も言えない。
それでも、涙すら流していそうな口調から察するに、何か辛い思いをしているということだけは伝わってきた。
「なら──こうするしかないか」
すると突然、赤羽の体がまるで見えない糸で手繰り寄せられたかのようにニット帽サンタへと接近を始めた。
何事かと思う暇もなく、赤羽はニット帽サンタの手刀によってうなじ辺りに不意の一撃を喰らわされ、そのまま意識を失った。
***
こうなってしまった以上はもうどうしようもない。あのサンタと同じように空でも飛べない限り、どうにもできない。
任務は失敗に終わったのだ。
認めたくはなかったが、黒服はその事実を素直に嚥下するほかなかった。
そして、潜んでいたビルから先ほどニット帽サンタと赤羽がいた、その路地裏へと姿を移す。サンタに無力化されて転がっている仲間たちの介抱のためと、逃がしてしまったサンタを追跡できるほどの、何かしらの痕跡がないかを探すためである。
気絶した3人を横に並べる。3人からはこれといって目立った外傷も見当たらなかった。呼吸も落ち着いている。
しばらくすれば増援が到着し、3人を連れていくだろう。そして自分も撤収しなければならなくなる。
それまでにはなんとしてでもサンタの痕跡を見つけださなければならない。そうでなければ──。
ろくな明かりも灯っていない夜の路地裏での探し物。しかも、それが本当にあるかどうかもわからないのだ。
それがどんなに無謀で期待薄なのか、少なからず理解している。
胸が締め付けられるような焦燥感と喪失感。
それらが合わさって生まれる恐怖。
頭をよぎるイメージを払拭するため、黒服は首を振り、握りこぶしを作っていた。
そこで、妙な音を聞き取った。
何かが地面に落ちてきたような、そんな音だった。
音のしたほうに目をやると、鈍い煌きが目に飛び込んできた。歩み寄り、拾ってみる。
「これは……」