十字の絆
柊にやってきた当初の常盤は、言ってしまえば今とは真逆の少女だった。
柊に姿をみせたときから一貫していて、基本的に笑うことはなく、無表情で、しかも無口。ただし瑠璃に話しかけられたときだけは例外のようで、聞かれたことについては一応業務的にしゃべる。
ただそれだけだった。
そんな常盤が普段何をして過ごしていたのかというと──柊には、裏庭にあたる場所から斜面を下にくだっていくと山々の間隙を縫うようにして蛇のようにうねる渓流が通っているのだが、誰にも告げずに、なにかとそこにひとりで向かうようになっていた。
単純にひとりになりたかっただけなのか。
それとも、赤羽や瑠璃と必要以上に関わりたくはなかったのか。
そのあたりの事情は、打ち解けた今も正確なところは明らかにはなってはいない。
いずれにせよ、渓流に連なる大きな石のひとつに膝を曲げて座って、ただただ川の流れを黙々と眺めているということに一日の大半を費やし、それを繰り日も来る日も続けていた。それが常盤という少女のすべてだった。
そんな様子を見ていた赤羽が、最初こそ恐怖にも近い感情を抱いていたものの、それが同情や共感へと変わり、やがて心配するようになっても不思議なことではない。
たとえ赤羽が記憶喪失であっても、ひとつだけわかることがあった。
それは──誰かが傍にいるというのは、別に何かをされなくても、それだけで心の支えとなる、ということだ。
赤羽自身、身をもってそれを知っている。むしろ、それを一番よく知っている。
みんながいてくれたから、寂しさを感じないで済む。
みんながいてくれたから、今も自分は笑っていられる。
だから、今度は自分が誰かの傍にいる番だ。
そうすれば、何かのはずみで会話ができるかもしれない。
あの子も、心を開いてくれるかもしれない。
そんな想いのもとに、赤羽はなるべく常盤の傍にいるようにした。
もちろん、自分の後に初めて柊に属すことになった子への配慮という意味合いもある。
それとは別に、常盤が一日中そうしていることで、どんな気持ちになるのか、何を考えているのか、何を想っているのか、単純にそれを知りたいなという興味も少なからずあった。
だから常盤のマネをして、一緒に(と当時の赤羽は思っていた)渓流を眺めるようになった。
けれど、このときの赤羽はひとつだけ失念していたのだ。
なまじ自分が辛い体験を覚えていないがために、そういった意味での配慮が一切できないということを。
北風と太陽の話のようなもので、どんなにが積極的に働きかけてみたところで、そもそも相手の気持ちを理解してやらねば、傷心しきった常盤の心を十分には汲み取ってやらなければ、むしろ逆効果である。
結果はいうまでもなく、赤羽の思慮のない善意は当然のように空回りを続け、常盤は一向に心を開いてくれはしなかった。
けれど赤羽にはその理由がわからない。
そしてまた、どんなに川を眺め続けたところで、やはり常盤の気持ちを理解するには至らなかった。
それでも、他にどうすることもできないので、とりあえずは常盤の傍にいようとする。
悪循環である。
しばらくのあいだ、そんな無意味な毎日が続いた。
結局、自分たちのあいだには見えない壁のような何かが存在していて、どんなにがんばって働きかけても、マネをしてみても、心の距離はいつになっても縮まることがないのかもしれない。理解し合えないのかもしれない。
だったらもう、こんなこと、しなくてもいいのかもしれない。
どんなに尽力しても好転しない事態に、赤羽はやむなくそう結論づけようとして──しかし、ふたりを結びつけるきっかけとなった出来事は唐突にやってきた。
それは、とても雨脚の強い日が3日と続いた、その最後の日のことだった。
渓流は連日の雨で水かさが増し、まるで猛獣の唸り声のような音が柊の屋内にまでも届いているほどだった。ともすれば、外出などできないのは火を見るより明らかだし、ましてその渓流に近づくなど論外である。
けれど常盤は、何故かその日も柊を抜けだしてそこに向かっていた。
初日と2日目は瑠璃がいて、むやみやたらに外出することは叶わないと常盤も理解していたようで自粛していたが、そのときは運悪く、瑠璃が食材の買い出しに行っていた。連日の悪天候で買い出しを控えていたがゆえに食材が底をつき、どうにも調達しに行かざるをえなくなったのである。
常盤は、その瞬間を狙った。
常盤の姿が見当たらないことからそうと気づき、傘を片手に慎重に足を運んでみて、赤羽は我が目を疑った。
常盤は傘すらささず、豪雨に打たれながら、いつものように平然と石の上に座っていた。理解が追いつかず、いよいよ同情や共感といった感情が元の恐怖へと寝返ってしまう。
どうして今日もそんなことをしているのか。
こんな日にそれをすることに、いったい何の意味があるのか。
わからない。ただ純粋にわからない。常盤の考えていることのすべてが。
ただ、だからといってこのままひとりで引き返すことも間違っている。
このままだとあの子は、いずれは川に飲みこまれてしまうかもしれない。そうでなくても風邪は引くだろう。それとわかっていて見過ごすことはできない。見過ごすくらいなら最初からここには来ていないはずだ。
だから、赤羽は常盤のもとに駆け付け、普段とは違って力いっぱい説得した。
こんな日にここにいちゃ危ないよ、と叫んだ。
早く柊に戻ろう、と常盤の手を引いた。
だが、その手を拒むように常盤が暴れた。
そのはずみで赤羽は濡れた大石に足を滑らせ、そのまま激流に飲みこまれてしまったのだ。
飲まれるまいと必死に抵抗した。しかし、10歳の、それも貧弱な体質であるその体が大自然の驚異に勝るはずもない。流されていくうちにあっという間に体力は消耗し、気付けば息継ぎすることすら叶わない状況にまで陥っていた。
だからこそ、刺々しい断面をした大木が目前に迫っていたことなど気付けるはずもなかった。
そうと気付いたときには、もう手遅れだった。
そこから自分の身に何が起きたのか、赤羽にはその記憶がない。
再び意識を取り戻したときには、自分のいる場所が渓流から病室に移り変わっていた。
そして鏡を見て、驚愕した。
テレビアニメで見たミイラのように顔中に包帯が巻かれていたからだ。それ以外にも腕や脚、腹回りなどに打撲や擦り傷のあとがちらほらあった。
自分の意志で体を動かそうにもうまく反応してくれないし、そのくせ激痛が噛みつくように襲ってくる。顔の中心あたりも熱を持ったように妙にうずいるような感覚があった。
瑠璃に病室に来るまでの経緯を伝聞される。
なんでも、帰宅途中だった瑠璃が持ち前の超聴覚で事態を聞きつけ、そのまま駆けつけて赤羽を川から何とかして救出したとのことだった。
あの流れのなかを、いったいどうやって助けだしてくれたのか。少々疑問に感じた赤羽だったが、そんなことを忘れてしまうくらいの追加情報がふたつ、瑠璃から与えられた。
ひとつは、元々あった顔の傷とは別に、それよりも遥かに大きな傷が新しくできたということ。顔のうずきはそれが原因らしい。
もうひとつは、今回の件で、両親の形見である指輪が紛失したということである。言われて、いつも胸にあったそれがないことに気づいた。
なんでこんなことになったんだろう。
自分は、ただあの子を連れて帰ろうとしただけなのに。
なんでこんな酷い怪我をしなくちゃいけないんだろう。
なんで、父さんと母さんの形見の指輪を失くさなくちゃいけないんだろう。
あのとき、あの子さえ暴れなければ……。
あれもこれも……みんな、あの子のせいだ。
赤羽は、常盤こそがすべての元凶だとして、純粋に憎んだ。
次に常盤の顔を見たとき、どんな言葉を使って詰責しようか、どうすれば自分のこの辛さをわかってくれるか、それだけを考える日々が続いた。
そして、柊のみんなが学園の寮から病院へとお見舞いに来た──もっとも、柊のみんなは、赤羽が緊急搬送されたときに瑠璃の呼びかけで駆けつけていたが、気絶していた赤羽がそれを知るはずもなかった──わけだが、そこには、当事者であるはずの常盤の姿だけがなかった。
どうして肝心のあの子がいないのか。
当然の疑問ではあったが、けれどなんとなくそれをみんなに問いただす気にもなれず、その日は悶々としてうまく寝付けなかった。
そのまま、常盤が姿を見せないまま、毎日が過ぎていく。
それに比例して、段々と赤羽の疑問と不満、そして憤怒が膨れあがっていく。
もしかして……あの子は、自分が悪いと思ってないんじゃないか。
人をこんな目にあわせて謝りにも来ないなんて、どう考えてもおかしい。
謝りに来たって許すかどうかはわからないけど、でも……それが、人としての『れいぎ』ってものなんじゃないのか。
ひょっとして、今も平気であの石の上にいたりして。
本当、なんて酷い子なんだ。
他にできることもなかったので、黒い感情にエサをやることだけに邁進する毎日。
そうして赤羽が事故に遭って6日目の夜のことである。
なんの前触れもなく、病室に瑠璃がやってきた。
「ちょっとお前に話があって来たんだ。突然だけどさ、雅のこと、どう思う?」
まるで自分の心を見透かされているかのような直球の質問にいささか驚いたものの、素直に「嫌い」と答える。
すでにこのとき、依然として姿を見せないでいる常盤に対しての熟成されてきた赤羽の感情は、最終的に憎悪というかたちとなって帰結していた。
「ふーん。で、なんで嫌いなの」
「なんで? なんでって、あの子のせいでこんな怪我をしたんだよ? それに、お父さんとお母さんの指輪も失くしちゃったわけだし。それなのに謝りにも来ないじゃん。だからあんな子、僕、大っ嫌いだよ」
溢れんばかりの吐露に、瑠璃は涼しい顔をして、なんとも不思議なことを言ってのけた。
「その指輪なんだけど、ここにあるんだよなぁ。ほら」
差しだされた手のひらにあったのは、間違いなくあの指輪だった。もちろんふたつともそろっている。
これまたいったいどうやったのかはわからなかったが、どうにかして見つけだしたのだろう。赤羽は素直に感謝を述べ、そのまま受け取ろうと手を差しだす。
だが、瑠璃は微動だにしなかった。
「悪いけど、今これを返すわけにはいかないのよね」
「え? 返すわけにはいかない、って……それってどういうことなの?」
「試してるんだ。色々とね」
「試してる?」
「ねえ涼。お前が入院してから、雅がここに来たことはある?」
「あるわけないじゃん。そんなことは瑠璃さんだって知ってるはずでしょ。そもそも、なんであの子は来ないの?」
「なに、来てほしいの? さっきは大っ嫌いとか言ってたくせに」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「ごめんごめん。今のは意地悪だったね。お前が言いたいことはわかってるから。じゃあちゃんと、真面目に教えてあげる。雅がここに来ないのはね、毎日、朝から晩まで、これを探しているからなのよ」
さっきから瑠璃が何を言っているのか、そもそも何の話をしているのか、さっぱりわからずにいた赤羽だが、なかでも今の一言は格別に意味がわからなかった。
「えっと……ん? 探しているって、なんで? 指輪はここにあるんだし、もう探す必要なんてないでしょ?」
「そうだね。たしかに指輪はここにある」
「だよね? それじゃあ……」
「雅は知らないんだよ。あたしが指輪を見つけていることを。だから、一生懸命この指輪を探してるところなんだ」
「それってつまり、わざと教えないでいる、ってこと?」
「そゆこと♪」
「どうしてそんな酷いことするの?」
どこまでも意味がわからない瑠璃の行為に、赤羽は素直にそう問いかけた。
すると、不思議と瑠璃は微笑みを零したのだった。
優しくて、温もりに満ちたような微笑みを。
「あーよかった。そう言ってくれて。あたしも安心したよ」
「……もう。さっきから瑠璃さんが言ってること、僕には全然わからないんだけど。安心って何のこと?」
「安心? 安心っていうのは、心が安らぐってことだけど」
「そういうことじゃないってば。もう、真面目に答えてよ」
「ハイハイ。安心したっていうのは、お前が嘘をついてたってことがわかったからよ」
「嘘?」
「そう。さっきお前は言ったじゃん。雅のことが嫌いだって。あれ、嘘でしょ」
「嘘なんかじゃないよ」
「嘘だよ。じゃなかったら、あたしが指輪を見つけたのを雅に黙っていることに、いい気味だとかって言うはずじゃん。それが今、お前はなんて言った?」
バラバラに撒き散らされた言葉がパズルのように組み合わさったとき、口から声にならない声が漏れた。
「普通、嫌いな相手に『酷い』だなんて言葉は使わないよ、ってことは──」
「そ、それはたまたまだよ。ついはずみで出た言葉っていうか」
「たまたま? ふーん。まあ、そういうことにしておこうか」
「そ、そんなことよりも、どうして指輪を見つけたことを黙ってるの?」
「だから、さっきも言ったじゃん。試してるんだ、って」
「だから、何を?」
「雅が、自分のしたことをどれだけ重く受け止めているかを、ね」
そこで、終始おどけ気味だった瑠璃が大人の表情を見せる。
「そもそもさ、溺れたお前を救い出したのはあたしだっていうふうに説明したけど、あれ、本当はあたしじゃないんだよね」
「じゃあ、もしかして……あの子が? どうやって?」
「それはわかんない。きっとその辺にあった木の棒とかうまく使ったんじゃないの? あたしが駆けつけたときにはもうお前は川から救い出されていたし。まあとにかく、あとちょっとでも遠くに流されてたしたらそのぶん救出も遅れただろうし、体中にもっと傷を負ってたに違いないわ。もしかしたら本当に死んでいたかも。でも──お前はこうして生きている。だからさ、これだけは忘れないで。たしかに雅のせいでお前は散々な目にあったかもしれない。痛い思いをしたかもしれない。けどね、今こうして生きていられるのもまた、雅のおかげなんだってことを」
話し始めてから一番の、瑠璃が真剣な眼差しだった。
「でも雅はね、お前の命を救ったのにもかかわらず、自分には謝るどころか、会いに行く資格すらないと思ってる。だからせめて指輪を見つければ少しくらいは許してくれると思って、それで毎日頑張ってるってワケよ。だからここに来ない。逆に言えば、ここに来るときは、指輪が見つかったときってことね」
「でも、いくら探したって──」
「そう。ここにあるから見つかるはずがない。ちなみに、あたしがこれをみつけたのはお前が怪我をしたその日のことね」
「ってことは……」
これまでの6日間、あの無口で無表情な子が、自分に謝るただそのためだけに、ずっと独りでがんばっていたということだ。
つまりは、それだけ今回のことを真摯に受け止めて後悔しているということだ。
もしもそれが本当なら──それに比べて、自分はいったい何をしてきたのだろう。
自分本位に恨んで、一方的に憎んで。
そうすることがまさに被害者の特権でもあるかのように、憑りつかれたように負の感情を育んでいただけだ。
いっそのこと、指輪探しを諦めてくれていれば。仲良くなるのは無理だと諦めつつあった自分のように。
どうにもおさまりが悪いせいで、謝りに来ないことにあれだけ憤慨していたくせに、ついついそんな利己が生まれてしまう。
「なんであの子は諦めようとしないの?」
「それはアレよ。自分で考えてみなさいって」
「そんなこと言われたってわかんないよ」
「仕方ないなぁ。じゃあちょっとだけ教えてあげる。そもそも今の雅はね、指輪を諦められないんじゃない。罪を償うことに諦められないんだよ。自分のしたことを本当に、心から後悔しているから。そういう人間っていうのは、辛いから、苦しいから、なんとかして許してもらいから、だから、許してもらえるなら何でもするんだよ。たとえ他人から見たら信じられないようなことでもね」
「そんな……でも、どうして? もしも僕が同じ立場なら、絶対に無理だよ」
「だから、それを自分で考えてみなさいって言ってんの。いいわね?」
瑠璃はもうこれ以上は教える気がなさそうだったので、言われた通り、自分の頭で考えてみる。
どうしてあの子は諦めようとしないのか。その理由は瑠璃が言ったように、許されたいからだろう。
では、どうしてそこまでして許されたいのか。それは──そこにも何かしらの理由があるに違いない。
たとえば元々がすごく仲良しとかだったなら、すぐに納得できる。仲良しの相手に対して悪いと思っているから、だからどうしても許してもらいたい。仲良しならそう思うものだろう。
でも、赤羽と常盤は大目に見てもそんな関係ではない。一瞬、自分が記憶を失う前の友達か? という線も考えてみたが、常盤の様子からしてそれもないだろう。
……本当、どうしてなんだろう。
黙々と考えているところに、「明日で一週間ね」と瑠璃の語りが飛び込んでくる。
「え?」
「だから、明日でちょうど一週間じゃん。お前が怪我して」
「まあ、そうだけど」
「どうする? まだ続けさせる? 雅に」
それは、簡素ながらあまりにも強烈な一言だった。全身がほてり、今までの思考がすべて吹き飛んでしまう。
そんなふうに言われてしまうと、あたかも自分が瑠璃にお願いして、そうさせているように聞こえた。
これは常盤への懲罰であり、その決定権を握っているのがあたかも自分であるかのようにも聞こえた。
逆に、まだ気は済まないか? と自分が瑠璃に糾弾されているかのような気にもなった。自分は被害者のはずなのに。なぜかその自分こそが加害者であるかのように。
いつの間にか赤羽は、自分にも罪悪感という槍が胸に刺さっていることに気づいた。
「もしも雅が明日も懲りずに探し続けてたら、雅にこれを渡して、ここに来させる、っていうのはどう? お前さえよければそうしたいんだけど」
二の句が挙げられないでいたところに、追撃される。
もはや、提案を拒む気は起こらなかった。
なぜなら、ここでその提案を拒むほど強烈に、赤羽はもうすでに常盤を恨んでもいないし憎んでもいなかったからだ。
指輪は見つかった。怪我だって、傷跡は残るだろうがいずれは回復する。そして、どうやら常盤は謝ろうと思っているようだし、そのために必死にもなっている。それでも許さないのは──逆に、許されることなのだろうか。
「いいけど、でも、もしも明日あの子が探すのをやめてたら? そうしたらどうするの?」
「うーん、それはないと思うけど、そうしたらあたしが返しに来るかな」
いずれにせよ、明日になれば指輪が返ってくるということだ。
だが、肝心なのはそこではない。それを持ってくるのが誰か、ということである。
もしかしたら、あの子がやってくる。謝りにくる。そう考えるだけで、今までそれを待っていたくせに、どうしてか緊張が込み上げてきた。
そうして瑠璃が帰ってから、赤羽は夜遅くまで、未だ答えが見いだせていなかった『どうして常盤がそこまでして指輪を見つけようとしているのか』について、夜遅くまで思考を巡らせ続けたのだった。
そうして向かえた次の日の夜のことだ。
病室を訪ねてきたのは、瑠璃──に付き添われた、常盤だった。
話に聞いた通り、毎日川を探していたのだろう。その証拠に、指輪を大事そうに持ったその両手があかぎれだらけだった。風邪も引いているらしい。しきりに鼻をすすっている。
そういった体調不良とは別に、視線が泳いでいた。どこか脅えているように見えなくもない。
いまや冷徹さのかけらもない。あるのは、ただただ弱弱しさだけだ。
常盤は一向に口を開けずにいた。見かねた瑠璃が背中を押すが、言葉は紡がれないまま。
それを見て赤羽は、昨夜のうちに整理し、そしてたどり着いた自分の気持ちが今も変わらないでいることをしっかりと自覚したのち、そっと口を開いた。
「ありがとう、雅ちゃん」
その言葉に、常盤は戸惑いを見せた。
「なん、で? どうして、ありがとう、なの?」
今まで一度も交わることのなかった互いの視線が、ここで初めて重なる。
「瑠璃さんに聞いたんだよ。雅ちゃんが助けてくれたんでしょ、僕のこと。だから、ありがとうなんだって。もし雅ちゃんがいなかったら、僕は本当に死んでいたかもしれないみたいだし」
「でも……だって、そもそも私が、つ、突き飛ばしたりなんかしたから! だからこんなことになっちゃったんだよ! 私があんなこと……しなければ……」
「違うって。たしかに押されはしたけどさ、あそこで足を滑らせたのは僕なわけだし。僕が流されちゃったのだって、あのとき川の水が多かったせいでしょ? 全部たまたまだったんだって、たまたま。だから雅ちゃんは悪くない。だからさ……だから、そんなふうに泣かないでよ」
「でも……だって……」
「じゃあこうしようよ。今から握手しよう。それで仲直りってことでどう?」
「なか、なおり?」
「そう。僕はさ、雅ちゃんと仲直り──ってうか、もっと仲良くなりたいんだ。だって僕たち、同じ柊の仲間でしょ? ダメかな?」
照れながら差しだした手は、握り返されることはなかった。
すでに涙を浮かべていた常盤が、そのまましゃがみこみ、泣き崩れたからだ。
昨夜、赤羽は考えた。
そもそも、どうして自分は突き飛ばされたのか。
それは、やはり目障りだったからに違いない。ひとりになりたかったに違いない。
では、どうしてひとりになりたかったのか。
ひとりになりたいというその気持ちは、赤羽にはまったく理解できないものだ。ときには嫌なことをされたり怒ったりもするけど、それでも柊のみんなと離れてひとりになりたいなんて思ったことは一度もなかったから。
だからこそ、その逆の気持ちが、ひとりになりたいということなのだ、と気づけた。
もしも柊のみんなが今とは違って、全く優しくなかったとしたら?
それでも自分は笑っていられただろうか。今のように振舞っていただろうか。
そんなことはないだろう。縮こまって、極力みんなと関わろうとしなかっただろう。
それこそ、あの子のように。
つまりあの子は、柊に来るまで、そういうところにいたんだ。
誰も自分に優しくしてくれない。だから、誰とも関わりたくない。そう思っているんだ。瑠璃や自分やほかの柊のみんなはそんな人間じゃないのに。
そもそも赤羽は、柊が孤児の集まる施設であるという、その前提を忘れていたのだ。
常盤の冷徹な態度にばかり気をとられ、そうなった背景を度外視していた。先輩面をして歩み寄ろうと息巻いていたくせに、結局それは恣意的なものでしかたなかったのだ。
だからこそ、今度こそ本当に歩み寄ることにした。
たしかに、すべては常盤に突き飛ばされたことから始まった。
でも、こうなるに至った原因のいくらかは、やはり自分にもある。
だからこそ、この話はもう、許すとか許されるとか、そういったものじゃない。
お互いが悪かった。だからこれは──そう。ただの仲直りだ。
『どうしてそこまでして謝りたいのか』という理由までは結局わからず終いだったが、夜遅くまで整理した自分の気持ちが最終的に行き着いた先は、それだった。
それからというもの、常盤は毎日病室に訪れて献身的に赤羽の世話をしだした。
最初はぎこちなかった会話も、徐々に軋轢がなくなり、いつしか常盤から進んで話しかけてくれるようになった。
退院してからは、ふたりで外を駆け回ったり、もしくは瑠璃を含めて3人で遊んだりと、柊に来た当時からは想像すらできないほどに常盤は閉ざしていた心を開いていった。そして、よく笑うようになった。
常盤といるのが楽しかった。
常盤が浮かべる笑顔を見ると、自然と赤羽も笑顔になっていた。
常盤が悲しんでいると、なぜか赤羽も胸が苦しくなった。
そんな自覚が芽生えてから、さらに高次の感情にまで至っていることを自覚するのに、そう時間はかからなかった。
同じ施設の仲間としてではなく、異性として、常盤を好いているという事実を。
一方で、常盤は赤羽の思っている以上にあの事故を引きずっているようで、赤羽になにかあると過保護な姉のように、もしくは家政婦のように、些細なことにも自分を犠牲にして世話を焼いてくれる。それは6年経った今ですら、程度の差はあっても基本的に変わりはない。
それが嬉しくもあり、それ以上に辛くもあった。
聖ニコラス学園に入学すると、常盤は陸上部に所属した。
元来運動神経が優れていたらしく、そこに柊での生活で野山を走り回って過ごしてきたこともあってか、2年生にして早くも陸上部のエースとなる。
加えて、生まれつき備わった端整な容姿が加わり、常盤は上級生からも告白されるほどの有名人となっていた。
しかし、常盤は今日現在まで一度として誰とも交際をしていない。相手が誰であろうと、断ることしかしない。
そんなことが続いたから、いつしか『幼馴染の赤羽と恋仲なのでは?』という噂がどこからか流れだした。
このことには赤羽もほとほとまいった。知らぬうちに当事者に据えられてしまっていたので、幾度となく事実確認を受けるハメになった。
複雑な心境でありつつも、とりあえず否定を続けていく。だが、回数を重ねていくうちに、ある疑問に蝕まれるようになった。
それは、『実際のところ、雅は俺のことをどう思ってるのだろうか?』というものだ。
異性として好きか嫌いか、というのももちろん気にはなるが、そういう趣旨ではない。
もしかして──雅がずっと誰とも付き合わずにいるのは、俺の傍にいるためなのか?
あいつの頭には、未だにあのときの罪悪感がある。それは明らかだ。ということは、もしかして俺は、雅の足枷になってるんじゃないのか?
俺が、あいつを縛り付けているんじゃないのか?
そう思い出した途端、赤羽の胸に再び罪悪感が芽生えたのだった。
同時に、こうも思った。
もしもあのときのことがなければ、この傷を負わなければ、俺と雅は、今ほど親しくなっていなかったのかもしれれない、と。
赤羽は常盤が好きだった。ずっと好きだった。
好きだからずっと一緒にいたい。それは当たり前の感情だ。
だが、赤羽が真に望んでいるのは、そういうことではない。あのとき自分の命を救ってくれた常盤が、幸せになることだ。
常盤が、本当に好きになった人と添い遂げて、そして幸せになってくれる。それこそが本当の望みだ。
自分の気持ちを再確認した赤羽は、人知れず自分の恋心に封をすることにした。
そして──今日、赤羽の望みがついに現実となったことを知った。
なのに。
それなのに、素直に喜べない自分がいた。
心が入り乱れて、痛痒でしかなかった。
なかでも自分自身で一番気に障るのが、『今こうしているあいだも、雅が俺以外の男に対して、俺に向ける以上の笑顔を振りまいているのかもしれない』という、どうしようもなくみじめで無様な嫉妬心の暴走である。
何に対してなんだろうか。この後悔は。
何気なく深いため息がでる──と、そこで進行方向の延長線上に、自動販売機が合計3機、それぞれが何十種類もの在庫を蓄えつつ無駄に眩しい明かりを放ちながら、右側の壁に背を向けるように並んで鎮座しているのが目に飛び込んできた。そして自動販売機の左側(つまり、赤羽から見て自動販売機の手前)には、みっつの穴が三角形の頂点のような配置で開いたフタがかぶせてある、やや大きめのゴミ箱もある。
唐突に、手に持っていた缶コーヒーが空になっていたのを思い出した。
他の3人は当然のようにその自動販売機を素通りしたが、赤羽はゴミ箱の前で立ち止まる。
そして、なかば八つ当たりのように空き缶を握りつぶし、そのままゴミ箱に入れようとして、ためらう。
「……本当、簡単に捨てられたらいいのにな。この空き缶みたいに」
それだけつぶやくと、嘆息したのち、今度こそ空き缶をゴミ箱に捨てて3人のあとを追った。
新しい缶コーヒーを買おうか一瞬迷ったが、もうほろ苦い味は間に合っていた。