〈小話〉脳裏をよぎる大事な人
赤羽が常盤の病室に訪れる、その直前の、霜月と常盤の話です。
霜月は、目の前の扉を凝視していた。
そこには、『常盤雅』と手書きで記された、表札のようなプレートがある。
首を左右に振って、肥大しそうだった緊張の唸り声を振り払い、深く呼吸をして、「よし」と小さく声にだすと、思い切って軽くノックし、「失礼します」と断わりを入れつつ扉を開く。
そうして目にしたのは、使い古された人形のように色艶を失った常盤の姿だった。
妙に顔が白い。柊で顔を合わせたときも血の気の引いたような顔をしていたが、あれよりも酷い。
ベッドの上で、上半身を起こした状態になって慎ましく窓の外を眺めているが、その目つきが露骨に澱んでいる。本来は綺麗なアーモンド形をしているはずだ。その魅力的な目に、女としても、そして超邪眼ではない常人のものとしても、少なからず羨望や嫉妬という感情を抱いていたのも事実である。
だが、それが今はどうだろうか。まるで死んだ魚のようだ。もちろん体調の影響もあるだろうが、それだけでは説明がつきそうにない。
「こんにちは、雅さん」
声に反応し、常盤は静かに視線だけを向けてくる。
けれど、霜月を見ても驚くこともなく、喚きもせず、拒むでもなく、怒ることすらせず、ただ見ているだけで、しばらくすると、再び窓の外の世界に視線を戻した。
寝返りを打つかのような単純な姿勢の変化なのか、あるいは来訪者が誰なのか遅れて理解して静かに拒んだのか。どちらとも受け取れるし、そのどちらでもないような、ひどく微妙な反応。いずれにせよ、霜月の来訪を歓迎している様子は一切見受けられない。
しかしそれも想定の範疇だ。めげることなく、あえて窓と常盤の間に割って入るようにして、そばにあったパイプ椅子を手に取り、そこに組み立てて腰を落ち着かせる。
そのように工作を講じても、視線が交わったのはごく僅かだけだった。
常盤は相変わらず澱んだ目つきをさせたまま、しかし全体的な表情を変えることなく、今度は首ごと最小限の動きで視線を逸らした。今のは明確な拒絶反応と受け取ってもいいだろう。
「お体の具合はどうですか」
「……」
「今日は、大事な話があってここに来ました──と、その前に、まずはこれをお返しします」
霜月は首から下げていた、雪の結晶を模したオーナメントを手にして、常盤の腹の位置に用意されていた横長テーブルの上にそっとオーナメントを置いた。
「あなたの大切なものを奪ってしまって、本当にすいませんでした。……ただ、今までこれを所有していたのは、私個人の事情であって、赤羽さんは関係ありません。そのことだけは、申し添えておきます」
「……」
常盤は、オーナメントをチラリとだけ目にしたが、すぐさま興味を失くしたように視線を戻した。
「では本題に入りますが、話というのは他でもない、赤羽涼さんについてのことです」
言い終えてしばらく反応を待ったが、常盤はなおも黙ったままでいる。
「……おそらく、あなたは赤羽さんのことを誤解している。というよりかは、正しく理解していない。いいですか。今の赤羽さんは、あなたと出会う以前の記憶を一切失っているんです。だから、あなたのお父さんを殺めてしまったことはおろか、自分がそれ以前にサンタのひとりだったことも覚えていないんです。もちろん、この私のことだって。それについては多分、これまで一緒に生活をしてきたあなたなら、納得いただけることと思います」
「……」
「だから、あの人はあなたを騙していたとか、そういうわけではないんです。本当に、あの人は何も覚えていないし、何も知らなかった。だから──」
「帰って」
ようやく返ってきた常盤の第一声は、機械が朗読したように冷ややかで、生気を感じられないものだった。
「そうはいきません。話はまだ終わっていませんから」
「話すことなんか何もないし、あなたの話も聞きたくない、って言っているのよ。それがわからないの」
「それじゃあ、あなたは、6年前のあの日、どうして赤羽さんがあなたのお父さんを殺めることになったのか、そしてあなたの知らないところで一体何が起きていたのか、それらの真実を知りたくはないって、今になってそう言いはるんですか」
「……もう、どうでもいいのよ。そんなことは」
単に自分に対して反発しているだけか、それとも変に強がっているだけか。しかしどちらもしっくりこない。一体何を考えているのか。霜月は怪訝に思いつつ、話を続けた。
「それがあなたの本心とは思えませんけど」
「それならそれで構わないわ。あなたに分かってほしいとも思わないし」
常盤は、どこ吹く風といった様子を貫く。
ここで霜月は、常盤の物言いや表情から、腐敗した諦観の臭気を感じとった。そこで、今まで点在していた疑問がひとつに繋がる。
なるほど……この人は強がっているのではない。生きることに対しての意欲や執着を失くしているのだ。
それはなぜか? ──そんなことは、いまさら問うまでもない。
常盤は、瑠璃に騙され、そして赤羽にも騙され、つまりサンタという集団に騙され続けてきたと、そう思っている。そう思っているからこそ、あの日、屋上で鬼の化身のように狂乱し暴走したのだ。
けれど結局、復讐劇は失敗に終わり、しかも体も不自由になってしまった。併せて、縁を切ったはずの柊にも、ニコラス学園にも、もう戻ることもできない。今までに築いてきた交友関係も、もう誰との繋がりもない。
つまる話、居場所がないのだ。ずっとこの病院で、何をするでもなく、誰と会うでもなく、ただ死ぬまで生き続ける。それが今の常盤が置かれている状況。それが絶望以外の何だというのだろうか。
だから、赤羽のことについて語ろうとしてもどこ吹く風、そして語っても柳に風なのだ。
もう復讐をすることもできない。だから、真犯人とか、そんな話なんかに興味もないのだろう。むしろ意図的に、余計に興味を持たないようにしているのかもしれない。
人生の袋小路に陥っている常盤を見て、霜月は同情した。
もうどうでもいいと、そう思ってしまうのもわかる。無理もないと思う。
でも、こちらの気持ちもわかってほしい。
少なくとも、常盤の知る赤羽は何も悪くないということだけでも、どうか理解してほしい。
そして願わくば、どうか赤羽と仲直りしてほしい。
なにより、常盤自身のためにも。
──だが、いくら幾万の言葉を並べようとも、心の門を閉ざした状態の常盤にまでは届きそうもない。風に流されるだけだ。
それならばいっそのこと、強硬手段を執るしか道はなかった。幸いにも、霜月には言葉を介さずともあの日の真実を伝播する手段がひとつある。
霜月はおもむろに片方のカラーコンタクトを取り外して、右眼だけ、本来の邪悪な瞳を曝けだした。
人外の眼は、次第に自ら妖艶な輝きを灯しだし、その色味と光量を徐々に強めていく。これにはさすがの常盤も無関心でいられなかったらしい。横目で様子を伺っていたのが、今は首ごと向いて、警戒心を強めている。
「何をする気なの」
「話を聞いてくれそうにないので、実際にお見せしようと思って。6年前のあの日の私の記憶を──あのとき、屋上で赤羽さんに見せたのと同じものを」
霜月は椅子から立ち上がると、ゆっくりと常盤に迫った。
「やめてよ……そんなもの、もう見たくない」
そこで常盤が狼狽を見せる。顔を合わせてから表情に感情らしい感情が灯ったのはこれが初めてだった。
怯えるのも無理もないことだろう。たしかにこの眼は禍々しい。この眼を向けられれば、誰だって危害を加えられると思って畏怖することだろう。そんな反応はこれまでに何度も、それこそ目にしてきた。
ただ、常盤に至っては今回が初見というわけではないはずだ。狼狽の説明がつかない。それに、あれほど欲していた真実をこうして提示しているのにもかかわらず、それでもやはり食いついてこないのもまた不思議に映った。
ならば、父親が亡くなるその瞬間をもう一度目にするのが怖いのか。
それとも、赤羽が父親を殺めてしまう瞬間を目にするのが怖いのか。
はっきりしないが、いずれにせよ、真実を教える上では、それらは避けては通れない道だ。
そして、真実を教えないことには、ふたりが和解することなどあり得るはずもないだろう。
「大丈夫、誓って危害を加えたりはしませんから。信じてください」
そうして霜月の右眼から、幻想的な紅桔梗色の閃光が、常盤ごと白い病室を染めた。
霜月の『記憶伝達』は、同じ記憶を伝達するにしても、収受する者によって咀嚼に要する時間もまちまちだ。
そんななか、常盤が我に返ったのは、実際の時間にして10秒と経たないうちのことだった。
ついに知り得た真実を吟味するかのように、常盤は口を開けて、それこそ人形のように固まっていた。
霜月はカラーコンタクトをはめ終えて、改めて偽りの瞳を向ける。
「どうでしたか。これがあの日の真実です。赤羽さんが記憶を一切なくしていたことや、あなたのお父さんを殺そうとして殺したんじゃないってことも、理解していただけましたか」
「……そうみたいね」
「ええ。ですから──」
「でも、それが何だっていうの」
「……え」
「さっきから言ってるじゃない。もうどうでもいい、って」
それは、とても意外な展開だった。
もちろん、記憶を伝播したところで常盤が6年前のすべてを理解し、許容してくれるわけではないことも重々承知していた。だが、予想以上に反応が薄い。さっきの狼狽を垣間見ただけに、常盤が今何を思い、何を考えているのか、なおさらわからなくなる。
切るべきカードを切っても好転しない事態に苦慮していたところに、さらに予想外の展開が追加される。
「そんなことよりも、あなたにひとつ、頼みたいことがあるんだけど」
「た、頼みたいこと、ですか? 私に?」
「そう。私の記憶をね、消してほしいの。6年前、涼くんにやってみせたように」
突然のことに、耳を疑わざるを得なかった。今度は霜月が狼狽する番だった。
「……何を、言っているんですか」
「別におかしいことを言っているとは思わないけど。私は、他の人が知らないようなサンタの秘密をたくさん知っているのよ。柊のこととか、ニコラス学園のこととかをね。それに、あなたのことだって。あなたの顔も、声も、昔とは比べ物にならないほど、今ははっきりと頭に焼き付いている。今あなたがその眼で見せたものだって、もう鮮明に覚えてしまっている。良かれと思ってやったんでしょうけど、そのせいで私はさらにサンタの秘密を知ってしまったの。それを放置しておいていいの?」
常盤の発言は、それ自体は至極もっともなものだった。だが、それを自ら提案するその心境が一片たりとも理解できない。
「あなたがサンタのリーダーだっていうのが本当なら、情報漏えいを阻止するために、是が非でも私の息の根を止めるべきなんじゃないの。それこそ、お父さんのように」
「……アレを見たあとで、わざとそんなことを言っているんですか」
水を得た魚のようだった常盤の詰問が、そこで途絶える。
それにしても、一体何の目的があって常盤は記憶の抹消を望むのか。
先日、超邪眼で精神的に葬った高峰が最後に見せた反応のように、みじめに面従腹背となってまでしても自我に執着することのほうが、むしろいかにも人間らしいと言える。
だが、今の常盤はその真逆だ。となると──。
「もしかして、あなたは……死を、望んでいるんですか」
霜月は、腫れ物に触るように慎重に、しかしそれでいて端的な言葉を選んだ。
ただ、霜月の心中とは裏腹に、常盤は「ええ、そうよ」とそっけなかった。
何故ですか、とはさすがに聞けなかった。それこそナイフで傷口をえぐるような愚問でしかないことは重々承知している。代わりに、「それはできません」と添えた。
「なんでよ」
「私たちサンタは盗賊ですが、決して人の命だけは奪わないと、そう誓いを立てているからです」
常盤に対してのこの言葉に放っても、一体どれほどの信憑性があるのか、霜月自身わからなかった。場合によっては揶揄と受け取られない。そう考えもしたが、しかしそれでも、それがサンタの信念のひとつである以上、敢えて口にすることにした。
しかし、杞憂に終わらず、やはり事態は悪化した。
「どうしてよ。涼くんの記憶は消したくせに。あれが殺人じゃないっていうなら、私にだってできるはずでしょ」
思いのほか重みがある言葉に、霜月は反論できない。
誰も止める者がいないことをいいことに、常盤はだんだんと、感情の波を荒だて始める。
「どうして、こんなふうになってまでして、それでも生きていかなきゃいけないの。どうして……」
「……やはり、後悔しているんですか。敵討ちが完遂できなかったことに」
「そんなんじゃないっ!」
霜月は一応慮った言葉を選んだつもりだったが、それが起爆剤となったようで、心の防波堤が一気に決壊したように、常盤は霜月を飲み込む勢いで吠えた。
「あなたの言う通りよ。たしかに後悔しているわ。でも違う。私が後悔しているのは、そんなことじゃない!」
「……」
「たしかにショックだった。涼くんがあのときの犯人だって聞いて、騙されたと思った。裏切られた気になった。胸の中に薄黒い感情が湧き上がってきて、いつの間にか頭のなかが完全に真っ白になっていた。……でもね、ボロボロになった涼くんをまじまじと目にしたときに、私はようやく我に返ったのよ。あろうことかこの私が、この手で、涼くんを、あそこまで……あんなになるまで、痛めつけただなんて……いくら親の仇っていっても、それでも……。それが何よりもショックだった。後悔しているっていうのは、そのことよ」
「……え?」
常盤の発言は、感情が先走っていて、理路整然とはかけ離れたものだったが、それでも、言わんとしていることは十分に伝わってきた。
「つまり、雅さん。あなたは……今のあなたにとっては、赤羽さんのほうが大切だ、っていうことですか」
感情を逆撫でしかねないと危惧しながらも、しかし言葉を選ばずに、単刀直入に尋ねる。だが意外にも、常盤は「馬鹿みたいでしょ。笑いたければ笑ってよ」と投げやり気味に返事をよこした。
「こうして、一日中ベッドの上にいるとね、つくづく思い知るのよ。結局、どう転んでも、私に後悔しない道なんかなかったってことが。涼くんが犯人だった、っていう時点でね。もしも……もしもあのとき、涼くんが死んでいたとしたら……それはそれで、今とは違った意味で後悔してた。多分、死ぬまで。だったらもう、復讐なんてこと自体考えなきゃよかったなって、そのことでまた後悔が始まる。もうね、自分でも収拾がつかないの。延々とそんなことばっかり考えてる。ううん、それしか考えられなくなってる。でもね、そのくせ、何が正しかったのか、どうすればよかったのか、それが今になっても全然わからないの。……ううん、そうじゃないわね。むしろ、目を背けてるんだわ。いまさら、わかりたくなんかないのよ。何もかもが……間違いだったなんて」
「……」
「でも、そうやって目を逸らし続けるのにも、もう疲れちゃった。かといって、前を向くなんてこともできるわけないし。もう何もできないし、どこにも行けないんだもん。それに……私にはもう何も残ってない。大切だったものもそうでないものも、全部この手で切り捨てちゃったんだから。そんな私に残っているものといったら……そうね、この、死にたい、って気持ちだけかな。フフッ。わかるかな、あなたに」
常盤は牙の抜けた猛獣のようにおとなしくなり、自嘲気味に、静かに泣き続けていた。
霜月は、二の句が継げずにいた。
こうなってくると、赤羽の真実の記憶を見せたのは逆効果だったのかもしれないとすら思えてくる。今の赤羽が葛城金成を殺した赤羽と完全な同一人物ではないということを立証すればするほど、それは後悔という真綿で常盤の首を締める行為に等しいだろう。
しかし一方で、新たな発見もあった。
常盤が、自分と同じ経験を共有した唯一の人間なのだ、ということを知ることができた。気付けば、個人的に妙な親近感を覚えてもいた。
「わかってくれなくてもいい。でも、私が苦しんでいるってことはわかるでしょ。だからお願い。少しでも私を不憫だと思うなら、いっそのこと、私の記憶を消して。今すぐに」
常盤は懇願する。
これにどう切り返せばいいのか霜月は懊悩し、しばらく沈黙を続ける。
常盤の真意はわかった。苦悩もわかった。
でも、だからといって、常盤の願望を成就させたやることはできない。いや、できないというよりも、そんなことをしたくない。
そんなことをしたら、サンタのせいで断絶されてしまった赤羽と常盤の仲を修復したいという、その霜月の願望こそ叶わなくなる。
なにより、……昨日ここを訪れた瑠璃にこそ、面目が立たない。
霜月の脳裏に、昨日の瑠璃の様子が蘇ってくる。それから記憶が広がって、柊で瑠璃と話した先日の情景が、その会話の中味が蘇ってくる。
……そうだ、これだ。これしかない。
霜月は、一石を投じる覚悟を決めた。
「すべてを失ったと言いましたが、はたして本当にそうでしょうか」
「……どういう意味?」
やや遠回しな表現に、案の定、常盤は食いついてきた。
「瑠璃さんがね、この病室を訪れていたんですよ。あなたが目を覚ます前に」
「……嘘よ。瑠璃さんが──あの人が、ここに来るわけがない」
常盤は、霜月の言葉に歓喜することなく、むしろ訝しんだ。
「嘘じゃありません。覚えていますか、私とあなたが柊で遭遇したあの日のことを。たしかあの時点ではまだあなたも柊の一員だったはずですが、あの時点で瑠璃さんは、いずれあなたが柊を去ろうとすることを予知していました。もっとも、それが翌朝とは思ってなかったでしょうけど」
「それこそ嘘よ。わかっていたって、それじゃあ、どうして──っ」
そこで常盤は塞ぎ込む。
察するに、『どうして止めようとしてくれなかったの』とでも言いたかったのだろうか。
けれど、そう言い切ってしまうのは虫がいいというか、責任転嫁以外の何物でもないような気がして憚られた、といった様子が窺える。
たしかに常盤の考えももっともだと思った。瑠璃ならおそらく身を挺してまでして、力づくでも止めに入ったはずだろう、と容易に想像がつく。それが瑠璃の人となりだ。
「たしかに……あなたの言う通り、瑠璃さんなら、もしかしたら感づいていたのかもしれない。あの人はすごく勘のいい人だから。でも、それとこれとは話が別じゃないの。今の私は、柊を出ていった身なのよ。もう瑠璃さんから心配されるような立場にはない。それに、あのときだって、私は……瑠璃さんに向かって、一方的に暴言を吐いたのよ。『嘘つき』とか、『母親面しないで』とか、そんな酷いことばかり、言いたい放題に。でも、瑠璃さんだって何も言わなかった。何も言い返してこなかったのよ。それなのに……そんな別れ方をしたっていうのに、私のことを心配しているなんて、あるはずないじゃない」
「……その様子だと、瑠璃さんとの約束を覚えてはいないみたいですね」
「約束?」
「ええ。その昔、たった一度だけしたことがあると瑠璃さんは言っていましたけど」
常盤の表情が、ますます困惑の色味を強める。
そこで霜月は「やっぱりこれも、口で伝えるよりも直に見てもらったほうが早いなぁ」と呟きながら、今度は左眼のカラーコンタクトを指で取りはずした。そうして露わになった左の眼球には、邪悪な光がすでに集いだしていた。
「なに? また何か私に見せるつもりなの」
「ええ。これからお見せするコレは、先日、私とあなたが柊で邂逅した、あのときのものです。コレを見れば、瑠璃さんがあなたをどれだけ想っているのか、きっとわかっていただけると思います」
「……よしてよ。さっきから言っているでしょ。もうこれ以上、何も知りたくない。記憶を消さないって言うなら、これ以上、私を……余計に貶めないでよ」
常盤は、今回は露骨に受け入れようとしなかった。首を力なく左右にして拒む。
常盤にしてみれば、受け入れられるはずもないのだろう。瑠璃が自分を未だに愛している。それが立証されてしまうことはすなわち、後悔が膨らんでしまうことに繋がるのだから。だから知りたくない。受け入れたくない。
でも、心の隅では、そうであってほしいと願っているようにも見える。
知りたいけど、知りたくない。でもやっぱり知りたい。その真偽を──と、このようにどっちつかずの終わらない思考にもがいているのが、ありありと伝わってきた。
そんな常盤の疑心暗鬼を奪いとる、蠱惑的な紅桔梗の光の準備が、ついに完了した。
「私が本当にあなたを貶めているのかどうかの判断は、コレを見てからにしてください。それでは……いきますよ」
その言葉を引き金に、一点に留まっていた光が、洪水の如く室内を侵食した。次の瞬間、常盤が目にしていた世界が、一転した。
そこは、常盤もよく知っている、柊にある八畳ほどの広さの和室だった。
「戻してる、って、吐いてるってこと?」
途端、赤羽が空いたままの襖を通って走り去っていく姿が目に映る。横にいた瑠璃が、それを目で追っている。
たちまち視界は懐に向かい、そして右手が上着の中に入り込む。なかから出てきたその手には、菜の花色をした、星型の何かだった。それを指先でいじると、突如、オルゴールのようなメロディが鳴りだした。そこで瑠璃が過敏に振り返る。
「どうしたのよ、急に」
「どうしたもこうしたもないでしょう。瑠璃さんこそ教えてください。一体、どういうことなのかを」
「ん、何のこと?」
「惚けないでくださいよ。今のって、6年前におにーちゃんが殺してしまった、あの葛城金成の──」
「ああ、そのこと。そうよ。その娘よ」
「……ずいぶんあっさりと認めるんですね。それにしても、なんでその人が、よりにもよってここに?」
「あたしが探してここに連れてきたのよ。お前が涼の記憶を消して、しばらくしてからね。兄貴のほうは行方不明だったから断念したけど」
「ど、どうしてそんな危険なことを。そんな報告、聞いていませんよ」
「そりゃあそうよ。雅を柊に招き入れたのは、あたしの独断だもん。だから知ってんのは鳴海くらいだし、んで、鳴海にはあたしが口止めしてたからね。ほら、あんたも飲む?」
瑠璃は呑気なもので、急須から自分の湯飲みにお茶を注ぐと、霜月の湯飲みを軽く覗き込んでいた。
「もう、ふざけないでください!」
「なによ、大きな声なんか出して。思春期?」
「そりゃあ大きい声を出したくもなりますよ。私の知らないところで、こんなことが起きてたなんて。どうして今まで気づかなかったんだろう。ここにだって何度も来て──もしかして、調整していたんですか。私が柊を訪れる日程を。あの人と遭遇しないように」
「バレちゃ仕方ないか。ま、それなりにね。とはいえ、お前自身、涼がいるからってあまりここに近寄ろうともしなくなってたじゃん。だから調整って言うほどのこともしてないけど」
霜月は、瑠璃の哄笑に対して何も口にしない。
瑠璃のペースに翻弄されていると考えたのか、ここで霜月が深呼吸をひとつ交えた。
「どうしてあの人をここに連れてきたのか、それはまだ聞いてませんよね」
「どうしてって、『世間で公表されてない違法な超心理を持つ孤児を匿う』っていうのが、この柊の存在理由じゃん。それに対して、雅は『過剰超紡績』っていう曰くつきの力を持ってる。ほら、ちゃんと柊に入所させる条件を満たしてるじゃん。一体何の問題があるってのよ?」
「そういうことを言ってるんじゃありません。いちいちはぐらかさないでください。どうしてわざわざあのふたりを巡り合わせるような真似をしたのか、って聞いてるんです。あのふたりは、生涯出逢ってはいけないふたりじゃないですか」
追及に、瑠璃は一度茶を啜ると、手に茶碗を持ったまま、目を閉じたまま、呟いた。
「涼のね、遺言なのよ」
「それって……おにーちゃんの、ですか?」
「そう。罪滅ぼしのために、葛城金成の子ども達と一緒にいる機会を設けてくれって。それでその子ども達の役に立てるように、記憶を失った後の自分にいろいろと吹き込んでくれ、ってね」
「……そう、ですか」
霜月は考え込むような面持ちで視線を下に向ける。
──それを、瑠璃は恐ろしいほどに鋭く冷たい眼差しで、じっと見ていた。
「んなわけないでしょ。嘘よ、今の」
「え?」
「だから嘘。ルドルフだった頃の涼はそんなこと言わなかったし、さっきも言ったように、雅を連れてきたのは、あたしの独断よ」
「な……どういうことですか」
「カマかけた、ってこと。お前の潜在意識を知るためにね。ねぇ飛鳥。お前、罪を犯したほうの涼を贔屓して、被害者の雅をぞんざいに扱っているってことに、自分で気づいている? 慮る相手は、記憶を失った涼じゃなくて、雅でしょう。それなのに、なんで雅を目の敵みたいに言うのよ。おかしいでしょうが」
「べ、別に私は、そんなつもりじゃ……でも、少なくとも柊で引き取る必要はなかったんじゃないですか。柊には、おにーちゃんが──」
「あいつはもう、お前の大好きだったおにーちゃんじゃない!」
今度は瑠璃が一喝し、霜月の声が途切れる。
「あいつはもう、昔のことなんかこれっぽっちも覚えちゃいない。それはこの6年ずっと傍にいたあたしよりも、実際に涼の記憶を消した張本人であるお前が一番わかってることでしょうが」
「…………」
「今のではっきりとわかったわ。お前は涼を、まだ心のどこかで『おにーちゃん』として見てるってことがね。まあたしかに、お前の気持ちもわかるよ。無理もない。けど、念のために今のうちに言っとくわ。もしもこのまま涼を『おにーちゃん』として見続けていたら飛鳥、お前はいつかあいつの前でボロを出しかねないよ。肝に銘じときな」
そこからおよそ十数秒のあいだ、ふたりは沈黙を貫いた。
「……痛いですね、耳が」
「とか言って。口うるさいと思ってるんでしょ」
「まさか。これでも、瑠璃さんの言う通りだなって痛感しているんですよ。やっぱり、先代のひとりからの言葉は重みが違いますね」
「よしてよ、そんな大昔の話は」
「でも……それとは別に、現サンタのリーダーとして、私はこの件を報告します。どうか恨まないで下さいね」
「構わないよ。あたしもいつかはバレることだと思ってたしね。勝手にしな。でも、そっちのほうでどういう結論になったとしても、雅はここにいさせるからね」
「ナハハ。瑠璃さんは本当に雅さんのことが、大切なんですね。でも──あの人がさっき、私のことを凄い目で睨んでいるのを、瑠璃さんも見ましたよね。もしかしたら、私がサンタだって気付いているのかも知れませんよ。私、6年前にあの人には顔を見られちゃってるし」
「……」
「それに、ひょっとしたら高峰の配下にだってすでに組み入れしているかも。なんていったって、そのなかには実の兄もいるようですし。もしもふたりがすでに再会しているようなら、その可能性も捨てきれないかと思うんですけど」
「まあね。さっき雅があたしを見る目つきからして、あたしもそうじゃないかって思ってたところよ。昨日数か月ぶりにここに帰ってきたときから、何か様子が変だとは思ってたんだけど……もしもそうだとすれば、近いうちにお前たちの前に現れて、牙を向くかもしれない」
「そこまでわかっているなら、むしろ今のうちに手を──」
「それはできないわ」
「ど、どうしてですか? やっぱりそれも、雅さんが大事だから?」
「それもあるけど……あたしはね、約束したんだよ。ずっと前、雅と始めて出逢ったときに。『復讐したければすればいい。あたしはそれに反対しない。だからしっかり生きろ』って。それが今までに雅とした、たったひとつの約束なの。だから、自分勝手だけど、その約束を破りたくはないのよ。あたしは」
「…………」
「だからあたしは、雅を止めはしない。かといって、あたしだってサンタの一味の端くれだし、飛鳥たちサンタに負けてほしい、死んでほしいとかは露ほども思っちゃいない。そんなあたしにはもう、何もできない。今回の件については、もう何も口出しできない。お手上げってワケ。フフ、笑っちゃうでしょ。さっきはあれだけ偉そうなこと言ってたっていうのにコレだもんね」
「いえ、そんなことは……でも、そうすると、仮に雅さんと対峙するようなことがあったら、私はどうすればいいんですか」
「えー、あたしに聞かないでよそんなの。今の話、聞いてた?」
「でも、今の状況から推測するに、そうなる可能性は少なくないと思いますよ。本来なら、こういう私怨絡みの問題は、その……おにーちゃんにしたように、私の超邪眼で記憶を消し去るのが一番手っ取り早いし確実なんですけど……」
顔色を窺うような霜月に、瑠璃は「好きにしな」と、単刀直入に言い切った。
「必要なら、そうする他ないんだし。どうするかはお前が判断すればいい。今のサンタのリーダーは飛鳥、お前なんだから」
「で、でも……それでいいんですか? 瑠璃さんは」
「いいも悪いもないわよ。雅にも、飛鳥にも、互いに目的があって、そのせいでぶつかり合った末路なんだし、そうなったらそうなったで仕方ないじゃん」
「仕方ない、って……すごいですね、そんなふうに割り切れるなんて」
「んなわけないでしょ。涼のときだって、あたしが心の折り合いをつけるのに、どれだけ腐心したと思ってるの。まあ……それについては、お前も似たようなものだろうけどさ」
こちらを見据えた瑠璃の瞳は、いつものような溌剌としたものでまるでなかった。
「で、でも、瑠璃さんなら、もしかしたら記憶を戻すような超心理とかも生成できるかもしれませんよね。この超邪眼だって、もとは瑠璃さんが考案したものだし」
「そういうことはね、もうしないって決めてるのよ」
「そう……ですか」
「もしも雅の記憶がなくなったとしても、ずっとあたしが傍にいる。あの子がここを卒業する年になったとしても、あたしがここにいさせて面倒を見るわ。だから飛鳥は何も気にしなくていい」
「強いですね、瑠璃さんは」
「強くなんかないわよ。いつだってあたしは、強がってみせてるだけだって」
瑠璃はいつもの調子で笑ってみせたが、それがきっかけで、頬に一筋の線が描かれた。
その瞬間だけは、いかに瑠璃といえど、ひとりのかよわい女性にしか見えなかった。
「わかりました。近いうちにそれが現実になるかもしれませんから、覚悟だけはしておいてください。私の言えるのは、もうそれだけです」
「うん。いろいろと任せちゃってごめんね。あの子のこと……頼んだわ」
──ここで記憶伝達は終了し、元の病室が、霜月の姿が常盤の目に映った。今回も、付与された記憶の咀嚼に十数秒かかっていた。
静かな病室に、鼻をすする音が続く。
「……瑠璃さんは、立場上、何があってもサンタを裏切ることができない人なんです。だからあなたとの約束は守れても、あなたの記憶を消去することに関しては、反対することも、阻害することもできない。まさに瑠璃さんが言っていたように、あの人には打つ手がなかった。本当に何も。だからこそ、歯がゆい思いをしても、心を鬼にして、口を挟まずにいたんです。なぜなら、それがあなたとの約束だから」
常盤の嗚咽が響く。
きっと、瑠璃と決別したあの朝の出来事を反芻しているのだろう。
「さっき、あなたがまだ目を覚まさないでいる間に瑠璃さんがこの部屋に訪れていた、って言いましたよね。そのときの瑠璃さんは、あなたの体の容態を知ってから──あの瑠璃さんが、声をあげて泣き崩れていたんですよ。やはり止めるべきだったと漏らしながら、あなた手をぎゅっと握り締めながら。あんなに不恰好な瑠璃さんを見たのは私、初めてでした」
「……るり、さん……っ」
「瑠璃さんは、あなたが記憶を失ってしまうこと自体には、相応の覚悟を用意していたでしょう。ただ、まさかあなたの体が再起不能に陥るとは思ってもみなかったんでしょうね。ひとえに、約束を重んじ過ぎてしまった自分のせいだと己を責めていました。変に大人ぶらないで、やはりあのとき止めていればこんなことにはならなかったと、嘆いていました。……そんなふうに、瑠璃さんは今でもあなたを想っているのに、あなたはまだ、瑠璃さんとの繋がりを失くしたと言い張るんですか」
「……っ」
常盤は号泣の予兆を見せながらも、下唇を噛むことでそれを必死に抑え込む。しかしそれでも、隙間を縫うように、感極まった感情は両目からあふれ出ている。
霜月は、静かにそれを見守った。そして、常盤がだいぶ落ち着いてから、丁寧に言葉を紡ぐ。
「今度はあなたの番じゃないですか。約束を守り、貫き通すのは」
「……え」
「しっかりと生きるって、それが瑠璃さんとの約束でなんでしょう? それなら、記憶を消してほしいなんてことを言ってはいけないってことは、わかりますよね」
もう少しいろいろと言いたいところではあったが、余計な装飾にしかならないと思い、自重する。
それが功を成したのか、常盤が、涙の痕を残した顔で「そうね」と、微笑んでみせた。それは萎れた花のような印象だったが、それでも、今日初めて目にした笑顔だった。
──だが、本題はここからである。
「記憶を消さないと決めたなら、今度こそ、6年前の真実に、きちんと向き合ってみませんか」
何が言いたいのかを察したらしく、少しして、常盤はまた表情を曇らせた。
訪れたばかりのときとは違って、それなりに会話も続くようになっていたが、振出しに戻ったかのように再び常盤は口を閉じる。
ならば、霜月が最善の一手を模索し、用意して、一気に切り込むしかなかった。
「あなたは、赤羽さんを今でも愛している。そうですよね」
なのに、よりにもよって反射的に出てきた言葉はこれだった。
もっと慎重に、丁寧になるべきだったのに、どうしてこれを選んだのか霜月自身もわからない。ただ、常盤から反論がないことを肯定と捉えて、もう勢いに任せることにした。
「私もです」
常盤が露骨に顔を向ける。
「思えば、私たちの間には、不思議な共通項があります。同じ人を愛しているということ。そして、その人を傷つけたということ。傷つけたことに対して、その加害者である私たち自身が傷ついている、ということだって。唯一違うのは、私はすでにその愛する人を葬ってしまったけど、あなたはそうではない、という点です。だから、謝ることができる。どんなに傷つけてしまっても、たとえ瀕死の重傷を負わせてしまったとしても、それでも、謝ることができるんです。私と違って」
忘我して熱く語っていた霜月は、遅れて頬を紅く染めた。
赤羽を愛していると言ってしまったことや、今の言葉に若干の嫉妬が入り混じっていたこと、なにより、熱くなってしまって、話が豪く抽象的になってしまったことを恥じらって。
赤羽を愛していると言っても、霜月が愛しているのはサンタだった頃の赤羽だし、霜月が赤羽を傷つけて葬ったというのは超邪眼によるあの一件のことを指している。常盤はすでに霜月の眼によって6年前の真実を手にしているのだから、あながち連想できなくもないかもしれないが、それは至難の業だろう。だが──、
「でも、許して……くれるかな」
予想に反して、常盤はそんなことを言ってのけた。
常盤のことだから、理解できなければ聞き返してきたに違いない。私と違って頭のいい人だなと思うのと同時に、本来そんなことを思うのはあなたじゃなくておにーちゃんのほうでしょうが、と少しだけ呆れもした。
加えて、許してくれるかなと口にしたその様子が、親に叱られるのに怯える子供のように見えた。あんなに暴れまわっていた人物のしおらしさを目にして、どうしてか庇護欲がそそられた。全体的に、なんだか可愛いとすら見えてきて、自然と顔が綻んでしまった。
おっといけない、大事なところなんだから、と霜月は気を引き締め、表情を戻す。
頭のいい常盤のことだ、本来なら、屋上で赤羽が自ら屋上を飛び降りた事実を思い返せば、それだけで赤羽の心の内は読み取れるはずである。しかし、罪悪感の毒が強すぎて、その点だけには思考が麻痺してしまっている。
けれども、「大丈夫、許してくれますよ」と霜月が代弁するのはまた何かが違う気がする。
自戒して思案し、大事な言葉はやはり赤羽の口から放たれるべきだ、という結論に至る。
そこで、ひとつの案が思いついた。
「じゃあ、試しにこれを使ってみましょうか」
霜月はそう言いながら懐から黄色い物体を取りだしてみせる。
「それは?」
「これは、『ベツレヘムの星』っていう、サンタ専用の通信機器です。これで、赤羽さんを盗聴してみませんか。というのも、赤羽さんはあの日から、未だに目を覚ましていないんですよ。もっとも、命の危険があるとかってことではないんですけどね。とにかく、赤羽さんの意識は、あの屋上での出来事から止まったままです。だから、今から起こして、あなたをどう思っているのかを何気なく訪ねて、赤羽さんの本心を聞き出すんです」
常盤は、霜月から差し出された『ベツレヘムの星』をじっと見つめている。その顔はあまり乗り気ではなさそうだった。
「どうしますか。これを使うかどうかはあなた次第です。でも、こんなことができるチャンスはもう他にないのも事実です」
催促しているような圧が隠しきれなかったが、常盤は目の前の盗聴器を見つめながら、「これで本当に最後よ」と、まるで自分に言い聞かせるように意味深な言葉を囁く。
遅れて霜月は気づいた。そういえば常盤は、今回の件でサンタを探すために赤羽に盗聴器を仕込んでいたのだと。今の言いぶりからして、そのことにも罪悪感を覚えているのだろう。
「聞くわ。涼くんの本心を。だから、お願い」
「そうですか。わかりました、それでは準備しますから、ちょっと待っていてくださいね」
ここで、ふたりが仲直りをする、と霜月は確信した。
霜月は慣れた手つきでベツレヘムを操作して、別室にいる金鵄と連絡を取り、常盤の部屋に招集した。
始めの間は、間近で見ても、それが金鵄だということに常盤は全く気づきもしないでいた。金鵄が正体を明かしたとき、常盤は複雑な表情を浮かべたが、しかしそれもどうにか自己消化できたらしい。しまいには、「じゃあ、今度『魔女リカ★魔女ルカ』を全巻貸してくれたら、全部なかったことにしてあげる。それでどう?」と常盤が言って、ふたりは笑い合っていた。
「鳴海くんが笑ったところなんて、私、始めて見た」という朗らかな談笑を耳にして、だてに6年間の付き合いをしているわけではないってことかな、と霜月は納得した。
金鵄を交えて3人でおおまかな段取りを取り決めると、金鵄は赤羽の病室へと向かっていった。この時点ですでに『ベツレヘムの星』は通信状態にあった。
霜月は霜月で、部屋の扉を閉め、常盤専属となっている看護婦を門番の如く扉の外に配置し、いいと言うまで誰も近づかせないようにと命じた。柊やニコラス学園と同様、この病院もサンタの息がかかっているため、それくらいの融通はいくらでも効く。
そして横長の机に『ベツレヘムの星』を置いて、じっと聞き耳を立てる。あとはもう、たとえ何があっても、声も、物音を出さないようにするだけだった。
──そうしてふたりの会話が終わってから、霜月はふうと長いため息をついた。
九死に一生の思いだった。
盗聴というのは我ながら名案だと自負していた手前、まさか赤羽が──赤羽も、記憶を消してくれと言いだすとは思いもしなかったからだ。
その上、死にたかったと叫ぶ始末。こんなものを常盤に聞かせたかったわけではない。これでは、死にたいという気持ちを捨て去ったはずの常盤を触発しかねない。さすがの霜月も、これにはどっと冷や汗をかいた。
だが、それらも金鵄の巧みな展開力によってなんとか収斂されていった。すでに常盤が記憶を失っているという赤羽の思い込みをうまく活用していたのも功績と呼べるだろう。
とにかく、お膳立てはここで終わりだ。あとはもう、ふたりに任せるほかない。
この先はもう、ふたりの問題なのだ。
車椅子を準備をしているような音が聞こえてきた所で、霜月は『ベツレヘムの星』を手に取り、通信を切った。
「どうでしたか、赤羽さんの本音は。あなたが期待していたようなものでしたか。それとも──いえ、すいません。聞くだけ野暮でしたね、そんなもの」
常盤は、今まで堪えていた分を放出するように、それでいてまた堪えるように、肩を震わせてしゃくりあげていた。
まったく、これからここに想い人が来るというのに、なんて顔をしているのだろうか。優しく微笑みかけながら、そばにあったティッシュで常盤の泣きじゃくった涙の痕を優しく拭き取り、手入れする。
常盤は童心に返ったように、されるがままだった。
ティッシュを処分し、籠った空気を新鮮なものに入れ替えるために窓を半部ほど開ける。
「それじゃあ私は行きますね。邪魔者はとっとと退散するに限りますし。近いうちにまた来ます」
少しおどけながら、常盤の目を盗んで再び『ベツレヘムの星』を密かに起動させる。
大丈夫だとは思うが、万が一にも殺伐とした空気になってしまった場合、いち早く察知するための予防策としての意味合いだ。
ここに来る赤羽の眼にもつかぬように、部屋の隅にある机へと何食わぬ顔でオーナメントと一緒に移し、早々に立ち去ろうとした。悠長にしていると、赤羽と鉢合わせになりかねない。
「待って」
扉に触れるすんでのところで、呼び止める声がした。その場で振り返る。
「たしか、飛鳥ちゃんっていうんだったわよね。……飛鳥ちゃん。いろいろと、ごめんなさい」
霜月は虚を突かれた思いだった。
正面を向いて姿勢を正す。
「あなたは何も悪くありません。悪いのは私たちサンタです。こちらこそ、謝罪が遅れました。……いろいろと、本当にすいませんでした」
そして霜月は、和みつつあった雰囲気を敢えて払拭させて、真剣な表情で深々と頭を下げた。
「申し訳ないのですが、今は時間がなさそうなので、日を改めて、また謝罪に来ますので」
「そんなことはもういいから。いろいろあったけど、全部たまたまだったんだよ。きっと」
その声で、頭を上げる。見ると、常盤は微笑んでいた。それは、この部屋に入って最初に目にしたあの姿からは、想像もできないものだった。不思議と、胸が温まっていくのを感じた。
「──あ」
「? どうかしましたか?」
「ううん、なんでもないの。思い出したっていうか。ちょっと、面白いことを思いついただけ」
面白いことってなんだろう、と疑問に思ったが、時間も惜しかったので特に追究することなく、扉に触れた。
「どうせまた、この『ベツレヘムの星』ってやつで、私と涼くんの話を盗み聞きするつもりでしょ」
背中に浴びせかけられた声に、霜月は心臓が鷲掴みされたような気がした。「え」と漏らしてしまう。その半面、頭がいい上に目ざとい人だな、と密かに感嘆もした。
「今度ここに来たときに、感想を聞かせてよね。ちょっとだけロマンティックに演出してみるから」
『ベツレヘムの星』のことを言及されるとは思いもせず、つい動揺を見せてしまったが、どういうわけか非難される口調でもなければ、むしろ盗聴を歓迎するかのような調子だったのも気になる。
悪だくみを考えているような物言いにすらも聞こえたが、敢えてここは常盤の調子に合わせることにする。
「上等です。でも、もしも三文芝居なら、私の吹き出す声がここに漏れ聞こえて、せっかくの演出とやらも台無しにしちゃうかもしれませんからね。覚悟しておいてくださいよ」
「望むところよ」
売り言葉に買い言葉のようになってしまったが、それでもふたりは、揃って微笑んでいる。
入り口に立つ霜月の視線が、今度はちゃんと、常盤のそれと交わっていた。
いかがでしたでしょうか。
とりあえず、「赤い悪魔と赤い糸」は本話をもって完結となります。
最後に霜月と金鵄が続きを匂わせるようなやり取りをしていましたが、あくまで演出上のものです。
……というのは嘘で、本当は、続編を用意していました。
タイトルも、「赤い悪魔と白い暗闇」なんてものを用意したりして。
他にも、「赤い悪魔と〇〇〇〇」というタイトルで、続編をいろいろと考えていました。
「透明な矛盾」とか、「瑠璃色の金属」とか、「紫の遺伝子」とか。
ですが、話の続きを考えれば考えるほど、この作品の魅力である「サンタクロースらしさ」というものが欠如していき、ただの異能力バトルものになってしまうことがわかってしまいました。
よって、やはりこの話はここで完結とするのがベストだと判断しました。
しかし逆に、作中に出てきた『魔女リカ★魔女ルカ』や『予知との遭遇』は私が執筆中の作品のタイトルですので、いつに日にか世に出ると思います……多分。
最後になりますが、長い間お付き合いくださいました読者の皆様、本当にありがとうございました。
心より感謝を申し上げます。




