赤い糸
赤羽と葛城雅が仲直りして間もなく、ひとりの女性看護士が、ふたりのいる廊下の最果ての病室を目指して歩いていた。
下手をしたら女優ですらも尻尾を巻いて逃げ出しかねないほどの超絶な美貌を持ち合わせた、見た目が20代前半のその看護婦は、サンタが(というよりかは霜月が)特別に用意した有能な看護士で、常盤が目を覚ました昨日から、常盤の専属となっていた。そのこともあってか、ノックもせずに、そのまま無遠慮に入室してしまう。
「雅ちゃん、検温の時間ですよー。雅ちゃーん、起きて──おっと、これはこれは……ごめんね、ふたりだけのお熱い時間を邪魔しちゃったかな」
看護師は、有能で超絶的な美貌を備えていたが、マイペースで場の空気を読まないところが玉に瑕だった。
看護士の舐めまわすような憎たらしい視線に、赤羽は葛城雅から可能な限り最速で距離を取った。相手がなまじ美人なだけに、余計な居心地の悪さを覚える。
そしてふたりは、互いに頭から蒸気を沸かしそうなほど赤面しつつも、一向に互いに顔を逸らせて視線を合わせようとしない。
「あらあら、いいのよ、別に。私のことなんか気にしないで、どうぞ続けてちょうだいな」
そう言われて続けられるのは、せいぜい役者くらいだろう。
看護婦も、両手で目を覆っていたが、覆った両手は左右共に指が紅葉のようになっている。
「それにしても、……大きくなったわね、涼くん」
しばらくして、看護師は一連のおどけた様子を取り払い、赤羽をまじまじと見入った。
「え? 俺のことを知っているんですか。もしかして、6年前にお世話になってたとか?」
「違う違う。たしかにその頃にはもうここで働いていたけど、私が言いたかったのは、それよりも|も《・》っと前、ってことよ」
含みのある看護師の言葉から、赤羽は、この人も昔の自分を知る人──つまり、瑠璃のような、サンタと強い繋がりのある人物だと悟った。
「あの頃はまだあどけなかったけど、今じゃいっぱしの男の子、って感じね。こんな可愛い彼女まで作っちゃって。このこの!」
看護婦は肘で小突いてくる。地味に、そして猛烈に痛かった。
「そんな、涼くんは彼氏なんかじゃ──」
「え、違うの? あんなふうに、熱烈に抱き合ってたのに? へぇー、ほぉー、ふぅーん……それじゃあ、えい」
血迷ったのか、看護婦は傷だらけの赤羽に、面と向かって抱き着いた。
さっきの小突きの何倍もの苦痛が全身を駆け巡るが、美人に抱き着かれたことに対する緊張と興奮がそれを圧倒的に凌駕していた。収まった顔の赤みが先ほど以上に強くなっている。
至近距離になると、色気のない看護服によって封印の如く包み隠されていたこの看護婦の脅威の魔性的魅力が、顕著になった。
艶やかな首筋に目が奪われる。気づけば、快楽的ないい匂いが鼻腔をくすぐっていた。頭の芯までとろけそうな……これが女性のフェロモンというやつだろうか──と、そんなふうに看護婦が異性であることを少しでも意識してしまったが最後、続けざま、自分の右腕に押し付けられているふたつの弾力の、その破壊力の凄まじさに意識が嫌でも向かった。
体の奥で何かが疼いている。男としての本能が、けしてこの場にそぐわない衝動を掻き立てようと、必死になって目を覚まそうとしているようだ。理性で丸め込もうとしても、この状況が続いている限り、やはりそれは無理というものだろう。
このままでは、さすがにまずい。
「ちょっと、離れて、ください、よ」
赤羽は、数々の誘惑に手を惹かれながらも、なんとかその言葉を口にすることができた。どんなに美人で、どんなにいい匂いがして、どんなに胸が豊満であろうとも、赤羽が求めているのはそれらじゃない。この看護師じゃないのだ。
予想に反して、看護婦はさっと身を引いた。解放されたことで、赤羽が少しだけ息を荒げる。きつく抱きしめられたせいで呼吸がしづらかったのも一理あるが、邪念との壮絶な闘いに消耗したせいかもしれない。そういった意味では、あの葛城優よりも強敵に感じた。
「……ちょっと北嶋さん。人前で、涼くんを誘惑しないでください」
その声に赤羽は悪寒を覚えた。
ゆっくりと葛城雅を向いてみると、……あの日屋上で目にしたのと遜色ないくらいに、露骨に殺気立っている。
「アハハ、ごめんごめん。でもさ、雅ちゃんが下手な嘘なんかつくからいけないのよ。彼氏なら彼氏だってちゃんと言えばいいのに。そしたらあたしだってこんな真似しなかったのに」
「だ、だから、涼くんは私の彼氏なんかじゃ──」
「またそんなこと言う。そんなんだと、もう一回涼くんにひっついちゃうわよ」
げ、と赤羽は思わず声に出した。嬉しくないと言ったら嘘になるが、それでもやはり、勘弁してほしい。第一、葛城雅の前でそんなこと、もう二度としたくない。
「んもう、なによ。涼くんもあたしに抱き着かれるのが嫌だって言うの?」
「いや、嫌っていうわけじゃないんですけど……」
そこで、背中が黒い殺気を感じ取り、肝を冷やす。初対面で嫌です、やめてくださいと断言するわけにもいかないだろうことを、どうか理解していただきたいところである。
「でも、雅が──好きな人を不快にさせたくないないので、申し訳ないですけど、これ以上は勘弁してください」
少し照れ臭かったが、すでに赤羽の想いを盗み聞きされてしまっている。いっそ肝が据わって、本心をありのままに言えた。
瞬間、意図せずして、感じ取っていた殺気が途絶えた。
赤羽の物言いに看護師が機嫌を悪くするかとも思ったが、意外にも、今まで以上にご機嫌だった。「ンフフ♪」とにやにや笑っている。
「どうかしたんですか」
「いやね、涼くんは大好きなんだなーと思って。雅ちゃんのことが」
意図せず、小細工のない直球を喰らって、赤羽の腹から「ふぇ?」という謎の声が飛び出た。衝撃が、徐々に全身に駆け巡る。さっきまでとは比べ物にならないほど体が火照ってくる。
なんとなく、葛城雅に振り返ってしまう。見れば、その目がまるで何かを信じているかのように、じっと赤羽に向けられていた。
「……はい。大好きなんです。自分でもビックリするくらいに」
赤羽は一呼吸置いてから、今度こそ、面と向かって、今まで飲みこんできた言葉を、想いを伝えた。
こんなふうに追い詰められないと言えないというのも情けないが、それでも、言えた。言えたのだ。やっと。そのせいか、暴れまわっている鼓動も、不思議と今は心地よくもある。
それを生の声で初めて耳にした想い人は、白い頬を幼児のように赤く染めて、満たされたように、笑顔になっていた。
「あらあらまあまあ、見せつけてくれるじゃないの。このラブラブバカップルめ」
それを見て、ふたりの仲を邪魔する小悪魔が、口を尖らせている。
「いや、別に見せつけているわけじゃ……」
「もう、冗談に決まってるじゃない。本気にしないでって。それにしても、昨日はあたしが何を話しかけてもずーっと仏像みたいに無表情無反応だったっていうのに、涼くんが来た途端にこれだもんね。まったく、雅ちゃんも、可愛い顔して現金なんだから」
「ち、違います、そういうわけじゃ……」
「いーのいーの、別に責めてるわけじゃないの。むしろあたしも嬉しいのよ。雅ちゃんが元気になってくれて。本当、愛の力って偉大だわ」
看護婦は、自分で自分を抱きしめるようにして腰を左右に振るという、奇妙な踊りを頼んでもいないのに披露し始めた。どうやら自分の世界に陶酔しているようだ。
それを見て、本当この人はなんなんだろう、と赤羽は思った。
こんなに綺麗でよく喋る人がどうして看護師をしているのか、と不可解な気がしてならないが、自分の美貌に自惚れている様子も一切ないし、いい意味での軽薄さがある。看護師としての腕自体は不明だが、サンタが配置した人材なわけだし、おそらくは優秀なのだろう。
「それで、結局、何の用なんです?」
痺れを切らした葛城雅の疑問に、看護師は我に返ったように踊りをやめ、音を立てて合掌した。
「そーだったそーだった。ついうっかりしちゃってたわ。これから雅ちゃんの検診をするから、その準備に来たのよ。それでね、悪いんだけど、今から雅ちゃんを診察室に運ばないといけないの。だから仲睦まじいところに邪魔をするようで悪いんだけど、準備に取り掛かってもいいかしら?」
「そうなんですか。……じゃあ俺は、一旦自分の部屋に戻ってるよ」
看護師の話を聞いて、赤羽は葛城雅に断りを入れ、自分の乗ってきた車椅子に腰を下ろそうとした。
「あ、ちょっと待って、涼くん」
「ん、どうしたんだ」
「その……この涼くんの指輪を返したいんだけど。でも、体が動かなくて。だからここまで来て、私から取ってくれる?」
別に今やるべき早急さは感じなかったが、断る理由もなかった赤羽は、「わかった」と再び葛城雅にゆっくりと詰め寄り、その首から、ふたつの指輪が通ったひもをそっとはずしにかかった。
「ついでに悪いんだけどさ、私の左腕を、机の上に乗せて。そしたら少し離れて」
「? うん……」
何かをしようとしている素振りだが、あてはない。とりあえず言われたとおりにしてみる。
看護士と同じ位置にまで下がると、葛城雅は深呼吸し、それから真剣な表情で、曲がったまま伸びきっていない左手の小指を凝視しだした。
すると指の先端から、鉛筆の芯ほどの太さはある、一筋の糸が紡ぎ出されてきた。
赤羽はギョッとする。今披露されているこれは、明らかに過剰超紡績とかいう超心理の産物だ。そして、葛城雅の体の自由が効かなくなってしまったのも、この力を酷使したせいだと金鵄から聞いている。
それなのに、こんなことをして大丈夫なのか、という不安が一気に募る。
たまらず看護士を見ると、さっきの砕けた雰囲気が嘘のように神妙な面持ちをしていた。だが、目の前の行為に口出しをしないでいるあたり、危険の域に達しているわけでもなさそうだ。もしかしたら、単に葛城雅の意志を尊重させているだけなのかもしれないが。
不安が解消されないあいだも、葛城雅はゆっくりと、丁寧に糸を紡ぎ続けていく。そこでもうひとつ衝撃を受けた。
糸は赤羽の知る白濁色ではなく、なぜか鮮血色に染まっていた。
「その色、どうしたんだよ」
「ん? ああ、そっか。涼くんは知らないんだったね。あれからね、私の糸、紅く染まった真っ赤な糸がでてくるようになったの。どうやら私の血が混じってるみたいなんだけど」
「血が混じってる、って……じゃあ、まずいんじゃないか。そんなことしたら」
「多分ね。でも、もうちょっとで終わるから。ここまで黙っててくれたんだし、いいですよね、北嶋さん」
声を掛けられた看護師は、神妙な顔を霧散させて、微笑んで頷いた。
そうこうしているうちに、紡ぎ出された糸は15センチほどの長さにまでなっていた。そして「ん」という声でそれが指先から切り離される。
「これは……」
「その……ね。指輪のひもに、この糸を使ってくれないかな」
唐突な言葉がどうにも理解できず、赤羽はじっと糸を見つめたまま、固まってしまう。
「……やっぱり、私の血が混じってるとか、気持ち悪い?」
「いや、そういうことじゃないんだ。なんで急にそんなことを言うんだろう、って思っただけで。それに、これ、随分と短いじゃん。ひもを取り替えるにしたって、これじゃあ首にかける前に、まず頭も通らないと思うけど」
「大丈夫。それはその長さでいいの」
「これで?」
「うん。それでね、指輪を通したら、今度からはそれを左手首につけて欲しいんだ」
「左手首に?」
「そう。『セグラ』っていうんだけどね、左手首に赤い糸を巻くと、邪視除けになるっておまじないがあるんだよ」
「邪視除け? それって……」
「だから……あの飛鳥ちゃんとか、それに北嶋さんも含めて、私以外の女の人が涼くんに言い寄ってこないようにっていう願掛けの一種、ってこと」
「……へ?」
「だって、あの子は涼くんのことを特別な目で見てるって私にもわかるし──あ、これは駄洒落とかじゃないからね。それに、さっきだって涼くん、北嶋さんに抱きしめられて、嬉しそうにしてたもん」
「ちょ、何言ってるんだよ。飛鳥はそういうふうに俺を見てるんじゃないって。それに、さっきのだって、あれは仕方ないだろ。いきなりだったん──」
粘着質のある視線を向けられて、赤羽は戸惑い、必至で弁論した。だが、たちまち葛城雅の笑い声が聞こえて、担がれたことに気づき、恥ずかしくなった。
「ごめんごめん。そう言ったらなんて言ってくれるのかなー、と思って、ついからかいたくなっちゃって」
「あのなあ」
「ごめんてば」
もとより強く怒ることなんてできない赤羽は、嘆息交じりに笑って済ませた。
「それで? 本当はどういうつもりなんでしょうか、雅さん」
「あれ、まだわかんない?」
勘の悪い赤羽に、葛城雅はゆっくりと、心を通わせて説明した。
「だから、……邪視よけのおまじないをつけておけば、これでもう涼くんは、自分の記憶を消すことができない、みたいな」
「……ああ、そういうことか」
「もちろんこの糸にそんな効力なんてないけど、でも、こうしていつでも目に入れておけば、ずっと傍にいてほしいっていう私の願いごと、それこそ忘れることなんてないでしょ? だからこれは、涼くんが私の願いごとを叶えてくれるっていう、その誓いの証ってこと」
照れるように無邪気に笑う想い人に、赤羽はもう一度、愛しさを覚えた。
「そっか。ありが──」
「ちょっとちょっとちょっと! 何よ何よ何よ! 今のは!」
せっかく心が満たされていたところに、割って入ってきた無神経な看護婦の声が穴を開けてしまう。あんたこそ何だよ、どうしたんだよ急に、と赤羽は胸中で毒づいた。
「そんな顔もできるんじゃない! やば。雅ちゃん、超可愛いんですけど!」
看護婦は、今にも頬ずりをしそうな勢いだった。
「んもう、ニコラス学園ではさぞやモテモテだったんだしょーね」
赤羽の「それはもう」という呟きに、「やっぱり? そりゃそーよね、あたしが男だったらほっとかないもん」と看護婦は何故か誇らしげに語る。
「でもね、涼くん。気をつけなさいよ。そういう子に限って、相手に求める水準がべらぼうに高いんだから。さっきだって飛鳥ちゃんとかあたしの話をしてたじゃない。冗談だとかって言ってたけど、あれ、多分本気よ。これはあたしの勘だけど、雅ちゃん、こう見えて独占欲と束縛心がかなり強いんじゃないかしら。だから気をつけないと痛い目みるわよ。もしかしたら、他の女の子と話しているだけでも、浮気した、とかってすぐ怒るタイプかもしんないから」
「……北嶋さん、だから、全部聞こえているんですけど?」
「あ、ごめーん。全部聞こえてた?」
葛城雅の冷ややかな指摘に、看護婦はしまったという表情で口元に手を当てているが、その口調はいかにも棒読みだし、もとより確信犯なのは自明だった。
たまらず、3人とも吹き出す。本当に食えない人だ、と赤羽は思った。そういうところが瑠璃に似ている気もする。
その後も看護婦は冗談を交えながら、左手の使えない赤羽に代わって指輪のひもを赤い糸に取り換え、そして赤羽の左手首に巻き付けるようにして、結んだ。
「これでよし、っと。どう? きつくない?」
「ええ、ちょうどいいぐらいです」
「そっか。それじゃあ涼くん、悪いけど、今度こそ雅ちゃんを診察室に連れて行くから」
「そうでしたね。わかりました」
そうして赤羽は、今度こそ車椅子に腰を落とし、右手だけで車輪を動かして、ゆっくりと入り口に向かった。
扉に触れて、開き、通ろうとして──最後にもう一度、葛城雅を見た。
ここを訪れたときとは違って、今度は視線が繋がる。
再び結び合った絆がそうさせたように、ふたりとも同時に微笑んだ。
特に何を言うでもなく、赤羽は「じゃあ、また後で」とだけ断りを入れて、部屋を後にし、扉を閉めた。
来たときとは違って、帰りは金鵄がいない。なので、最後まで自力で、右の車輪だけを操作して帰らなければならなかった。
廊下にでてからしばらくして赤羽は疲れを覚え、一息入れようとして途中で止まった。
再び動き出そうとして、ふと、今手に入れた赤い糸が目に入った。改めて見てみると、艶やかで、とても綺麗な鮮血色をしている。
たとえ罪が赦されたのだとしても、赤羽の手は、返り血で染まった悪魔の手だ。
だが、その血を受け継いだ娘の血を染み込ませた糸が、こうして今、奇妙な偶然を経て、左手に巻かれている。
赤羽は思った。
もしも運命の赤い糸というものが本当にあるのだとしたら、これこそが自分にとってのそれなのかもしれない、と。
END




