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赤い悪魔と赤い糸   作者: 八木うさぎ
第5章 繋いだ糸
34/37

悪魔の証明

「……ょう。……おい、りょう


 

 赤羽あかばねは、自分の名を呼ぶ声に気づき、ゆっくりと瞼を開いた。

 そうして鮮明になった視界の中心には、やや長い茶色の髪と、それに埋もれた切れ長の目が印象的な青年がいた。



 スタイリッシュな白のワイシャツに、ヴィンテージ感を醸しだす紺色ぎみのデニムジーンズという身形。服装はともかく、均整の取れたその顔には見覚えがあった。


 

「……なる、み?」

「気分はどうだ」

「ここ……ここは、どこ、なんだ?」


 

 視線を泳がせる赤羽あかばねを横目に、金鵄きんしは近くのパイプ椅子に腰を落ち着かせた。


 

「病院だ。その昔、お前が川で流されて溺れたときに世話になっていたところだ。覚えているか」

「ああ、あの病院か……」


 

 ベッドに横になったまま周りに目を配ると、そこは白を基調とした個人用の病室だった。換気のためか、左側にある2枚の窓の片方が開かれ、明るい日差しが慎ましく射している。

 カーテンを揺らしながら室内にまぎれ込む風は、真冬にもかかわらず、さほど冷たくもなかった。


 

 頭に残っている最後の記憶は──屋上から投身自殺を図ったところまでだ。そこから記憶が一気に今この瞬間へと飛んでいる。

 生きているということはあのとき死ななかったことに他ならないわけが、あれからどうなって今に至るのか。そもそもどうして自分は死んでいないのか。疑問が次から次へと込み上げてくる。


 

「なあ、俺って……どうして生きて──あ痛たたたっ!」


 

 赤羽あかばねは、ついいつもの調子で何気なく上体を起こそうとして、脇腹と左腕から伝わってくる計り知れない鈍痛に悶え叫び、やむなく断念して再び背中を落とした。


 

「重症なんだからじっとしていろ。順に説明してやる」


 

 金鵄きんしは、パイプ椅子に座ったまま腕と足を組むと、例によって無機質な口調のまま、語りだそうとする。

 サンタにまつわる話をそんなにペラペラ話していいのか、と不意に思った赤羽あかばねだったが、金鵄きんしが気にしている様子がないのと、あの日ニコラス学園で俺がそばにいれば問題ない的なことを言われていたこともあって、口にするのをやめた。


 

「まず、今日は12月の30日だ。お前が黒服に捕まったあの騒動から、丸2日以上経っていることになる」

「2日も? そのあいだ、俺はずっと眠りっぱなしだったってことか?」

「ああ。怪我の具合からしてみれば別に不思議なことでもないだろう。逆に言えば、それだけ重傷だったってことだ。今お前が悶えて見せたようにな」

「……そういうお前は、見たところ、たいした怪我とかなさそうだな」

「まあな。敢えて言えば、ここに傷ができたくらいだ」


 

 金鵄きんしは自らの左頬を指さした。

 たしかに引っかき傷のような赤い筋が薄っすらと浮かび上がっている。ただそれもすでにかさぶたのようなものができていた。赤羽の怪我の具合とは雲泥の差だ。


 

「そういえば、飛鳥あすかはどうなんだ? ここにいないようだけど、まさか……」

「心配するな。あいつも無事だ。俺と同じでかすり傷とかはあったようだが、これといって怪我もない。今は別件でここにいないだけだ。あいつも、ああ見えて一応、サンタのリーダーだからな。忙しいんだよ」

「そうか、ならよかった。でもそれじゃあ……その、みやびは、どうなったんだ?」

「どうなった、とは?」

「たしか超邪眼ヴァ・ロールとかって言ったっけか。アレで、飛鳥あすか瑠璃るりさんからお願いされて、みやびの記憶を消すってことになってたんだろ?」 


 

 自分で口にしていながらも、それは未だに受け入れがたい事実。

 屋上から落下する直前に目にしたあの顔が、不思議と勝手に蘇ってくる。



 あの顔すら、もう見ることができない。いや、物理的には可能かもしれないが、そういう意味ではなく。

 そう思い始めると、涙腺が過敏に反応した。ただ、自分にはそもそも涙を流す資格すらもないのだと言い聞かせて、唇を噛んで堪えた。


 

 瑠璃るりの采配に、理不尽だという気持ちはやはり払拭できない。

 ただ、柊や瑠璃るり、そして赤羽あかばねに裏切られたと思い絶望した常盤ときわを解放し、淀んだ心を洗うには、もう記憶を消す以外に方法がないのもまた事実だとも思える。

 第一、諸悪の根源である赤羽あかばねには、瑠璃るりを非難する資格などありもしない。


 

 それにしても──立場上、瑠璃るりは初めから赤羽あかばね常盤ときわとのあいだに、すでに加害者と被害者という歪な繋がりがあったことを知っていたはずだ。

 そのふたりが共に手を取り合って育っていく姿を、瑠璃るりはどんな気持ちで眺めていたのだろうか。

 そして霜月しもつき常盤ときわの記憶を消すよう依頼したという心境はいかほどか。

 どちらも、赤羽あかばねにはわかりかねる。


 

 ──と、そんなふうに整理がつかないでいるなかで受け取った返事の内容は、あまりにも予想外なものだった。


 

「あいつもここに入院している。それで、お前以上に重症だ」

「………………は?」

「内出血や筋断裂で体中がボロボロなのはもとより、首から下の神経には麻痺が残っているらしいし、痛覚のほうは完全にダメになっている。医者の見立てによると、腕や指先は何とか動かせるようだけど、たとえ回復しても、金輪際、両足で立って歩くことはできないらしい」

「……なん、だ、それ?」

「本来なら、意識を正常に保っていられないほどの激痛を感じるはずだそうだ。だが、痛覚がはたらかないせいであいつはそれを感じずに済んでいる。皮肉なことにな」

「……お前、さっきから何を言ってるんだ?」

「だから、みやびの容態についてだ」

「……ハハ。驚いた、鳴海なるみが冗談を言うなんて思わなかったよ。いやぁ、騙されるところだった」


 

 どうにか無理やりにでも笑って見せるが、「俺が、こんなことを冗談で言うとでも思うか」と真顔で呟く金鵄きんしを目にして、やがてその作り笑いが儚く途絶えた。


 

「なんだよ……それ。どういうことだよ! なんでそんなことになってるんだよっ!」


 

 負った怪我の痛みが宥めようとしてくるが、それでも赤羽あかばねの混乱は止まらない。


 

「もしかして、飛鳥あすかがやったのか」

「そうじゃない」

「じゃあ誰が!」

「誰でもない。敢えて言うならみやび自身だな」

みやび自身?」

「ああ。あのときのあいつは、狂化薬ベルセルクルっていう、一時的に運動能力を極限にまで高めるような薬物を使ってドーピングしていたんだ。俺が貸したマンガとかにもそういったものがよく出てきただろう。それをイメージすればいい。実際にその狂化薬ベルセルクルの効果がどれほどのものかっていうことは、お前もその身をもって理解しているだろうがな」


 

 金鵄きんし赤羽あかばねの全身を見回しながらそう言った。


 

「それだけの効能をもたらす以上、全身に多大な負荷がかかるし、その副作用も甚大だってことはお前でも想像できるだろう。それだけでも厄介なのに、そこにあいつの過剰超紡績ストリング・オクテットの影響が加わったことで、あいつの体は、内側から致命的なまでに壊れていったんだ」

「……どういう、ことだ?」 

みやび超心理アンプサイである過剰超紡績ストリング・オクテットはな、自分自身の体内にある、たんぱく質を筆頭としたいろんな栄養素を無理やり搾り取って、それを糸に変えて紡ぎ出すってものなんだ。だから、立て続けに糸を紡げば、その分だけ栄養が不足して体は枯渇していくわけだが……お前、あいつがどれくらい糸を使っていたか、覚えてるか」


 

 言われて、あの日の体育館や屋上での常盤ときわの所作を思い返す。

 あれだけ激しく俊敏に動き回りながら、その要所要所で指先から糸を紡ぎ出していた。それとは別に、体育館はそれこそ蜘蛛の巣のようにどこもかしこも糸だらけだった。

 あれほどまでの量を、躊躇なく──暗にそれは、常盤ときわが胸に秘めたサンタへの憎悪の大きさを意味している。


 

「治らないのか? お前たちサンタなら、なんとかして……どうにかなったりとかは」

「無理を言うな。俺たちはただの盗賊だ。それ以上でも以下でもない」

「っ……どうして……どうしてみやびなんだよ。あいつが何をしたっていうんだよ。悪いことなんか何もしてないのに。悪いことをしたのは俺なのにっ! なのに、どうしていつも、あいつだけ……そこまで酷い目に遭わなきゃ……」


 

 心はなくなり、体すらも死ぬまでボロボロのまま。

 あれもこれも、そうさせたのはすべて自分だ。

 そんな自分は、重症ではあるけれど、それでもこうして今ものうのうと生きている。生き延びている。

 良かれと思って自殺したはずなのに、それしか罪を償う方法がないというのに、それすらも叶わずに。


 

「なあ、鳴海なるみ

「何だ」

「俺はあの日、屋上から飛び降りたんだ。自殺しようと思って。それは知ってるか」

「ああ。ギリギリのところで俺が助けた」

「お前だったのか。なあ……何でそんなこと、したんだよ。頼んでないだろそんなことっ!」

「罪滅ぼしのつもりか」

「ああそうだよ! だって俺は、それだけのことをしたんだから! それなのに……それなのに……っ」

「一応、念のために言っておくが、ここで自殺しようなんて気を起こすなよ。万が一行動に移そうとしても無駄だ。サンタの力を持つお前には、陰ながら厳重な警備がついている。それを忘れるな」

「ハハ……忘れるな、か。そんなこと言っても無駄だと思うけどな。なんてったって俺は、絶対に忘れてちゃいけないような、一番大事ことを忘れていたんだからさ」

「それは言っても詮無いことだろう。強制的に忘れさせられたに過ぎないんだから。こういう言い方は気に障るかもしれないが、本来、()()()()が気にすることじゃない。お前にはどうしようもないことだ」 

「っ……そうだ。自殺がダメだって言うなら、飛鳥あすかに頼んでもう一度、俺って人格を消してもらえばいいんだよ。そうすれば俺の願いも叶うし、もう自殺する気も起こしやしないだろうさ。どうせまた、今回のことも含めて全部、何もかも忘れているんだから。な? 名案だろ? そう飛鳥あすかに言っておいてくれよ、なあ」


 

 金鵄きんしは応じなかった。

 パイプ椅子から立ち上がり、赤羽あかばねの嘲ているかのような訴えかけから逃れるように、窓辺に歩いて、そして外を眺める。


 

 窓の外からふわりと冷たい風が訪れては、カーテンが揺らめき、室内の淀んだ空気を少しずつ、静かに入れ替えていく。金鵄きんしの茶色の長髪が躍るように優しく揺れる。

 そんな静かな時間がしばらく続いていたときだった。

 金鵄きんしが背を向けたまま、「なあ、りょう」と呼びかけたのは。


 

「なんだよ」

「お前は6年前までサンタだったわけだが、自分の力が一体どんなものなのかは、ちゃんと理解しているのか?」


 

 長い沈黙の後にようやく放たれたのが、そんな言葉だった。赤羽あかばねは心のなかで首をかしげる。


 

「そんなの、今は関係ないだろ」

「いいから言え」


 

 金鵄きんしの趣旨が掴めない。ただ、答えない限りは話を進めない、というような意志の強さを感じとり、渋々答える。


 

「……熱を吸収したり、放出したりするんだろ?」

「まあ間違ってはいない。けれど正解でもないな、それは。いいか、お前の力の本質は『与奪』だ。何かを奪い、そのぶんだけ何かを与える。悪人から金品を奪い、それを貧しい人たちに与えるのがサンタだが、お前の力は、まさにサンタそのものを体現していると言える」

「……だから、それが何だっていうんだよ」

「お前は、みやびにとってかけがえのない人の命を奪った」


 

 今までの話の流れから何の脈絡もない単純明快で鋭利な言葉が、胸に突き刺さる。


 

「だからお前は、大事なものを奪ったぶん、それに見合った何かを、みやびに与えないといけなかったんじゃないのか。今一度思い出してみろ。これまでで、お前はみやびに、奪ったぶんに見合う価値の何かを与えることができていたのかを」

「お、俺は……」


 

 言われて赤羽あかばねは考える。この6年を回想する。常盤ときわとの思い出を、直視する。



 病気になって床に臥せていたようなときはもとより、寝坊といった簡易なものまで、どんなときでもいつだって面倒になっていた。面倒をかけてしまっていた。

 川で溺れたときだって、きっとあの糸で、つまり自分の命を削ってまでして助けてくれたに違いない。指輪だって、風邪をひいても、指がボロボロになっても、それでも必死になって探してくれたのだ。

 思い返せば、感謝すべきことがあまりにも多すぎる。常盤ときわを愛するに至った理由が多すぎる。

 ──それなのに。


 

「俺は……これまで、みやびに、何ひとつ与えちゃいなかった。ずっとずっと、与えられていたのは、俺のほうだったんだ」


 

 そうと実感したとき、自然と下唇を噛んで、再び目頭を熱くさせていた。


 

「何も与えちゃいなかった、か。それなのに──それでもお前は、自分の記憶を飛鳥あすかに消させて、それですべて終わらせるつもりなのか」

「でも……だって、仕方ないだろっ! 今から何かしようとしても、もう俺の知っているみやびはいないんだから!」

「だったら何もしなくてもいいっていうのか。お前のことを知っているみやびじゃなければ、何もしなくてもいいって言うのか」

「それは」

「さっきの言い分だとそういうことになるだろう。そもそも、俺はお前に消えてほしくはない」

鳴海なるみ……」

「何もそれは俺だけじゃないはずだ。瑠璃るりさんや柊の子供たち、それにクラスの連中、つまりお前がこれまでかかわってきたすべての人が、お前がいなくなったら悲しむだろう。……そうやってお前は、みんなからもお前という存在を奪っていくのか。またしてもみんなにお前と離れになる悲しみを与えるつもりなのか」


 

 不思議と重みのある金鵄きんしの言葉は、まだ終わらない。


 

「いいか、りょう。これだけは覚えておけ。お前の命はたしかにお前のものだ。でもな、お前だけのものじゃない。そのことをわかっていないようなら、どの道お前に贖罪なんかできるわけがない。自分の犯した罪に苦しんでこそ本当の罰だろう。安直に死んで埋め合わせしようなんていうのは贖罪でもなんでもない。ただのわがまま、自分勝手だ」

「……俺の命は、俺だけのものじゃ……ない」

「ああ。お前は、みやびを心の底から大事に想っている。だからそれだけ苦しんでいるんだろ。だったらその苦しみから逃げようとするな。すぐに終わらせようとするな。大事に想っているなら、辛酸を嘗めてでも生きて、泥水を浴びせかけられてでも生き延びて、お前のすべてをかけてみやびに与え続けるべきだ。違うか」


 

 金鵄きんしの言葉のひとつひとつが、赤羽あかばねの曇りきった瞳を浄化していく。



 自分がすべきことは、死んで楽になることではない。生きて苦しむことだ。

 そして、前の常盤ときわから奪った分の幸せを、今の常盤ときわに与えなければならない。

 それは義務でも罰則でもない。使命だ。それが今の赤羽あかばねが生きる意味であり、死んではならない理由なのだ。


 

「……お前の言う通りだな。もう弱音も泣き言も止めるよ。この怪我が治ったら、ちゃんとみやびを支援する。俺のすべてをかけて。いつまでもずっと」

「それがいい」

「だけど……最後に1回だけさ、なんていうか……甘ったれたことを愚痴ってもいいか」

「なんだ」

「もう、済んだことだから仕方ないってわかってはいるんだけど、……でも、やっぱり俺は、みやびに消えてほしくは……なかった」

「……」

「好きだったんだ……ずっと、あいつのことが。ずっと……ずっと……っ」


 

 滂沱の告白に、金鵄きんしはただ一言、「そうだな」とだけ穏やかに呟いた。


 

 しばらく赤羽あかばねの嗚咽は続いたが、金鵄きんしは何も口を挟まず、ただじっと見守り、いくらか落ち着くのを待ってから、開口した。


 

「俺はこれからみやびの様子を見に行くが、お前も行くか?」

「……え?」

「あいつの容態についてさっきお前に話したけど、アレだって実は人づてに聞いた話で、実際に見てきたわけじゃない。当分ここに来れそうもないし、だからどんな様子なのかちゃんと見ておこうと思ってな。で、お前はどうする?」

「俺は……」


 

 たしかに常盤ときわの容態は知りたい。ちゃんと目で見て把握しておきたい。

 ただ、まだ完全に心の整理がついてもいない。何の準備も心構えもなしに記憶をなくした常盤ときわに遭ってしまって、本当に自分の心が耐えられるかどうか、それがわからない。なにも今すぐでなくてもいい気もする。自分の怪我が治ってからでもいい気がする。


 

 しかし、その考えこそが自分本位に思えたならなかった。

 たった今言ったばかりじゃないか。すべてをかけると。

 その決意を風化させたくはない。


 

 あれこれ逡巡していると、いつの間にか金鵄きんしが傍にいて、手を差し伸ばしていた。

 見つめていた手を、赤羽あかばねは自らの意思で力強く握り返した。


 

 赤羽あかばねは腹部を負傷して間もないため、自力で歩くことはできないので、金鵄きんし赤羽あかばねを介助して車椅子に乗せ、ゆっくりと車椅子を押し出した。そうしてふたりは廊下にでて、ゆっくりと、その最果てにあるという常盤ときわの病室へと向かっていった。


 

 常盤ときわとの距離が、少しずつ狭まっていく。その度に、何故か脈拍が猛々しくなっていった。もうあの常盤ときわはいないというのに。


 

「ひとつ、質問してもいいか」


 

 移動中、急に金鵄きんしが語り掛けてきた。少しだけ顔を後ろに向ける。


 

「お前って本当に、昔の記憶がないのか」

「はあ? おいおい、いまさら何だよ。ないって、そんなもの」

「ただのひとつもか」

「ただのひとつも。記憶があったらそもそもこんなことにもなってなかったと思うけど?」

「それはそうだ」

「何でそんなこと聞くんだよ──って、そうか、たしかに今まではそんなこと聞ける関係でもなかったもんな。何だ? 昔の俺とどこか似通ったところとかクセとかあったわけ?」

「別にそういうわけじゃない。ただな、記憶が本当に残っていないのかどうかなんて、そんなものは当人以外にわからないだろ。周りの奴らには知る由もないことだ。だから一応、念のために聞いてみただけだ」

「ふーん。まあたしかに、存在することの証明はできても、存在しないってことの証明はできないってよく言うもんな。えっと、なんだっけ……そうだ、『悪魔の証明』だったっけか」


 

 赤羽あかばねがそう口にしたとき、金鵄きんしがわずかに微笑んだ。


 

「なんだよ、何か変なこと言ったか、俺」

「そうじゃない。ただ……まったく記憶がないっていうわりには、まさかその言葉がでてくるとはな、と思っただけだ」

「どういうことだ?」

「お前が俺たちの仲間だった頃、お前は自分の力に名前を付けていた」

「うわ。子供みたいだな」

「当時は子供だったんだから仕方ないだろう」

「まあ、俺の母さんも名前を付けていたって話だしな。たしか、『熱泥棒コールド・イールド』だったっけか」

「ああ。だが、聞いた限りだと、それは凍花さん本人じゃなくて、瑠璃るりさんが命名したって話だ」

瑠璃るりさんが?」

「ふたりは親友同士だったらしいからな。それで、昔のお前はそれにあやかって、お前の力も瑠璃るりさんに命名してもらっていた」

「へぇ……ってことは、話の流れからするに、それがつまり『悪魔の証明』だったってことか」

「ああ。実際には、そう書いて、『マクス・ウェル』と呼んでいたけどな」

「まくすうぇる? どういう意味だ?」

「その辺の話は長くなるだろうからまた今度時間があるときにしてやる。ここで説明したところでどうせ理解できないだろうからな」

「……あれ? 今、俺、さりげなくバカにされた?」

「まさか」

「嘘くさぁ……って、あれ? 何の話をしてたんだっけ?」

「お前に記憶があるのかどうか、って話だ」

「ああそうだった。でも、どうしてこのタイミングで?」

「なに、少しでも残っていればいいなと思っただけだ。あいつのなかに、俺たち3人で過ごした記憶が」

「ああ、そういうことか……」


 

 少し弾んだ会話も、そこで急激にしぼんだ。

 そんな可能性が皆無に等しいことは、おそらく赤羽あかばねこそが誰よりもわかっていた。

 自分に過去の記憶がないからこそ、そんなことはないと断言できる。

 金鵄きんしの淡い期待は、まさに期待で終わると断定できる。

 気持ちは痛いほどわかるが、結局はそれが現実なのだ。


 

 そうこうしているうちに、気付けば車椅子の動きは止まっていた。

 奇しくもそこは、遠い昔、赤羽あかばねが渓流に転落し怪我を負った時に世話になっていた病室だった。


 

「……悪い、ここから先はお前ひとりで行け」

「俺ひとりで? え、急にどういうことだよ」

「あいつの様子も気になるけど、お前の心の整理の邪魔をしたくない。片手でも進むことはできるだろ」


 

 あまりにも急な手のひら返しに、赤羽あかばねの心臓が早鐘を打ち始めた。

 束の間、金鵄きんしはが扉をノックする。この時点でもう引き返すことができなくなる。


 

 扉の向こうからは返事が返ってこなかったが、構わず金鵄きんしはその扉を開けてしまう。眩しいくらい白い病室から、流れ込んできたように日光が赤羽あかばねを飲みこむ。


 

 まだ姿は見えていない。

 それなのに、身動きが取れない。本来なら進めるはずの一歩がなかなか進めない。

 自分のなかにある何かがこの先に進むことを恐れ拒んでいるかのように。


 

 そこで、背中に金鵄きんしの手が軽く添えられてきた。

 金鵄きんしはもう何も言わない。ただじっと赤羽あかばねを見つめているだけだ。急かすでもなく、促すでもない。

 その目は、がんばれ、と言っているような気がした。


 

 意を決し、赤羽あかばねは一度生唾を飲みこんでから深呼吸を2度行い、「ありがとうな、鳴海なるみ」と謝礼してから、片手でゆっくりと車輪を転がし、日光に塗れた病室にその身を投じていった。

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