愛と悲しみの八重奏
常盤は、ふと叫ぶのをやめて静かになった。
その奇妙な静けさが、雪が降るほどに外気は冷え込んでいるにもかかわらず、赤羽の背中に汗をかかせる。
「雅……その、俺──」
勢い任せで口をついて出た言葉が、冷ややかで重苦しい場の空気に飲みこまれてしまう。もっとも、この後にどんな言葉を続けるつもりだったのか赤羽にもわからない。状況説明か、謝罪か、それとも言い訳か。どれを選択したところで、間違いなく正解ではない気がする。
「危ないっ!」
そんなふうに自意識にふけっているところに、強烈な猛風が突然右半身を襲う。
まるで見えない面が直撃して横に払いのけられたような衝撃。それは、わずかに足を浮かびあがらせるほどであった。
突然のことであり、また一瞬とはいえ足の支えを失ったことで、赤羽は体の重心の変化に赴くままに、今いた位置よりもやや左に倒れ込むようにして尻餅をついてしまう。
そのままの状態で猛風の根源である霜月を見上げたところで、赤羽は言葉を飲みこんだ。
赤羽が今いた位置に、つまり今この時点では赤羽と霜月のちょうど中間地点に、いつのまにか常盤が立っていたからだ。
20メートルは離れた所にいたはずが、この一瞬で詰められている。
しかも、その体勢がまた恐ろしかった。
右脚一本で体の重心を支配したまま、半身をひねって左脚を思い切り前方へ突きだすようにしているのだ。それはちょうど、ついさっきまで赤羽の腹があった位置をとらえている。
それはもう、疑いようもなく明確な『攻撃』だった。
詰めよった常盤から距離をおこうとして、霜月は瞬時に飛び跳ね後退する。だが赤羽はそれができないでいた。単純に尻餅をついていたということもあるが、それ以上に、今の一連の流れから常盤の胸のうちを悟り、慄いていたからだ。
反して常盤は、黙々と、作業のように、次の攻撃を繰りだし始める。
左脚を折りたたんでしゃがみこむと、すぐに赤羽《赤羽》に飛び掛かっていた。
この体勢で回避する手段はない。
そこに霜月が再び猛風を巻き起こす。今度は赤羽ではなく、常盤を対象としたものだった。
なまじ攻撃態勢に入っていた常盤にこれを防ぐすべもなく、真横から面で叩きつけられたかのように10メートほど吹っ飛ばされてしまう。
だがその途中、両手を床に押し付けて4本足の獣のような姿勢になり、半透明よりも白味が強くなってきた屋上を滑るその威力を一気に削減していた。
そうして体が止まりきるよりも先に、まさに獣のように前方へと飛び掛かかった。
今となっては、赤羽こそが真の標的となっている。だが赤羽を始末するためにもまずは厄介な風を操る霜月を仕留めなければならない。そう結論付けたのか、今度は霜月が攻撃の対象に選ばれている。
すぐに接近を察知した霜月は、まだ尻餅状態の赤羽を横目で一瞥したあと、赤羽と逆方向に向かって滑空するように斜め上に移動した。こうすれば赤羽は、常盤を支点として自分と真逆の位置となり、したがって狙われる危険性も少なくなるだろう、という考えに基づいてのものだ。
案の定、常盤はその誘いに乗るかたちで霜月に迫った。
ただし今の霜月は地上ではなく頭ひとつ上に浮かんでいる。だからこそ霜月の下を駆け抜け、その先にある屋上の縁の段差にまで近づいて、それを踏み台にして斜め上に飛び跳ね、背後からの急襲を試みていた。
しかし、霜月は風──すなわち気体を操ることができる。それはつまり、微々たる気流をも把握し統治下にしているのと同義である。
常盤が背後から接近しているのを気流で察知すると、霜月は滞空したまま接近してくる猛獣に両腕を突き出す。すると常盤の躍動感溢れる接近が、まるで時間を止められた映像のように、あるいは空間ごとそこに固定されているかのように、宙のある位置で急に止まってしまった。
「今のうちに早く逃げてっ!」
霜月は鬼気迫った表情を向ける。
滞空状態にある常盤は全身をブルブルと震えさせていた。束縛を無理やりにでも取り払おうとしているような、そんな印象だ。
ここで赤羽はようやく体勢を立て直す余裕が生まれたわけだが、しかし足が動こうとしてくれなかった。
たしかに逃げることもできたはずだった。だが、この惨状を引き起こしていた原因である自分がこの場から逃げてどうするつもりなのか? と一瞬でも考えてしまったことが、足をその場に釘付けにしてしまったのだ。
霜月が赤羽に気をとられている隙に、常盤は透明な拘束から自由を取り戻してしまい、床に着地した。
これまでとは違い、すぐには動こうとしなかった。膝をつく形となっていて、呼吸もだいぶ荒い。今までの連続的な動きの疲労が蓄積したのか、あるいは全力で見えない檻と戦っていた影響だろうか。
だが次の瞬間、赤羽の視界から、常盤がすっと消えていた。
不発に終わった第一撃目の蹴りが思い出され、反射的に視線が胸元に向く。
予想通り、視界の隅に常盤がいた。すでに赤羽の左横で両手を床につけた状態でその場にしゃがみ込んでおり、右脚を伸ばした状態で反時計回りに、赤羽の左足を刈り取るように水平に蹴りを送り込んでいる、その最中にあった。
勢いの乗った右脚は、標的を容易に絡め取っていった。その結果、赤羽は安定を崩し、体が自然と左に傾く。
そうして今まさに左へと倒れ込んでいる最中、低姿勢のままでいた常盤は、しゃがみこんだその体勢から爆発するように思い切り、喰い込ませるように跳躍交じりで、目前の左半身を蹴り上げた。
この一連の動きは赤羽が常盤に気付いてからものの1秒しか経っておらず、赤羽には終始何が起こっているのか全く反応も認知もできていないまま、気付けば蹴りを喰らっていたことになる。
崩れる体勢に対して、あまりにも逸脱した脚力での直撃。赤羽の体を容易に『へ』の字にさせるに至ったのは言うまでもない。その際、蹴りの接点であった左腕の骨が両断され、低くて鈍いがどこか軽快な音が響いた。ここで、左手に生成されていたあの氷の鉤爪が粉々に砕け散る。
突然沸いた激痛に悲鳴を上げながらも、赤羽は蹴りの威力で少なからず空に向かって上昇していった。
一瞬にして赤羽は重症を負ったわけだが、しかし常盤の攻撃は、まだ終わらない。終わる気配を見せない。
上昇しだした赤羽に向けてすぐさま両腕を振りかざし、親指以外の計8指の先端から糸を勢いよく放射する。その8糸の張力により、赤羽の上昇はより早い段階で衰え、屋上から3メートルほどのところで糸は完全に伸びきり、上昇の勢いは完全に殺される。
その後、下降が始まる──ちょうどそこで、今度は常盤自身が跳躍した。あっさり赤羽を抜き去り、赤羽は操り人形の如く糸に引かれるまま、そこからさらに少しだけ上昇を始める。
そうして常盤は、重力と張力と腕力に遠心力を加えることで強力な合力を持ち合わせているであろう赤羽を鉄槌に見立てて、叩きつける勢いで霜月目掛けて振りかざしてきた。
霜月は普通、このような類の攻撃を繰り出された場合、真っ先に風を使ってその威力や勢いを低減させて攻撃を逸らすなりして対処する。あるいは、そのまま回避することだってある。けれどこのときばかりはそのどちらもできなかった。
すでに重症の赤羽が頭から突進してくるのだ。もしも避けようものなら赤羽は、屋上に激しく叩きつけられてしまう。あの勢いで叩きつけられてはひとたまりもないだろうし、すでに腕も折れてしまっている。
是が非でも受け止めざるを得ない。
赤羽を媒介として充満したエネルギーが、宙に浮く霜月の両腕に食い込むように襲い掛かる。少しでも緩和しようと、赤羽に支障のない程度を考慮して逆風だけは用意しようとしたが、赤羽の呻く姿を目にして、必要以上に力の自制が働いてしまう。
結果、想定の半分にも満たない微風になってしまった。
威力がてんで相殺されていないまま、赤羽を包み込むようにして受け止め、空中を滑るようにやや後退する。
両腕のなかで苦痛に悶える赤羽を見て、霜月は苦虫を噛み潰すような表情を浮かべた。
奇妙なめぐり逢いを経て赤羽と再会してしまった当初は、どう接すればいいのか、とにかくわからなかった。
あのときのことを謝りたくても覚えていないし、一方的に謝って昔のことを喚起彷彿とさせるわけにもいかない。かといって、まるであの件をなかったように、あのときの後悔を忘れ去ったかのように、ヘラヘラと接することなど出来るはずもなかった。
だからもう、とにかく自分の感情を押し殺して押し殺して──そんなふうに追い詰められた心情のときに話しかけられたせいで、ついぶっきらぼうに「黙ってください」という言ってしまった。
こんな素っ気ないと嫌われてしまう、と遅れて思い至ったが、立て続けに思い出した。
あの最後の瞬間、この顔に、『大っ嫌いだよ』と言われたことを。
……そうだ。嫌われればいいんだ。
嫌われるくらい、冷淡になればいいんだ。
結局、そのほうがお互いのためなんだし。
そうしてこれまで私情を一切捨てて接してきたわけだが、結局はそれも完遂できなかった。些細な失言が綻びとなり、ほつれ、最終的には開き直って自分から口を割ってしまったというのだから情けないにもほどがある。
そして、その結果がこの惨劇だ。
またしても自分のせいでこのふたりが不幸になっている。それがどうにも切なかった。
ここで霜月は顔を振って雑念を取り払う。
よくよく見れば、常盤はすでに赤羽に絡み付いていた糸を指先から切り離しており、いつの間にか背後に存在していた。
常盤は赤羽を放ったあと、屋上に着地したと同時に再び跳躍。霜月の背後へ再度と迫っていたのだ。そして、赤羽を抱えたままでいるその頭部目がけて、サッカーのオーバーヘッドキックをかますかのような、ほぼ一回転しながらの蹴りを放っていた。
常盤の豹のように跳舞し太刀のように刺撃する双脚の巧みな連携と、自らの腕のなかにいる手負いの赤羽に気を取られていた霜月の注意の彷徨。それらが合い重なって、霜月は風の結界を十分に張り巡らす時間を与えられないまま、やむを得ず片腕でそれを防ぐ構えをとった。
その左腕の周囲にだけ風の結界のようなものを凝縮させて。
赤羽の腕を容易く両断するほどの蹴りも、必要最低限の防御が間に合ったことにより直撃は免れたが、しかしながら衝撃は健在だったようで、赤羽もろとも勢いよく屋上に蹴り落とされてしまう。
もちろん床との接触時には風のクッションを用意して衝撃を和らげたわけだが、蹴り落されるその途中に腕から零れ落ちた赤羽は、自由落下して屋上の縁の段差に体を打ちつけたわけだが、おかげで地上への落下は免れた。
常盤は落下の最中に、携帯していたファイブ・セブンを即座に取りだして両手でしっかりと構え、下にいる霜月に向けて乱射する。
霜月は膝をつき見上げる形で、今度こそ球状の風の結界を纏い、銃弾の接近を弾いてみせる。そしてその体勢のまま、上空から引き延ばしたかのように球状の風を細長い竜巻状へと昇華させた。
その渦の先端が、うねりながら常盤へと向かって行く。
本来なら、落下中で無力な常盤には迫りくる竜巻を回避する手段はない。
だが、竜巻の接近を目にすると瞬時にファイブ・セブンを放り捨て、左手から最寄りの屋上の縁へと糸を飛ばしつけていた。それを強引に手繰り寄せるように辿って、竜巻の直撃から逃れてみせる。
その際、あいた右手で携帯していた手榴弾をふたつ、プレゼントのように渦の中心にお見舞いしながら。
霜月はその小細工を見逃さなかった。手榴弾が迫ってくるのと入れ違うようにして、竜巻の中心を通って上空へと飛び立つ。
爆発は霜月が床から足を離してから2秒後に起きた。屋上には窪みが生まれ、立ち上る白い煙が竜巻の余韻で渦を巻きながら上空へと延び、そして拡散されていく。
霜月は少し飛び上がったところまで来て、停滞した。ふいに眩い閃光が溢れているのを視界の片隅に捉えたからだ。
もしやと思い、こんな状況だが校庭に一瞬だけ視線を向けてみると──案の定、金鵄がサンタの力を行使し、放電しているところだった。
そうと気づいて見上げれば、いつの間にか雲が雷雲へと変わり、唸り声をあげてもいる。
状況からして、金鵄はアレをやるつもりだ、と理解した。
だが、アレは諸刃の剣。落雷そのものはともかく、それに付随する衝撃波と爆音は敵味方問わずの広範囲攻撃だ。この距離間だと自分たちも巻き添えを喰らうに違いないと思い、背筋が凍りつく。
……私はいい。風でどうにでも防げるから。
でも、おにーちゃんは……ダメだ、呼びかけたりしている暇はないっ!
霜月は宙に浮いたまま両耳を密閉するようにしっかりと塞ぐと、自身と赤羽の周囲に、それぞれ球状の風の結界を急造させた。
かたや赤羽は、糸に塗れながら、折れた腕の痛みに耐えながら、片手で段差を押すようにしてゆっくりと体を起こしているところだった。
そこに突如として自らの周囲に激しい風の気流が展開されたことに、意識が向かう。この不自然な現象が霜月によるものだということはすぐに理解できたが、でも何故? という疑問が生まれる。
そのあいだ常盤は、赤羽とは真逆の屋上の縁の段差に両脚をつけてちょうど屈伸させているところだった。
そうして蓄えられた力はすぐに開放され、縁の段差となる壁面にヒビが入るほどの脚力を発揮して、憎悪の毛皮を被った猛獣となって一気に赤羽に迫ってくる。
赤羽からしてみれば、屋上の縁にいる今、もはや逃げ道はない。
だからこその、この風の結界か──と赤羽は自己解釈をしていた、ちょうどそのときだった。
薄暗い夜空から、果てしなく眩しい光が白い大地に突き刺さったのは。
そして一拍置いてから、脳を激しく揺さぶるほどの衝撃波、つまり大爆裂音が、雪と共に屋上に降り注いだ。
頭痛がしそうなほどの耐えがたい大音量に、赤羽は顔をしかめる。だが、本人は知る由もないが、これでも風の結界のお陰で音の衝撃波をいくらか緩和できていたのだ。
事実、備えのなかった常盤は硬直したように立ち止まり、苦悶を浮かべて耳を押さえている。
こうして生まれた隙に、霜月は赤羽へと下降を始めていた。
問題は、到着を優先するあまり、自身に加えて赤羽の風の結界をも解いてしまっていたことにある。
経験則からして、あの大音量に完全に無防備だった常盤がしばらくのあいだ悶絶しているに違いない、と無意識のうちにそう思い込んでしまっていたことにある。
常盤が、狂化薬を使っていた事実が頭から抜け落ちていたことにある。
だからこそ、ひとつの銃声が妙なタイミングで響いた。
それは、今しがたの轟音と比較してしまえばあまりにも些末なものにしか聞こえなかったが、それでも十分すぎるほど凶悪な音だった。
その音で赤羽は我に返る。
目の前には、歯を食いしばり片手で耳を押さえながらも、近くに落ちていたはずの銃を右手に構えた常盤の姿があることに。
その銃口から、白い煙が立ち上っていることに。
「っ、ぐぁあああああ──」
刹那、左脇腹から、骨折や鼓膜の痛みをも軽く凌駕するほどの酷い激痛が一気に沸きあがった。時を同じくして、赤い液体がゆっくりと、だが止め処なく姿を見せてくる。
痛みに全神経が向かって、もはや立っていることもままならず、その場で崩れるように倒れ込んでしまう。
辺りの白い雪はかき乱され、ところどころに赤い斑点が浮かんでいた。
「お……おにいちゃんっ!」
急変した事態の深刻さに、霜月は血相を変えた。
霜月のなかで、目の前の血まみれの赤羽の姿が、6年前のサンタだった頃の赤羽と重なり、投影される。
……わ、私のせいだ。
私のせいで、おにーちゃんがこんな目にあっている。私のせいで、またっ!
充満した自責の念が冷静さを削ぎ落し、盲目にさせる。
その結果、霜月はなりふり構わずに急降下を始めてしまう。
だが、そんな隙だらけの白い蝿を捉えるために常盤には過剰超紡績がある。そしてその僅かな無防備状態を見逃すほど今の常盤は優しくない。
もはや耳からの苦痛も過ぎ去っていたこともあり、容赦ない飛び蹴りを霜月に贈りつける。
霜月は冷静さを欠いてこそいたものの、それでも最低限の視野は保たれていた。オーバーヘッドキックを防いだときのように片腕に空気の塊を用意して、衝撃に耐える体勢に切り替える。
案の定、蹴りは防ぐことができた。
だが、間髪入れずに襲いかかってきた8本の白い糸までは、そうはいかなかった。
常盤の放つ糸は、それぞれが鉛筆よりも若干細いくらいの太さでしかない。しかしこれが蜘蛛を基にして生成された超心理の賜物であり、そしてこれが蜘蛛の糸と同等の性質・性能であるとすれば、理論上ではジェット機すら捕獲できると言われているほどの強度を持っている。
対して霜月の放つ風の結界は、音速で迫る銃弾すらも相手にならないほどの威力を展開できる。
したがって、この糸がたとえどんなに頑丈であろうとも、風の結界さえ展開していれば、その付着を気流で受け流し免れることもできたのだが、こうして一度でも体に付着してしまえばもう、後の祭りだ。いかに霜月といえど、ある程度の時間をかけなければ駆除できない。だからこそ体育館でも黙って磔になっていたのだし、その駆除を赤羽の力に依存したのだった。
そしてそれが今、右腕の二の腕部分、鳩尾近辺、右脚の大腿部分の合計で3か所に糸が張り付いてしまった。霜月は奥歯を噛みしめ、張り付いた糸を睨む。
そこに追い打ちをかけるように、さらなる糸の波が襲い掛かってきた。
かくして霜月は、先ほどの体育館で磔になったのと同程度にまで糸まみれになってしまい、その場から動くことも困難な状況にまで陥っていた。
風で強引にはがしにかかろうにも、時間がかかる。
全力の暴風を発生させたとしたら、その余波で下手をしたらあの状態にある赤羽が落下してしまう可能性だってある。そしてその赤羽がああも重傷である以上、さっきみたいに焼き切ることも不可能だ。
まさに八方ふさがりである。
この窮状を打破するにはどうするのが最善か、と悩んでいるところで霜月は、ふと自身に張り付いている糸の奇妙な異変に気づく。
不思議なことに、これまで繰り出されていたのは周りの雪と同化するほどに純白だったはずだが、それが今、突如として所々に、綺麗な赤いシミが斑点模様のように浮かんでいたからだ。
この赤色……多分、内出血の影響に違いない。きっとそれが、紡ぎ出す糸に染み込んでいるんだ。
こんなことになっているなら、本当なら仕様者本人であるあの人が自分の体の不調に気づかないはずがない。でも……生憎と、あの狂化薬なんてもののせいで、それに気づけないでいるんだ。
私と戦い始めてからだから、もうだいぶ経つ。そのあいだ、ほとんどずっと動き回っていた。人間の限界を超えて。だから本当はもう、ボロボロのはずなんだ。ああして動いていられるのも、もう時間の問題。
あと少しであの人は、何をしなくても……止まってしまう。
自分の意志とは無関係に、止まってしまう。
半永久的に。
「もうやめて、雅さん! このままだと、あなたの体がっ!」
切にそう叫ぶも、常盤が今になって聞く耳を持つはずもなかった。
構わず、瀕死の赤羽に向かって、ゆっくりと歩み寄っていく。
だが、完全に傍にまでは近づかなかった。体ひとつぶん手前で、どうしてか立ち止まる。
そうしてそれからは一向に動こうとせず、今にも消え入りそうなほどに酷く弱弱しい呼吸の、長い間自分を騙し続けていた詐欺師を、静かに見おろしていた。
これまでの猛追が嘘のように、そっと、じっと。
激痛と出血で意識が朦朧とするなかで赤羽は、屋上の縁の段差にもたれかかるようになりながら、覚束ない視線で常盤を見上げた。
その顔は、まさに出会った頃のように完全に凍てついたもの──と思っていたが、実際はそうではなかった。
どうしてそんな顔をしているのか、わからなかった。
わからなかったが、この表情を晴らすために今どうすればいいのかは、すぐにわかった。
「ご……めん、な。雅」
動かずにいる常盤に語り掛ける。
その胸にまできちんと届いているのかはわからない。でも、続ける。
最後に、伝えておかなければならない気持ちがあるから。
「俺、は、さ。あのとき、に……ちゃんと、死んで、おく、べき、だった……んだ、な。そう、すれば、お前に、こんな、思い、させ、なくて、済んだ、のに、さ」
常盤の表情は変わらない。
しかしお構いなしに続ける。
果てしなく続く痛みに耐えながら、片腕で、這うようにして、体を縁の段差に乗り上げていく。
「でも……今度、は……大丈夫。今から、ちゃんと、……死んで、やる、から。今の、俺が、ここから、落ち、れば、今度こそ……一発だ。ハハ」
段差に乗り上げることに必死で、常盤がどんな顔をしているかはわからない。
「本当は、その、手で……俺を、殺し、たかった、だろう、けど……お前、の、手は、よご、させ、たく、ない、から。これ、じゃあ、気が、済まない、かも、だけど……大目に見て、くれ」
懺悔でもあり遺言でもある独り言は、何にも邪魔されることなく、言い終えることができた。
「それ、じゃあ、な。ほん、とう、に、今まで、……ごめん」
最後にそれだけ付け加えると、残された力を振り絞って、自らを屋上の外へと放り投げた。
できることなら『今までありがとう』と最後に言いたかったが、どの口が言うんだと思い、やめた。
地上から屋上までの高さは約15メートル。死が訪れるまで数秒も掛からないが、あとはもう自由落下にすべてを任せて、ついに瞼を閉じる。
これでようやくすべてが終わる──そう達観したことと痛みの猛威が合わさって、絶命よりも先に意識が途絶えてしまう。
よもや自ら飛び降りるとは思っていなかったのか、ずっと立ち尽くしていた常盤が体の動かし方を思い出したように稼働し、縁まで寄って地上を覗き込む。
するとたちまち、妙な閃光とバチバチと弾けた怪音を纏い引き連れた、白い身形の茶髪の人物──つまり金鵄が、下から打ち上がるようにして、赤羽を抱きかかえて現れた。そのまま屋上に、常盤から少し距離を置いた場所に着地する。
金鵄は常盤に目もくれず、まずはその手に抱えた傷だらけの赤羽に見入った。折れ曲がった左腕に、穴の開いた脇腹。そしてそこから赤い血が今もゆっくりと流れ出てきている。
燦燦たる状態を把握して、赤羽を抱えたまま反転した。
「お前がやったのか、これ」
常盤は答えない。
もちろん自分に向けられた言葉だと理解してはいるが、答えはしない。
「お前が涼にこんなことするとは思わなかったけどな、雅」
問答に応じるつもりはなかったが、まるで自分を知っているような物言いに少しだけ引っかかるものがあり、常盤は久方ぶりに口を開いた。
「……誰よ、あんた」
今度は金鵄が答えない。
いくら旧友の仲とはいえ、この状況だ。声も変えているし、もとより名乗るつもりもない。
名乗ったところで、何かが好転するとは思えなかった。
口を閉ざしたままの金鵄は、次の瞬間には常盤の横をすり抜け、その奥にいた霜月にまで赤羽ごと移動をしていた。
一歩遅れて反応した常盤は、すでに赤羽を床に横たえる作業に移っていた金鵄を見て、その不可解な高速移動に眉をひそめる。
次に金鵄は、霜月の有様を見て、その体にまとわり着く糸に対して、ある二点間を両手で掴み、電気抵抗熱を生じさせて焦がし消滅させる、という除去法を淡々と繰り返していった。
「随分とヘマをしたみたいだな」
「ナハハ。……面目ない」
「それで? 一体どういう状況なんだ、これは」
「その……本当のことをね、おにーさんに教えたの」
それを聞いた金鵄の動きが、一度止まる。
「教えたって、昔のことをか?」
「……ごめん。教えてくれってせがまれて。それで問答を続けているうちに私がボロを出しちゃったの。しかも、それを雅さんにも聞かれちゃって」
霜月は視線を下に向けて、しおらしく答える。
たまらず、金鵄は深い嘆息をした。ニコラス学園に向かっている最中に感じた不安が的中した形となってしまったからだ。もっとも、あのときはまさかここまで深刻な状況になるとは露ほども思っていなかったが。
そこに、ふたつの銃声が口を挟んできた。
そんなことをするのは、この場にひとりしかいない。
だが、銃声の後もサンタのふたりは平然としていた。
常盤は始め、例によって風の結界で防がれたのかと思ったが、そうではなかったらしい。糸を掴んでいたはずの金髪のサンタの片腕が、何かを払いのけたかのように後方に伸びている。
常盤には、今の動作がまったく黙視できていなかった。まさかとは思ったが、現にこうして着弾していないその事実を吟味し、緊張感を募らせると同時に、むやみやたらに続けて発砲するような真似はしなかった。
「とりあえず、話は後だ。今は雅を止めるほうが先のようだからな」
金鵄は、糸の節々にある赤い斑点模様をと常盤を交互に見て、また切断の作業に戻った。
結果的に、切断を始めてから20秒とかからずに霜月から糸が取り払われた。
一歩前に出て、金鵄は電気の鎧を纏う。
「俺がやるから、お前は涼を見ていろ」
「でも、それじゃあ」
「わかっている。アレをやるんだろ。だから準備はしておいてくれ」
「……うん」
背中越しの言葉に、霜月の左眼にゆっくりと邪な光が宿り始めた。
常盤は金鵄が霜月の元に駆けつけてからの約20秒間、先ほどの発砲以外は、棒立ちの状態でふたりを眺めていた。
もちろん、その隙に過剰超紡績で新たに出現したサンタもまとめて捕縛してしまおうと考えなかったわけではない。行動に移そうと構えるよりも先に、自分の紡いだ糸が強引に焼き切られていく様を目にしたため、すぐに諦めたのだ。
そしてそれとは別に、糸の赤いまだら模様と全身に感じる倦怠感から、体がもう限界の一歩手前にまで近づいていることも自覚していた。
ならば唯一の攻撃手段として銃を手に取ったわけだが、結果はあのざまだ。
以上から、せっかく捕まえたサンタの拘束を解くことになるのは口惜しいが、それでもこの時間は、休息と共にふたりのサンタの始末方法を模索するのに費やすのがもっとも合理的と判断したのだった。
常盤は無言のまま、隙あらばいつでも発砲できるようにと、ファイブ・セブンを握る右手に力を込め、構えを取った。
新たなサンタの移動速度は尋常じゃない。その速度で攻撃されれば回避できないかもしれない。ならば、こちらから仕掛けるしかない。
もちろん回避されるだろう。ただ、回避したその位置をどうにか予測し特定して、迅速に発砲する。この二段構えでいけば、あるいは──その考えの元、常盤自ら接近を試みた。
金鵄の敏捷さはかけ離れたものがあるが、常盤も今は常人離れした動きをしている。10メートルはあった彼我の差を一気に詰め、赤羽や霜月に幾度となく放ってきた飛び蹴りを送り込んだ。同時に、右手の指先にも神経を通わせる。
だが、予想に反して、それを金髪のサンタは回避しなかった。身を翻しつつも、常盤の速度に合わせて右腕を送り込まれた脚に平行に動かし、なんと足首を難なく掴んでみせたのだ。その上、そのまま半回転し、常盤の全身に乗った勢いを相殺してみせた。
途端、金鵄から常盤へと、過激な電撃が直に攻め込む。
「がああっ──っ!」
それは、先ほど葛城に賜った落雷とは雲泥の差があるものの、それでも常人を気絶させるには十分な威力を誇っていた。・
だが予想に反して、常盤はこれに耐えぬいてみせた。それどころか、足首を掴まれた宙吊りの状態から、もう片方の足で反撃までしてきたのだ。とっさに金鵄は掴んだ足首を離し、飛びのく。
「……なるほど。服にも織り込んであるのか」
本来、蜘蛛の糸は電気を通しにくい。たまに電線の間で蜘蛛の巣がはってあるのを見かけることがあるが、もし蜘蛛の糸が電気伝導率のよい材質ならば、こんな光景はまず有り得ないだろう。
金鵄が霜月の体にまとわりついていた糸を焼き切れたのは、単に金鵄があまりにも膨大な電気量を操れるからにすぎない。そして先に述べたように、今の電撃には加減を施していた。当然焼き切るには至らない。
その性質とは別に、この糸はただでさえジェット機を捕獲できるほどの柔軟性と耐久力を備えている。それを織り込まれた衣類となれば、非常に有用な緩衝材となるのは必然である。
端的に言って、常盤の糸は金鵄の電撃に対して相性がよかった。
もっとも、だからといって金鵄の電撃がまったく通じないわけでもない。
常盤はしゃがみこむように両手も使って着地すると、すぐさま金鵄に飛び掛かった。
一瞬間には劣るが、それでもとても電撃で麻痺しているとは思えない俊敏さで左右に飛び跳ね、撹乱しながら、ファイブ・セブンの引き金を何度も引く。けれども金鵄は踊るようにしてそれをすべて避けきる。
やがて銃弾が尽きると、常盤は悪あがきのようにファイブ・セブンを投げつけた。銃弾が回避できてこれが回避できないわけもなく、やはり金鵄はそれを避けきる。その投げつけたファイブ・セブンを追うように、常盤の右手から4本、糸が放たれた。
──だがそれが今、どういうわけか糸ではなくなっていた。
常盤の指先から飛びだしたものは、目標に直進したが、張り付くことはせず、まるでファイブ・セブンをつつくような調子で弾いたのだ。そしてその色は、今や完全に真紅に染まっていた。
その様は、まさに鮮血色の槍。
突然の変化に一番驚いたのは常盤自身だった。今までの豹のような流れる動きを止めてまでして、その変化に見入ってしまっている。
次の瞬間、まるで全身がひとつの心臓であるかのように、常盤の体が脈を打つように揺れた。
そして壮大に、盛大に吐血した。白い雪に血だまりが浮かび上がる。
相対していた金鵄も、遠目で見ていた霜月も、それを目にして一気に表情を険しくさせた。
「飛鳥、今だっ!」
いつもは無機質な金鵄の口調が荒々しくなる。その言葉を受ける前に、すでに霜月は足を踏み出していた。
そのまま、左手で胸を押さえながらむせ続ける常盤にかまわず飛び掛かり、常盤を屋上に大の字に寝かせるようにして上に跨り、両手で常盤の両腕を塞いだ。まさにマウントポジションをとった状態になる。
常盤は、一切の抵抗を見せなかった。というよりも、一切の抵抗ができないほどに苦しんでいた。おそらくは自分が今組み敷かれていることすら理解していないだろう。うなされているような表情で、顔からは脂汗のようなものがにじみ出ている。そこでもう一度大きく吐血し、霜月の顔や衣服が赤で彩られる。
だが霜月は自分の顔が汚れたことなど露ほども気にせず、目と鼻の距離まで顔を近づけ、邪悪な双眸の左目から一気に、奇妙な光を漏らし始めた。
その一端に気づいたのか、常盤は苦しみ悶えながら、おぼろげに前を見る。
両目には、霜月の邪悪な左眼に濃紺色の幻想的な光が宿っている光景が映った。




