かじかんだこころ
日付が変わる、その少し前。
盗賊団・サンタクロースのひとりであり、そしてそのリーダーでもあるニコラスこと霜月飛鳥は、ニコラス学園を目指し、自身の周囲に風の結界のようなものを展開させつつ、空一面を覆う雲のその上を飛翔していた。
白いジャージに白いニット帽、それに首のチョーカー、そして両の目を覆い隠すほどに大きめのゴーグル。どれもこれもサンタが盗賊として活動するときの正装──『雪装束』と称されているものである。
葛城ら黒服の工作により、赤羽を捕らえたという一報はすぐさま柊に送られた。霜月は事の顛末を瑠璃から伝聞し、そして今、指定された場所へと向かっているところだ。
その左隣には、霜月の力によって並走するように飛翔している、もうひとりのサンタクロースのメンバーがいた。
「おい。いつもよりだいぶ速くないか」
『ドンナー』の名を冠するその人物も、もちろん雪装束を身に付けている。だが、霜月のそれとは頭部だけ違った。霜月が白のニット帽をかぶっているのに対して、『ドンナー』は、白のバンダナを額に巻きつけている。
「もう少し速度を落とせって。こんなところで無駄に力を使うな」
「そんな悠長なこと、言ってられないもん」
霜月は顔を合わせようとしない。それどころか、『ドンナー』にはさらに移動の速度が増したように感じられ、嘆息が漏れる。
「やっぱり、心配なんだな。あいつのことが」
霜月は答えない。
「それとも、お前が心配しているのは──あいつが、また何かしでかすかもしれない、ってことのほうか」
霜月はやはり答えない。だが、はたから見て取れるほどに力いっぱい歯ぎしりをしている。
「落ち着けって。杞憂だ、そんなのは」
「わかってるよ」
「そうは見えないけどな。今のお前は、どう考えてもあのときのことを──」
「わかってるってば!」
そこで霜月が堪らず吠えた。
ゴーグルで顔の半分が覆われているせいで、たしかな表情はうかがえない。けれど、今にも泣きだしそうに感じられるリーダーのそんな声を聞いてしまえば、『ドンナー』が一抹の不安を覚えるのも仕方のないことだろう。
しばしの静寂が訪れ、それから少しして、空を翔けるその速度が自然と控えめになっていった。
「……ごめん。嘘ついてた。私、やっぱり頭に血が上ってたみたい」
「気にするな。俺だって本当はお前と同じだ」
「うん。もう大丈夫だから」
そうしてまた静寂が続いたが、ふたりのあいだに先ほどのような気まずさはもうなかった。
赤羽が黒服に捕まったという話を瑠璃から聞いたとき、霜月はまず愕然とした。
柊やニコラス学園がサンタクロースと繋がっている、と気付かれたことにではない。
『ベツレヘムの星』というものまで用意し、常備し、徹底して情報漏えいを防いできたのに、その努力が泡になって消えたことにでもない。
それは、単純に、赤羽が命の危険に晒されていることに対してだった。
とはいえ、赤羽が狙われていたことはクリスマス・イブのあの時点から兼ねてよりわかっていたことである。
わかっていたのに、事前に防ぐこともできず、結果的に捕らわれてしまった。それが霜月に自責の念を強く抱かせているわけだが、愕然としたその真髄は、もっと別のところ──さらにその先にある。
霜月は飛翔しながら、これまでのことを回想していた。
何がいけなかったのか。
もしも昨日、無事に指輪の奪還を達成できていれば。
もしもニコラス学園の地下にあるあの部屋に、あの人をずっと閉じ込めてさえおければ。
もしもあの夜、あの人が指輪さえ落とさなければ。
どれもこれももう終わった話だ。今更そんなことを言っても詮無いことに変わりはない。けれど、それでもやはり考えてしまう。
もしもあの人が、あの廃墟に現れさえしなかったら。
もしも高峰望が偽の予告状を表明さえしていなかったら。
もしもあの夜、あの路地裏であの人と出会いさえしなかったら。
そのまま霜月の回想が、あの夜のことにまで飛翔していく。
この状況下、回想せずにはいられなかった。
もしも──もしも今、あの夜に戻ることができたら。やり直せたら。
そうしたら今、きっとこんな気持ちにはなっていなかっただろうに。
あの人に、あんな態度を取らなくて済んだのに。あんな酷いことを言わなくて済んだのに。
あの夜に生まれた激しい後悔ととめどない妄想が、これまでずっと霜月の心に交代で出現し、生殺しにしてきた。その苦痛が今もまたぶり返してくる。
大きく息を吸って、吐き出した。頭のなかのモヤモヤしたものも一緒に追い出すように。
今はもう、何も考えてはいけない。何も考えずに、自分たちを待ち構えている障害に全力で挑むしかない。もう二度と後悔しないためにも……。
そう自分に言い聞かせると霜月は、今度こそ雑念を抱くのをやめにした。
「そろそろ着くよ。準備はいい?」
『ドンナー』に確認を取りながら、霜月は首のチョーカーについた小さな黄金色のベルに片手で触れた。それに続くように『ドンナー』も首元のベルをいじる。
「問題ない」
すると、『ドンナー』の声が、低く野太い女性の声色に変化していた。
「じゃあ最後に確認ね。私が正面から突っ込んで、奴らの注意を引いておく」
返答する霜月の声も、いつの間にか中年男性のものに様変わりしていた。
それぞれの喉元に位置するベルが今、声帯に対して特殊な振動を与え、声色を変えているのだ。ようは身元がバレないようにするための小型の変声機である。『ジングル・ベル』と呼ばれているそれは、サンタ専用の通信機器である『ベツレヘムの星』と肩を並べる、サンタクロースの七つ道具のうちのひとつだった。
「その隙に、俺はあいつを救出して安全なところまで避難させる。それが完遂したらホシで連絡する。その後は指輪の回収に向かう、と」
「うん。何か質問は?」
「ないな」
「オッケー。それじゃあ──降りるよ」
今宵の段取りをかいつまんで再確認し終えると、霜月は飛翔の勢いを下方へと折り曲げ、そうして雲の層から抜け出したころには、完全な垂直落下のようになっていた。とはいえ、ふたりの周囲には風の結界が依然として展開されたままであるが。
流星のごとく地上へ迫っていくと、いくらもしないうちにニコラス学園の輪郭である『田』の字が見えてきた。
「どのあたりがいい? 希望とかある?」
「特にない。俺たちを呼び出すくらいだ、どこも一緒だろ、きっと」
その会話から10秒と経たないうちに、ふたりは十字の屋上の一端に舞い降りた。
サンタクロースは空を飛ぶ。これはもはや世界の常識のひとつとされているわけだが、そのせいもあってか、屋上には合計で8名の見張り役がいた。黒の装いと、狙撃用のライフル銃を構えているところが共通していて、サンタクロースを発見しやすくするためか、散り散りになっている。
しかし、その事実にふたりは微塵も心を動かされたりはしない。
対して、まさか頭上からやってくるとは思っていなかったのか、ふたりに気付いた黒服はたったひとりだけだった。突然の出現に狼狽したらしく、仲間を呼ぶよりも先に2発、闇雲に引き金を引いてきた。
霜月は特に何かの構えをとることもなく、津波のように豪快な向かい風を発生させる。それが、主人にたてつくふたつの銃弾の接近を容赦なく拒んだ。
無力化された銃弾はむなしく足元に転げ落ちた。黒服も強風の余波に煽られて尻餅をつき、そのままの姿で口をあんぐりと開けている。
近場で銃声が沸いたうえに豪快な風の余波だ、さすがに他の7人も7人がみな霜月たちの存在に気付き、たちまち群がってきた。霜月はそれを横目に、屋上から頭ひとつぶんだけふわりと浮かび上がる。
「それじゃあ、がんばってね」
「お前もな」
「……頼んだよ」
「任せろ」
それを機に、霜月は再び風の結界を展開するとそのまま、これから始まる舞台の主役となるべく、屋上にいる何倍もの人数が犇めいている校庭へと飛び去っていった。
残された『ドンナー』の背中に、黒服のひとりが「動くなっ!」と声をぶつける。
7人の黒服は、十字の屋上の中央で、退路を断ち切るように横一列になっている。最初のひとりもすでに体勢を立て直してその列に加わっていた。
向けられた8つの銃口。それらの延長線上に今、標的がいる。
だがそれは、あくまで一瞬のあいだだけのことでしかなかった。
次の瞬間、『ドンナー』は、まさに湯煙の如く黒服らの視界から完全に消失してしまったのだ。
別に目を離したわけでもない。それなのに急にいなくなってしまった。
あまりのことに黒服らから動揺が沸き立つ。
その片隅で、屋上に出入りするための唯一のドアが、若干開かれている状態で、風に煽られて音を立てていた。
こうして何の喧騒も起こらないままの屋上とは対照的に、校庭からは、夥しいほどの銃声が一斉に合唱を始めていた。
こうして開戦の火蓋は唐突に切って落とされた。




