それぞれの隠しごと
赤羽と常盤は現在、柊へと帰省するための電車に乗り合わせたところだった。
電車は進行方向に対して垂直に座席が用意されているタイプで、すべて進行方向を向くように設置されていた。車内の中央に通路があり、その左右に座席があるが、進行方向に対して左側は2人席、右側は3人席となっている。
赤羽らは2人席に座っていた。常盤が窓際で、赤羽が通路側だ。
「それで? 何があったの?」
「何がって、何が?」
「だから、昼まで学校に来なかったこと。さっき教えてくれるって言ってたじゃん」
「ああ、そのことか」
「もしかして、教える気ない?」
「いやそういうことじゃないんだけど、なんていうか……俺自身、今になって、アレが本当にあったことなのか疑わしいっていうか。それに、話したところで多分、信じてくれないって気もするし」
「それでもいいよ」
「絶対に笑わない?」
「うん、絶対に笑わない」
「じゃあ……えっと、どこから話せばいいんだろう」
「たしか、みんなで大正門に集まったんでしょ? そのときには涼くんもまだいたって、さっちゃん(榎本彩智のことだ。彼女のことを常盤はそう呼んでいる)も言ってたし。だから、そのあたりからお願い」
下手に移動距離が長いので、話に興じる時間もあり余っている。
赤羽は昨夜から自分の身に起こり続けた不幸な出来事の全貌を、かいつまんで説明した。
もっとも、超加熱と超冷却についてはこれまでどおり伏せておいたままだが。
そしてまた、指輪を失くしたという件についても、訳あって伏せておくことにした。
最初は真剣に耳を傾けていた常盤だったが、話も架橋に差し掛かったあたりでとうとう我慢できなくなったらしく、笑みをこぼしていた。
「あ、笑ったな。笑わないって言ったくせに」
「ごめんごめん。サンタとか黒い服の人たちとか、なんかまるでマンガみたいな話だなって思っちゃって、つい」
「でも、本当にあったことなんだからな。全部」
「はいはい、信じてるって」
「全然そんなふうには見えないんですけど?」
「そんなことないって。でも、この話をあんまり他の人には言ったりしないほうがいいかもね。虚言とか妄想だって思われるかもしれないし。もちろん私は思ってないけどね」
「そりゃあまあな。でも、瑠璃さんにも言わないほうがいいかな?」
「あー、そうだね。命が狙われているかもだなんて、そんな心配させるようなことは言わないほうが無難じゃないかな」
「それもそうか。結局2週間しかいないわけだし、下手に心配だけさせておいて学園に戻ったりしたら、それこそ迷惑だもんな」
「そもそも、本当に命を狙われているのか、そこも怪しいところだよね」
「だよな。ビックリするくらい何も起きてないし。でも……もしも本当なら、今もどこかから命を狙われているってことだよな?」
声量を絞り、適度に埋まった周りの座席をキョロキョロと見渡す。
「考えすぎじゃない? もしも私がその黒い服の人とかだったら、わざわざ柊まで追いかけるなんてことしないけどな。そんな回りくどいことしないで、すぐに行動を起こしちゃうけど」
「こ、怖いこと言うなよ。そんなにさらっと」
赤羽はもう一度、周りの座席をキョロキョロと見渡した。
「だから、逆説的になっちゃうけど、きっとその黒服に狙われているっていうのはサンタの嘘なんだって。涼くんを3日間も閉じ込めておこうとしたのは、何か別に理由があったからじゃない?」
「別の理由ってなんだよ?」
「それはわかんないけど……とにかく、万が一命が狙われていたとして、それで今もその黒い服の人たちが涼くんを尾行していたとしても、それでも大丈夫だよ。柊には瑠璃さんがいるんだから」
「たしかに瑠璃さんの『超聴覚』なら、結構離れた位置からでも音を聞きとれるから、柊に変な集団が接近していたりしたら、それこそすぐにわかるだろうしな。その点はもう、俺たちがこれまでさんざん身をもって経験していることだから断定できるし信頼もできるし。けど……」
相手の接近を聞き取る。瑠璃の超心理にできるのは良くも悪くもそれだけで、防いだり撃退といった肝心なことはできない。
ひとりひとりが拳銃を持っていて、あの廃墟の地下で見た限りだとそれが少なくとも数十人はいた。もしもそれらがまとめて柊に大挙しようものなら──と、どうしても最悪の予想が捨てきれない。
もしも、もしもそのようなことが起こったときには、瑠璃にも頼れないかもしれない。
であれば、──昼間からおかしいことになっているこの超加熱と超冷却で太刀打ちするしかないのかもしれない。
「どうしたの? そんなおっかない顔して」
「そうか? んー、多分、瑠璃さんに今までやられてきたことを思い返してたからそんな顔になってたんだと思う」
「あーなるほど。フフ、でも懐かしいなぁ。ふたりそろって何度も怒られたよね。頭をこう、グリグリと」
「雅はいいよな、女の子だからってだいぶ手加減してもらってたからさ。俺なんかもう、何度ゲンコツくらったことか。俺がバカなのはきっとそのせいだよ」
「そんなこと瑠璃さんに聞かれたら、またグリグリやられちゃうよ」
「それだけで済めばいいほうだって。でも本当、もうそろそろ気をつけたほうがいいかもな。今日だっていつもみたいに、今頃は駅で俺たちの到着を待ってるんだろうし、だとすると、いつ有効範囲の圏内に入っていてもおかしくないし」
「わかってるって。でも……そっか。それならもう、今しかないかな」
そうして常盤は、絶えず景色が横に流れ去る車窓に目をやった。もっとも、真冬の夕方の時間ともなれば、見える景色などほとんどが闇に塗りつぶされてしまっているが。
何のことだろうかと赤羽は思ったが、一瞬遅れて察しがついた。
「もしかして、葛城先生のことか?」
「え?」
「昨日さ、今日はデートするからキングキャッスルには行けないって言ってたじゃん。あのとき、相手の名前は言わなかったけど、それって葛城先生のことだろ。さっき教室でふたりを見て、すぐにピンときたよ。ああ、この人がそうなんだな、って」
「……そっか。うん、そう。葛城先生があたしの……恋人、なんだ」
常盤は、一度は赤羽に向けなおした視線を、再び車窓に戻した。
「そう。それで、実はね。私さあ、この冬休みを最後に、柊を出ていこうかと思っているんだよね」
一瞬、赤羽は言葉の紡ぎ方を忘れた。
「それってつまり、その……まさかとは思うけど、葛城先生と一緒に暮らすとかって、そういうことを言ってるのか?」
「うん」
「うん、って……それって普通に考えたらかなりヤバくないか? だって仮にも教師と生徒って関係だろ? もしそれが学園側にバレでもしたら──」
「ああ、そのへんは大丈夫だよ。もし一緒に暮らすようになったら、先生は教師を辞めるし。それに、あたしも学園をやめるつもりだから」
「やめる? やめるって、葛城先生はともかくとして、なんでお前まで?」
「それはまあ、なんていうか、その……ふたりだけの秘密ってことで勘弁して。ね?」
そう言われてしまってはもう、反論の余地がない。
そしてそれが、赤羽にとってもっとも聞きたくない言葉のひとつでもあった。
「ああ。なるほど、そういうことか」
「ん、何が?」
「いや、さっきくれたコレだよ。どういうつもりでこんな高価な物をくれたのかな、って思っていたんだけど、つまりあれだ。近いうちにいなくなるから、その餞別ってことだろ。違うか?」
「…………ちぇっ。バレちゃったか。うん、まあそんな感じ」
「それで? 予定だと、いつぐらいに柊を出て行くことになってるんだ? まさか、さすがに明日とかなんて言わないよな?」
「うーん、正直、まだなんとも言えないかな。っていうか、もしかしたら、冬休みが終わってもまだ出て行かないかもしれないし」
「え、そうなの?」
「あれれ? もしかして涼くん、私が出ていかなくてホッとしてる?」
「いやまあ、それは……」
「あーあ、まったくもう。そこはウソでも『そうだ』って言うところなんじゃないかなー」
本当は言いたかった。
ただ、それを口にしてしまうのは、ふたりの門出を祝福していないような気がして、なんとなく憚られたのだ。
「なんて冗談はさておき。このことは瑠璃さんには言わないでね。出て行くってちゃんと決まったら、そのときに私の口から直接話すからさ」
「ああ、そのほうがいいだろうな。下手に騒ぎ立てたりしたら、そうじゃなかったときに面倒だし」
「うん。──あ、ほら見て。あと10分くらいで駅に着きそうだよ。そろそろ降りる準備をしないと」
常盤が社内の電光掲示板を指さす。そうしてふたりは、せっせと下車の準備に取り掛かった。
下車までのおよそ10分、瑠璃の超聴覚の有効範囲を意識して、ふたりはもう今の話の続きをしようとはしなかった。
そのまま駅に到着し、電車から降りて、改札口にまで来たところで、溌剌とした声が聞こえてくる。
「ねえ見て見て、ほらあれ、涼お兄ちゃんと雅お姉ちゃんだよ。おーい!」
「え、どこどこ? ……あ、本当だ。おーい!」
改札を通るふたりに向かって、小学校高学年くらいのふたり──二卵性双生児の姉弟である遠峰谷春香と遠峰谷叶多が、そろって駆け寄ってきた。
「「お帰り! 涼お兄ちゃん、雅お姉ちゃん!」」
「ただいま、春香ちゃん。叶多くん。ふたりとも元気にしてた?」
一歩前にでた常盤は双子のそばにしゃがみこむと、左手で春香の頭を、右手で叶多の頭をそれぞれ優しく撫でた。双子は尻尾を振る犬のように笑顔で「「うん!」」と、そろって元気良く返事をする。
その様子を見てから赤羽は、奥で佇んでいる、手を繋いでいる成人女性と幼女に目をやった。
こうして今この場にいる者が、柊に在籍している現在のメンバーのすべてである。
赤羽の面倒を見てくれていた青年たち3人はもういない。
柊に属する者は年齢が18になった年、すなわちニコラス学園を卒業する際に、柊からも自立して退所しなければならないことになっている。つまり、彼らはそれぞれが数年前に柊から去って行ったのだ。
その代わりといってはなんだが、この数年で新たに3人の仲間が柊に加わっていた。それが春香と叶多と、そして目の前にいる幼女である。
成人女性のほうは、ふたりの育ての親であり、そしてこの柊の長でもある独身女性・瑠璃だ。
外見から判断するに、20代前半くらい(赤羽が出逢った頃から全く変化がない)のこの人物は、常盤よりもこぶしひとつぶん大きい背丈で、赤羽と同じくらいである。
茶色く染めあげた肩に掛かるくらいの髪は縮毛をかけているのか、毛先の方だけややねじれている。白のワイシャツに黄土色のタイトなデニムパンツは、どちらも着古し痛んだ様子があるが、真冬のこの時間帯にたったこれだけの装いで外気に身を晒しているにもかかわらず、当の本人は寒そうな素振りをまるで見せていない。子供たちはそれなりの厚着をしているというのに。
一見した限りではたいそうな美人なのだが、残念なことに中身はそれに反比例しているといって差し支えない。何かと男勝りで化粧っ気もなく、言葉遣いも乱暴であり、とにかく気性が荒い。年齢については触れたが最後、たとえ誰であろうと容赦なく、両の拳を万力のようにしてその者の頭を締めつけるという、腕にものをいわす暴力主義者だ。
しかしその一方で、自分自身よりもまず子どもを第一に考え、心配し、大切にし、そして愛してくれる。その人となりはまさにこの施設の長たるに相応しい。
そんな瑠璃の隣にポツンと人形のように立っている幼女の名は、櫨紬。
半年前、夏季休業に赤羽らが入る少し前に柊の仲間に加わった、若干6歳の新参者だ。
歳のせいか非常に人見知りが激しく、赤羽たちが夏に帰郷したときには、初対面のふたりに近づこうとはせず、特に顔に特徴的な傷のある赤羽からは逃げ回るようですらあった。
だが、ふたりの面倒見がよかったせいか、そんな関係もすぐに緩和され、それどころか夏季休業の終了まであと数日と迫ったころには、紬のほうからふたりのそばによってくるようになったし、ふたりが再び柊を離れるときには泣きだしてしまうくらいにまで関係は良好となっていた。
常盤が双子とじゃれ合っている傍ら、赤羽は奥のふたりの元にまで歩み寄る。
最初に瑠璃と目が合ったが、互いに微笑むだけで特段何も言わず、赤羽はそのまま紬へと視線を映し、そしてかがんで視線の高さを合わせた。
「久しぶりだな、紬。覚えていてくれているかな、俺のこと」
紬は言葉を発しないまま、そして表情も変えぬまま、一度軽く頷いた。
赤羽は安堵し、そのまま紬を抱き上げ、目の前で、「ただいま」とバツ印の顔を微笑ませた。
すると紬は、赤羽の首元にぎゅっと抱きついてきた。そして「おかえりなさい。りょうおにいちゃん」と、耳元で囁いたのだった。可愛らしい仕草になんとなく頭を撫でてしまう。
そんな様子を黙って腕を組みながら俯瞰していた瑠璃の微笑みに気づき、赤羽もそっと微笑む。
常盤も、右手には春香と、左手には叶多と手を繋いだ状態で、赤羽たちのところに近寄ってきていた。ちなみに、常盤が手に持っていた荷物は今、双子がそれぞれ空いているほうの手で持っている。
赤羽と常盤は、一度目を合わせ、そして「ただいま、瑠璃さん」と同時に口にした。
「おかえり、ふたりとも。元気そうでなによりだわ。んじゃ、とっとと柊に帰るわよ。お腹もすいてるだろうからさ」
一言そう言うと、瑠璃を先導者とした集団での移動が始まった。
赤羽は紬を床に降ろすと、そのまま手を繋ぎ、「さあ、行こう」と促す。紬は首肯だけして、ふたりしてみんなの後を追った。
駅前ともなると、コインパーキングでも利用しない限りは基本的に駐車するスペースがない。それはニコラス学園のある都心部だろうとこの田舎町の駅だろうと共通している。違うのは利用率と単位当たりの金額くらいなものか。
そんななかで瑠璃は今、コインパーキングではなく、駅から歩いて2、3分の距離にある大きな病院に車を止めていた。
それは、赤羽が川に落ちたときに運ばれた、あの病院だった。
もちろんその病院でも、駐車場の利用にあたっては病院運営とは独立して有料となっている。もしもこれが無料となれば、立地が駅前であるがゆえに病院とは無関係な駐車が横行し、患者やその家族が駐車できないという、まさに本末転倒な事態になりかねない。それを嫌ってのことである。
けれども瑠璃は、そんな状況下において、柊の付属品であるボックスカーをその駐車場に無料で停めている。なぜならその病院もまた、柊やニコラス学園と同様に、資金融資者が共通しているからだ。赤羽が川に落ちたときにそこに運ばれたのも、ある意味では必然な流れだったと言える。
それゆえ、柊の監督者というある程度の地位を手にしている瑠璃は、いろいろと内部的な特権を有しているらしい。そのひとつが病院の無料駐車券だった。
ボックスカーの鍵を解除して、そのまま瑠璃が運転席に乗り込む。
そうして常盤と叶多が先に後部座席に並んで座り、赤羽は春香と紬と3人で中央座席に並んで座った。したがって、助手席は空いたままである。
このように──駅で待ち合わせをし、そして整備された駅前から歪曲した渓流にそって延々と伸びる山道のまさに途中にある柊まで、柊のメンバー全員で約1時間かけて帰宅する──というのが、ニコラス学園に通う者たちが帰省したときのお決まりとなっていた。
なお、通常の家庭とかであればそのままどこかで外食となりそうな流れだが、柊ではそのようなことはしない。
家族が帰ってくるときは、ご馳走とは言えないまでもそれなりの料理を準備してもてなす。それも柊のお決まりとなっているからだ。
出発してすぐに、叶多が常盤に尋ねた。
「ねえねえ雅お姉ちゃん。今日もお土産とかってあったりするの?」
「お土産? うん、もちろん買ってきたよ」
「本当? もしかして、今度もお菓子だったりするの?」とは春香だ。
「んー、どうだろうねー」
「えー、教えてくれたっていいじゃん」
「──だってさ、瑠璃さん。まだ夕食前だけど、ここで開けちゃっていいのかな?」
お土産を見せてしまえば、どうしてもここで開封する流れになる。それに、移動に1時間もかかるとすると、やはりお菓子をつまみたくなるのが子ども心というものだ。
ただ、到着したらすぐに夕食が待っている。となると、直前で腹に何か入れるのは得策とは言えない。常盤の発言は、そのあたりの天秤加減を考慮してのものだ。
なお、最終決定は監督者である瑠璃のさじ加減というか、そのときの気分による。
「いーんじゃない。その代わり、春香も叶多も、夕食を残したりしないでよね」
「「はーい」」
「それじゃあ瑠璃さんのオッケーもでたことだし、開けちゃおっか。じゃあ……まずはこっちね」
そう言って常盤は、荷物のなかから包装された箱のようなものを取りだした。
それは赤羽の見覚えのないものだった。おそらく学園の門の前で待ち合わせるまでに用意したもののほうだろうが、双子がこれに過剰な反応を示す。
叶多が受け取って、はやる気持ちを押さえながらもできる限り丁寧に包装をとっていった。それを前列にいる春香が膝立ちになって、座席にもたれかかって両肘をついて上から眺めている。紬は気になっているようだがそれを前面にすることはなく、チラチラ様子をうかがっていた。
包装が解かれ、箱を見ると、「うわぁ、何これ!」と叶多がうめいた。「なになに、どうしたの?」と春香が余計に前傾姿勢になる。
常盤が得意げになって語った。
「すごいでしょー。多分、今までで一番おいしいんじゃないかなって思うよ」
ここにきて赤羽は、常盤が何を用意したのか知らずにいたことに気づいた。
だが、9歳の叶多が箱を見ただけで驚愕するくらいだから、今までのお土産とは一線を画しているのだろう。
それにしても、プレゼントされた携帯電話しかり、このお土産しかり、どちらも柊を卒業したときのための貯えとしてアルバイトで稼いだ給料から捻出されていることはまず間違いないだろうが、そんなにお金を使って大丈夫なのだろうか。少なからず疑問を覚える。
しかし、すぐに常盤の心情を察した。きっとこのお土産もまた、みんなとの別れを予期してのものなのだろう、だから奮発したのだろう、と。
そうこうしているうちに、箱のフタが開かれる。
箱のなかには黒い、見た目からしてチョコかココアのようなホールケーキのようなものが6等分された状態で、それぞれが透明な包装をされて収まっていた。
6等分だからひとつひとつが意外と大きく、そして厚みもあるので必然的に量も多い。断面からうかがえる色の違いから、味の違う何層かで構成されているだろうこともわかった。
どこからどう見ても、どこの駅でも売っているような一口サイズのクッキーやケーキとは雲泥の差だった。春香と叶多は、まるで互いのあいだに鏡でもあるかのように、互いを見てはケーキを見る、を何度か繰り返していた。
「これ、本当に食べていいんだよね、今」と春香が常盤にもう一度確認をとる。「いいんだよね?」と叶多が便乗し、同じように確認をとる。
ふたりは、常盤が笑顔で首肯したのを見ると、今度は赤羽に向いてきた。
赤羽は常盤を一度見て、常盤と同じように微笑みながらふたりに向かって首肯する。
そこでようやく、双子の顔にも笑顔が滲みだした。
叶多は、まずふたつ取りだして脇に置くと、すぐに春香に箱ごと渡した。わかっていたようにそれを受け取ると、春香はひとつずつ手に取って、「はいこれ。誰々のぶん」とはしゃぐように手渡していく。瑠璃に至っては運転中なので助手席に置いていた。一方で、ふたつ取った叶多はそのうちのひとつを常盤に手渡していた。
こうしてみんなの手元にまでちゃんと行き渡るのを見届けると、双子は透明な包装を破いて、「「いただきまーす!」」と掛け声を合わせて、ついにケーキを頬張った。
なお、頬張ってから双子があまりにも騒がしくなっていったので、しまいには瑠璃に「ああもう、やかましい!」と喝を入れられてしまうほどだった。
対して紬は、ケーキを口にしようとはしなかった。それに気づいた赤羽が、そっと疑問を口にする。
「紬は食べないのか?」
「もったいないから、おうちにもどってから、ゆっくり、あじわってたべたい」
「ああなるほど。そういうことか。じゃあ……紬、ちょっと耳を貸してくれ」
紬は最初、不思議そうな表情を浮かべたが、何も言わずに左耳を赤羽に向けた。
そして赤羽は、双子に聞こえないようにだいぶ声を絞って「俺のぶんもあげるよ」と耳打ちをした。
紬はまたしても不思議そうな顔になった。それから数秒後に、普段から控えめな声量を、さらに抑えて尋ねてきた。
「……いいの?」
「いいよ」
「でも、そしたらおにいちゃんのぶん、なくなっちゃう」
「いいんだって。食べようと思ったら、またあっちに戻ったときにでも、雅に店の名前とか聞いて買いに行けばいいんだから。でも、紬はそうじゃないだろ」
「だけど……ダメ」
「ダメ? ダメって、どうして?」
「はるかちゃんとかなたくんに、わるいとおもう」
それを聞いて、赤羽は心が温まる思いだった。つい口元が緩んでしまう。
「じゃあさ、これをまた3等分にすればいいんだよ」
「さんとうぶん?」
「そう、3等分。つまり春香と叶多と紬の3人で分け合う、ってことさ」
「……わけちゃって、いいの?」
「いいっていいって。これは俺が紬にあげたものだろ? だったらもう、それをどうしようと紬の自由だからさ。ほい」
そうして赤羽は、そっと紬にケーキを渡した。
受け取ったそれを少し眺めてから、「……ありがとう。おにいちゃん」と口にした紬の表情が、少しだけ綻んだように見えた。
おそらく紬は、赤羽の提案通り3等分にするだろう。だがそこはもう関与しない。今言ったように、紬の自由なのだから。
そんなことを頭の片隅で思っていると、ふたりの様子を俯瞰していた常盤と目が合った。
赤羽が何をしたのかわかったらしい。そして、自然と互いにそっと微笑んだ。
柊はその敷地を柵で囲っており、そして正面には門扉があるのだが、車が門扉の前にまで到着したころには、もう月が空のだいぶ高いところに浮かんでいる時間帯になっていた。
相も変わらず柊の周りには見渡す限りに右にも左にも樹木が広がっている。夏のころと比較しても、これといった変化はない。せいぜい葉の量や色味が違うだけだろうが、夜ではそれらも確認できない。
門扉の向こうにひっそりとたたずんでいる柊は、久しぶりに対面してみると、いくらここで長年生活をしてきた赤羽といえど、ある種の心霊スポットのように感じられた。
理由はふたつ挙げられる。ひとつは、使用目的と住人の数に対して、建物自体がやたらと広く大きいことだ。そしてもうひとつは、柊そのものはもとより、柵や門扉に至るまで、山奥に似つかわしくない、完全な洋風の造りをしていることだ。
瑠璃の指示を受け、赤羽がひとりで下車して入り口の門扉を開く。
車はそのまま赤羽を乗せずに進み、敷地内のある場所で完全に止まった。全員が次々に降車していく。
冬の山奥ともあって、とても冷ややかだった。しかしそれをものともせずに常盤は、大自然の恩恵を取り込む儀式のように、全身で伸びをする。
「んーっ。やっぱりこっちは気持ちいいなぁ。ねえ、涼くんもそう思わない?」
「たしかにそう──は、ハクションっ!」
「あれ。風邪引いたの? 大丈夫? 熱とかはない?」
「うーん、熱はないと思うけど……なんかさ、さっきからやたらと鼻水が垂れてくるんだよな」
そこで瑠璃が、「それはおかしいわね。バカは風邪ひかない、っていうのが昔からの通説なのに」とちゃちゃを入れてくる。
「コラ。バカって言うな、バカって」
「どの口が言ってんのよ。留年リーチのくせして」
「うげっ。も、もう知ってんの?」
「むしろ知らないとでも思ったの? とにかく、その辺のところは夕食が終わったらうんと事情聴取するからね。今のうちから覚悟しときなさいよ」
瑠璃は、満面の笑みを浮かべている。
記憶にある限り、瑠璃がそうしているときはたいがい、非常に怒っているときだ。
帰宅早々、足がすくんだ赤羽だった。
「それじゃあ、あたしと涼は車の荷物を運ぶから、4人は先になかに入って夕食の準備をしててちょうだい。雅、帰ってきて早々に悪いんだけど、3人のことを見てて上げて。ほい、これ」
そして瑠璃は常盤へと、柊の鍵を放り投げた。
常盤はきちんと受け止めて、「了解。じゃあみんな、先になかに入ってよう」と誘導しだした。
どうやら瑠璃たちは、ふたりを迎えに行くその前に、駅の近くにある大型スーパーによって食材や日用品など、ふたりが帰省することに対してのもろもろの買い足しをしていたようだ。今まで車のトランクに積んであったので気づかなかったが、トランクを開けてみて驚く。意外に量が多い。
「こ、これを俺たちだけで運ぶの?」
「なによ。文句あるの?」
あたりまえだろ、と声を大にしたいところだったが、あとで留年の件についての話し合いが控えているせいもあって、迂闊には暴挙にでられない。嫌でも従わざるを得なかった。
そうしてしぶしぶ車から荷物を運ぼうとして、瑠璃が唐突に、手を動かしながら「ところでさ」と話しかけてくる。
「ん? なに?」
「雅だけど、何かあった?」
「何かって?」
「夏に帰ってきたときと、どっか様子が違う気がするんだけど。さっきのケーキだって、聞いてた限りだと結構値の張るものだったみたいだし。どっからそんなお金を用意したのよ、あの子」
赤羽は、瑠璃の観察力というか洞察力に舌を巻いた。
瑠璃のいうとおり、赤羽の知るだけでも、常盤は夏から今日までの4ヶ月、色々とあった。
陸上部を、全国大会に出るほどの実力の持ち主だったのにもかかわらずやめたこと。
学園の教師と禁断の愛を育んでいたこと。そして、その恋人と同棲するために、もうすぐこの柊を巣立っていくかもしれないこと。
たしかに瑠璃の言うとおり、夏までの常盤とは違う。明らかに違う。
だが赤羽は約束した。瑠璃には絶対に話さないと。だから、勤めて平静を装い、ひとつの真実のみ提示して、それ以外はすべて嘘をつくことにした。
「ああ、そういえば言ってなかったっけ。雅のやつ、バイトをしてるんだ」
「バイト? じゃあ陸上部は?」
「辞めた。あっちに戻ってすぐに」
「辞めた? 戻ってすぐってことは、じゃあ9月ってこと? あんなに成績もよかったのに、なんでよ?」
「なんでって、そりゃあ──俺も雅も、もうすぐで18になって、ここをでていくことになるじゃん。だから、そのとき困らないようにって、今のうちにお金を貯めてるんだよ」
「そんな理由で? もったいない」
「そうは言うけど、俺たちからしてみれば切実な問題だろ。だから、別に雅は間違ってないと思うけどな、俺は。むしろ偉いっていうか」
「……ちょっと? その言い分だと、なんだかまるで、バイトをしてるのは雅だけみたいに聞こえるのは、あたしの気のせい?」
「え? いやまあ、その通りだけど」
「ってことはつまり、お前はバイトをしていない?」
「うん」
「へえ……じゃあなに? 雅は部活を辞めてまでして将来の生活費を稼いでいるっていうのに、お前はバイトもしないで、そのうえで留年になりかかってるってわけ?」
「あ……いや……まあ」
「図星みたいね。それじゃあ予定変更。これ全部、お前ひとりで運んでおきな」
「ええっ! 嘘だろ?」
「なによ。文句あるの?」
もちろんあるが、言葉にはできない。
それを見て、「じゃあ頼んだわよ」と瑠璃は玄関に向かって行った。
とにかく、やるしかない。
なるべく往復の回数を減らすため、ばらけた荷物をかき集めることにした。
その最中だった。瑠璃が立ち止まり、質問してきたのは。
「ちなみにさ、雅は何のバイトをしてるワケ?」
「ん? それがさ、俺にも教えてくれないんだよ。『お店に来られたりしたら恥ずかしいから』って」
それだけ聞くと、「ふーん、そう」とつまらなそうに呟き、今度こそ玄関へと向かって行った。