想い人の想い人
教師たちからの慈悲も容赦も手加減もない指導との死闘は、1時間近くにもおよんだ。
長い議論のすえに、赤羽は明日から始まる冬季休業のあいだの約2週間を、膨大な枚数の課題プリントをこなさなければならないという処罰を言い渡された。
嘲る口調で「やってこなかったら留年決定だから」と軽く言い放った学年主任のウインク交じりの笑顔が逆に狂気を感じさせた。これを疎かにしようものなら、今度こそ本当に、本当の本当に留年になってしまうだろう。
説教中、頭の片隅で、これはむしろ学校に来ないほうが良かったのでは? と半分以上本気で考えていたりもしたが、もはや後の祭りである。
そうして断罪を終えたのち、うなだれつつ、置きっぱなしの教科書を回収しに教室へと向かった。
今日は終業日で、今は最後の予鈴から1時間も経っている。そのため、もうすでに校舎内は閑散としていた。
だから当然、自分の教室にまだ誰かが残っているなど露ほども考えがおよばなかった。前扉を普通に、ため息交じりにスライドさせた。
そこで赤羽は、二重の意味で絶句した。
教室内には常盤がいて、そしてもうひとり──男がいたからだ。
常盤は自身の席に座り、男はその前の席に座っていて、一瞬前までふたりは向かい合っていた。だが、予期せぬ突然の訪問にふたりとも過敏な反応を示して顔を向ける。
ふたりの視線に介在する緊迫感と警戒心。鈍感な赤羽もさすがに感づいた。
つまりは──この葛城優こそが、常盤の想い人なのだという真実を。
静寂のなか、葛城が音を立てて席から立ち上がった。それにより、凍りついた時間がゆっくりとまた動き出す。
「あ、赤羽じゃないか。何をしてるんだ、こんな時間に。学校だってもうとっくに終わってるっていうのに」
「……いや、あの、えっと」
「ちょっと待て。そういえばお前、そもそも今日、登校していなかったんじゃなかったか。それになんだ、そんな恰好で来たりして。もしかして今まで寝ていたんじゃないだろうな」
「その、これにはちょっと、深い──っていうか、込み入った不快な事情がありまして」
頭をかきながら口だけで適当に謝罪しつつも、内心では目の当たりにしたこの光景に意識の全てが奪われていた。
「まあいい。で? 職員室にはちゃんと行ったんだろうな」
「それはもう。ほら、見てくださいよ、これ。みんなとは別に、俺だけ冬休みの課題が追加でこんなにあるんですよ」
「何言ってんだ、それで今までの報いがチャラになるなら安いもんだろうが。さて、それじゃあ俺は職員室に戻るとするか」
取ってつけたように言って、葛城は微妙な空気から逃げるように廊下へと出た。
その結果、赤羽はさらなる気まずさを味わう。
視線がぶつかり合う。が、常盤は何も言わない。そして、赤羽も何も言えない。
ただ、大量の課題を持ったままでいることに純粋に腕が疲れたこともあって、頭が再起動するのに時間はかからなかった。とりあえず自分の席に着いて、机をあさりだした。
至近距離からの視線に射られながらも、無視を決め込む。顔を向けない。
やがて、「ねえ、涼くん」と問いかけられた。そのまま作業を続けながら、「なに?」と無機質に返事する。
「今日はなんで遅刻したの? 何かあった?」
「なんで、って言われても。別にしたくてしたわけじゃないんだけどさ」
「……寝坊したわけでもないんでしょ? 私、何度も電話してみたもん。なのに出てくれなかったし。途中で繋がらなくなったりもしたから、何かあったんじゃないかってすごく心配したんだから。もしかして、どこかに行ったりしてたとか?」
常盤はひきっきりなしに質問を投げかけてくる。それがまるで、自分への質問をさせないための防御策なのではないか、というふうに勘繰ってしまっている自分がまた嫌だった。
単純に自分のことを心配してくれているだけなのに、それを素直に受け止められず、ついつい天邪鬼な態度をとってしまう自分。大人げない。
一度リセットする意味で、赤羽はそのまま大きく深呼吸をして、頭を空にした。
「ごめん、その話はあとでちゃんとするからさ、とにかく今は、柊に帰る準備をしようぜ」
「……うん、それもそうだね」
そうしてふたりは、互いの詮索を後回しにして教室をでた。
「今からなら、早ければ夕方くらいには着くかな」
「そうだね。楽しみだなー、みんなに会えるの。夏以来だもんね。それにしても──あれから新しい子が増えていなければいいね」
「だな」
柊は養護施設だ。そこに子供が増えることはつまり、それ相応の不幸がたしかに存在したことを意味する。
柊に属するふたりはそうと理解する。
「まあなんにせよ、普段面倒見てやれないぶん、たくさん遊んでやろうな。なにせ2週間しかいられないんだし」
「うん。でも涼くんはそっちの課題を優先させなよ」
「わかってるって。それにしても、いざ帰ろうって日にこんなに荷物が増えるとはな。まったく、持って帰るだけで一苦労だよ。いや、教科書も持って帰んなきゃいけないから二苦労か」
「ねえ。念のための確認なんだけど、身支度は済んでるってことでいいんだよね?」
「え? あ、あーっと、まあ、その」
「……さては何もしてないんでしょ」
上目づかいで覗き込んできた常盤の表情が、たちまち苦笑いに変わる。
「わかった、それじゃあ私も手伝うよ」
「そうしてくれると──いや、それはダメだ」
「え、なんで?」
「それは、えっと」
目覚ましが壊れたことがバレかねないから、だなんて言えるはずもない。
「自分でやるからさ、雅は自分のぶんを身支度していてくれて構わないから」
「私はとっくに終わってるもん。やっぱり手伝うって」
「大丈夫だよ、どうせ2週間後には戻ってくるわけだし、必要最低限まとめればいいだけなんだから。そんなに時間はかからないって」
常盤は少し怪訝そうになるが、変に勘繰ったりもしてこなかった。
「じゃあ、どれくらいかかりそう?」
「まあ、1時間くらいみてくれればなんとか」
「そっか。じゃあそれまで出かけてても大丈夫? 柊に買って帰るお土産、もう少し見ておきたかったんだよね」
「え? お土産って、昨日一緒に見て回って用意したじゃん。まだ何か買うつもりなのか?」
「うん、ちょっと理由があってね。とにかく、その辺のお店に行ってるから、準備ができたら電話して」
「ああ、わか──あ、ちょっと待ってくれ。ごめん、電話は無理だ」
「え、なんで?」
「俺のケータイ、その……いろいろあって、壊れちゃったんだよね。ホラ」
「……え。ええっ? 何これ? 何? どうしてこんなふうになっちゃったの?」
「まあ、なんていうか、その」
結論としては『自分の尻で潰した』ことになるのだが、それまでにあった紆余曲折がどうにも説明しづらい。
「昨日みんなでキングキャッスルに見物に行ってたんでしょ? もしかしてそのときに落としたとか?」
「うーん、まあ、広く解釈すれば一応そういうことになるのかな?」
「何それ。よくわかんないんだけど……あ」
「ん、どうした?」
「ううん、何でもない。そういうことなら、それじゃあ14時に大正門の前に、ってことでどうかな」
「わかった。それまでにはなんとか間に合わせるよ」
「本当に?」
「何だよその目は。さては信じてないんだろ」
「まさか。でも、もしも遅れたりしたら置いてっちゃうからね」
「ははん。そういうお前こそ遅れるなよ」
「うわ。涼くんにだけは言われたくないなぁ、それ」
ここで常盤は、今日初めて赤羽に笑顔を見せたのだった。
***
約束の14時になった。
珍しく時間を守ることができた赤羽だったが、しかし現在、予想に反して待ちぼうけをくらっている状態である。
ニコラス学園は本日をもって2学期を終了し、明日からは冬季休業期間となるのだが、そのあいだ、生徒も教師も例外なく実家に帰ることになる。
というわけで、赤羽と常盤はふたりが育った養護施設である柊へと約4ヶ月ぶりの帰郷をすることとなり、今はそのための待ち合わせをしていたのだが──指定された時刻になっても常盤が一向に姿を見せないのだ。
大正門の脇に備えつけられている時計を確認してみる。やはりどう見ても14時だ。
「遅いな。一体何をやってるんだ、雅のやつは。へ、へくしゅっ」
それなりの時間を冬の外気にあてられながら過ごしたせいか、くしゃみと一緒に鼻から鼻水が顔をだす。
昨夜、あの少女と空を飛んだせいで風邪でも引いたのかな、とポケットティッシュで鼻をかんでいると、「涼くん」と背後から肩を叩かれた。振り向くと、息が少し上がっている常盤の姿がそこにあった。
「遅れちゃってごめんね。寒かったでしょ」
「気にするなって。いつもは立場が逆なんだしさ。でも珍しいよな、お前が遅れるなんて。何かあったのか?」
「うんとね、これを探し回ってたの。ほら」
常盤は手に持っていた紙袋を赤羽の正面に腕ごと差しだす。その紙袋の外装から、なかに何が入っているのか、大方の予想がついた。
「これって、もしかして」
「うん。いろいろ回ってみたんだけど、どこも売り切れだったから、見つけるのに苦労してね。予想以上に時間がかかっちゃった」
それは、つい先月に発売されたばかりの、最新モデルの携帯電話だった。
そして常盤は、それをさも当然のように赤羽に差しだしている。
「……まさか、俺のために?」
「だって、あそこまで壊れたらもう、修理どころじゃすまないもん。新しいのを買っちゃったほうがいいでしょ」
「そうは言うけどさ、いくらだよ、これ?」
「いいじゃん別に、そんなの。クリスマスプレゼントってことで」
ささいなことのように言ってのける常盤だが、それはあの金銀蓮花が手にしていたのと同じモデル(プラチナ仕様ではないが)だ。ということは、それなりの値段がしても不思議ではない。
「クリスマスプレゼント? いや、いつもはそんなものを貰ったりしてないじゃん」
「そうだけど、なんていうか、今年はちょっと特別っていうか」
今年は特別。常盤のその言葉で、どうしてか葛城の姿が脳裏をよぎった。慌てて雑念を振り払う。
「よくわからないけど、せっかくこうして用意してもらったんだし、受け取らないほうが悪いか」
「そうだよもう。最初から素直に受け取ればいいのにさ」
「いや、なんていうか、正直……さっきクリスマスプレゼントって言ってたじゃん。となると、俺からもお前に、これに釣り合うくらいのプレゼントを用意しないといけなくなるなー、とか、そのための軍資金とかどうしようかなー、とか思ってさ」
「ああ、そういうこと。でも気にしなくていいよ」
「というと?」
「私には何も用意しなくていい、ってこと」
「いや、そういうのはクリスマスプレゼントって言わないんじゃ? それに、このままだと、俺が雅にねだって高価なものを買ってもらっただけになっちゃうじゃん」
「たしかにね。でも、それでいいの」
「いいって……何か理由があるのか?」
「一応ね。でも話すと長くなるだろうし、続きは電車でしよう。ほら、とりあえず開けてみてよ」
とりあえず促されるままに袋から箱を取りだし、その中身を手に取ってみた。
それは、今まで赤羽が手にしていた中古品とは似て非なるほどに洗練されていて高級感のあるものだった。あれだけ渋っていたのに、いざこうして手にしてみると、途端に高揚感が湧き上がるのだから不思議なものである。
もちろん、大切な人からプレゼントされた、ということが最高のスパイスとなっているのだが。
けれど、葛城の存在を思いだして、高揚感がたちまち沈静化した。
嬉しいのに、もう手放しでは喜べない。いっそ、悲しみすら覚えてしまう。
携帯電話を握る手に、少し力が入る。
「本当にありがとうな、雅。これ、大事に使うから」
「あ、うん。それじゃあ部屋に戻って荷物を持ってくるから、またもうちょっとだけ待ってて。涼くんの荷物は今ここにあるので全部?」
「ああ」
「課題のプリント、ちゃんと持った?」
「持った」
「教科書も?」
「もちろん」
「ロッカーに置いてあるぶんも?」
「え、ロッカー? ……あ、そっか」
常日頃から赤羽は、机のみならず、個々に割り当てられているロッカーにまで教科書の類を置いている。そして、さっき回収したのは机のぶんのみに過ぎない。
何故あのときに気づかなかったのかと振り返ってみたが、あのときの赤羽は常盤と葛城のことで頭がいっぱいになっていた。そんなことにも気が回らないほどに。
「やっぱり取ってきたほうがいいと思う?」
「うーん、課題の難易度にもよるんじゃない? ちょっと見せて」
課題プリントの中身をペラペラとめくっていく常盤の表情が、徐々に曇っていった。
「結構難しめだよこれ。やっぱりロッカーのも取ってきたほうがいいと思うけど」
「えー、またあそこまで取りに行くのかよ」
「それは仕方ないじゃん。自分のせい。自業自得でしょ」
「でも、これ以上荷物が多くなるのはちょっとなぁ」
「それじゃあ私が持つのを手伝うから」
「っていうか、いつもみたいに雅が少し手伝ってくれれば済むんじゃん?」
「本当はそうしたいところだけど、ごめんね、今回ばかりは手伝えそうにないんだ。バイトが結構入っちゃってて」
「バイトって……え、休み中もバイトに行くのか?」
「年末年始が繁忙期だから」
「いや、でも……まさか、柊からバイト先まで毎回往復するとか言わないよな?」
「まさか。さすがにそんな面倒なことはしないって。それはともかく──課題プリントの話に戻るけど、さては涼くん、最初から私のこと、当てにしてたでしょ?」
「え? えっと……はい」
「やっぱり。まったく、瑠璃さんの前でそんなことできるわけないじゃん。このあいだの夏だって同じようなことになって、『自分の怠慢が招いたことに対するツケを他人に背負わせるな。自分のケツは自分で拭け』って散々言われてたのに。もう忘れたの?」
「……ああ、そういえばあったあった、そんなこと」
「うわ。本当に忘れてたんだ」
「ってことは──しょうがない、やっぱり持って帰るしかないってことか。じゃあ今から急いで取ってくるから、そのあいだに雅も荷物を準備しておいてくれ。で、またここに集合な」
「うん、わかった」
すでに鍵がかけられていた大正門だったが、その横の入口を馴染みの守衛に事情を話して開けてもらう。そうして全速力で駆け抜け、教室についたころには、例によって息絶え絶えとなっていた。
ロッカーは廊下に設置されている。鍵は元々用意されておらず、必要とあらば生徒が個々人で用意することとなっているが、基本的に教科書とかをしまい込んでいるだけなので、大半の生徒は鍵を付けていない。もちろん赤羽もそうだった。
教科書を根こそぎ持ちだして、肘で戸を閉める。そしてそのまま立ち去ろうとして──開けっ放しの前扉の前を通ったときに、ふと視界に、人影が写り込んだ。立ち止まって来た道を戻る。
教室にいたのは、廃墟に入っていったところから一切の行方がわからなくなっていた金鵄だった。
自席に座っていて、もう学校はとっくに終わっているはずなのに、2時間前にここに来たときにはいなかったはずなのに、金鵄はずっと前からそこにいたかのような空気を醸しだしながら、やはり本を読んでいた。今日はマンガのようだ。
そんな亀のように静かな金鵄と獰猛な犬のように激しく呼吸する赤羽の視線が交わる。
「まさか、今頃登校してきたってわけじゃないよな」
「そうじゃないって。教科書を置きっ放しにしていたもんだから、取りに来たんだよ。そういうお前は何をしているんだ? もうとっくに学校終わってるのに」
「お前と同じだ。本を置き忘れたことを思い出してな。それで取りに来たわけだが、気づいたら席に座って読んでた。他意はない」
「気づいたら読んでたって……本当、本の虫だよなぁ、鳴海って。ところでさ、昨日の夜、キングキャッスルの近くにまで来てなかったか」
「まさか。そんなはずはない」
そうとだけ言うと、音のない時間が流れた。
金鵄はそっけなく否定したが、あくまで否定しただけだ。『その時間はどこどこにいた』とか、そういう説明はない。
ただし、金鵄を尋問したところで暖簾に腕押しだということは重々承知している。時間の無駄にしかならない。ならばもう、この話はおしまいだ。
「そっか、じゃあ俺の勘違いだったのかもな。悪い。それじゃあ俺、もう行くから。じゃあな──っと、そうだそうだ。鳴海、来年もよろしく」
「ああ」
赤羽は軽く手を上げ、そして両手で教科書を抱えると、とぼとぼと教室を後にした。
するとしばらくして、教室から僅かに話し声がしてきた。
聞くつもりはなかったが今はそれ以外の音が一切なく、つい耳に入ってきてしまう。
「──はい、──じゃあ俺は──はい──」
その声からして金鵄だというのは瞬時にわかった。
独り言ではなさそうだから、これはおそらく携帯電話かなにかで離れた相手と会話しているのだろう。
これ以上聞き耳を立てるような失礼なことはしないほうがいいと思い、構わず歩を進める。そして階段を下ろうとしたとき、ちょっと待てよ? と、赤羽はふとした些細な疑問を抱く。
「あれ? 鳴海って、ケータイ持ってないんじゃなかったっけ?」