見えない温度差
無数のオレンジ色の照明に優しく顔をなでられて、意識がゆっくりと覚醒していく。
しばらくして、今の自分があおむけの状態にあることを理解した赤羽は、体を起こして周囲をうかがってみた。
そこは、ざっと見て8畳くらいの広さの一室だった。
部屋のちょうど中央には、ひざより少し高いくらいの横長のテーブルが据えられており、それを挟むようにして、テーブルと平行になるように、同一のソファがテーブルを挟んで向かい合わせになるように配置されている。ちなみにソファは3人が座れるほどの横幅があり、赤羽が着座しているのはそのうちのひとつである。
さらにテーブルの上には、凹凸を表面に浮かびあがらせて口に封がなされている、かなり大きめな白い包みが放置されていた。
それ以外には、この部屋には何もない。
これといってオブジェや絵画など見当たらなければ、ひとつとして窓も見当たらない。
逆に、先に述べたテーブルとソファ以外で無機質なこの空間を彩っているものといえるのは、天井に等間隔で埋め込まれて設置されている電球型の照明と、同じく天井の隅に設けられた通風孔がひとつ。あとはもう、赤羽の正面と左側の壁に設置されたドアがあるだけである。
それらのドアにも違いが見受けられた。
両方ともドアノブがついているタイプのものなのだが、正面にあるドアが見たかぎり木製であるのに対して、左側にあるドアについては何で作られているのか判別がつかない。というのも、まるで周りのコンクリートがむきだしの壁面に溶け込むような色をしているからだ。そのような細工をした木製のドアかもしれないし、もしくは金属製やそれに似た材質なのかもしれない。
そんなふうに左側のドアに焦点をあわせていると、そのドアが開いた。向こう側から押しだされたドアとの隙間から、人が姿を見せる。
それは、小学校の中学年くらいの年齢に見える、幼い少女だった。
小さい顔には大きな瞳が埋めこまれており、若干垂れ目なのが幼さを十二分に演出している。左の眼のはしにくっきりと浮かびあがっている泣きボクロもまた印象的だ。
慎ましい薄桃色の小さな唇と、早熟の林檎のように僅かに紅く染まっている頬。それらが透明感ある肌と見事な対比効果を生みだしている。
頭には純白のニット帽をかぶり、そこから漏れあふれる髪は肩にかかるくらいの長さで、ニット帽とは対照的な漆黒色をしている。髪の毛先は使いこんだ箒のように随所で外側にはねあがっており、それもまた幼さを演出するのに一役買っていた。
額にはスキー用品のような大きめのゴーグルをあてがい、よく見れば、喉元には黄金のベルが取り付けられた黒いチョーカーがある。
そしてそれとは別に、雪の結晶を模した黄金の装飾品が、白いジャージのジッパーを少し下げた胸元あたりで露になっていた。貴重な宝石を用いているのか、天井からの光を浴びてひときわ神秘的な煌きを放っている。少女が全体的に質素な身なりのせいもあってか、それだけが妙に浮いた存在に感じられた。
身なりからして、この少女こそがあのニット帽サンタであることはまず間違いないだろう。
ただ、声は完全に男のそれだったはずだ。なんなら赤羽よりも年上にすら聞こえていた。そのあたりのカラクリはわからない。
そんなふうに赤羽が少女の全体像に見入っていたのに対して、当の少女はどうしてか、赤羽を見るやいなや表情を曇らせ、もはや視界にいれるのも嫌だと言わんばかりに顔を横にそらした。
赤羽は、これもまた例によって『この顔の傷のせいだろうな』と受けとめる。
経験則からいって、初見の者はたいがいチラチラ盗み見るか、もしくは目を背けたままのどちらかに大別される。そしてこの少女は、視線をそらしたまま一度も戻そうとしない。つまり後者といえる。
そういう場合、単純に『醜い』と見なされ嫌悪されている節がある。たしかに、まだ幼い少女にからしてみれば、こんなバツ印を刻み込まれている顔に一種の恐怖を抱いたとしてもおかしくないだろう。
なんとなく指で鼻をかいてしまっている赤羽をよそに、少女はドアを閉めると、その場から顔ひとつ分ほど宙吊りにあったようにゆっくりと浮上した。そのまま、紙飛行機のようにゆったりと宙を泳ぎ、赤羽の向かいにあるソファへの上まで来ると、お尻からゆっくりと、音もなく着陸してみせた。
赤羽は、少女のその一連の動きを首ごと動かして、まじまじと見入っていた。
少女は、赤羽と真向かいになる位置には着座せずに、ソファのはしに身を寄せていた。そして一向に顔を合わせぬままでいると、ソファの上で体育座りになり、どうしてか折り曲げた自分のひざ元に顔をうずめて縮こまってしまった。こころなしか、ひざを包み込む両腕に力がこもっているようにも見える。
そのままじっと、少女は石のように何もしなかった。
ここがどこなのかとか、少女自身のこととか、今の浮遊のこととか、どうして自分がここに連れられてきたのとか、それらの説明が一切ない。時間だけが緩慢とすぎていく。
説明する気がないなら、この少女は何をするつもりでここに来たのだろうか。さっきからずっと塞ぎこんでいるが、真意がまったく理解できない。
しばらく様子を見ていたが、たまらず赤羽は口を開いてみた。
「あのさ、ちょっとだけ、質問とかしてもいいかな」
少女はそのまま何も答えない。
「ああごめん、そのまえに自己紹介しないといけないか。俺の名前は──」
「黙ってください」
「え?」
「だから、黙ってくださいと言っているんです。今、考えているんですよ、いろいろと。だから、もうしばらく黙っていてください」
少女は、俯いたまま、冷淡にそう言った。
赤羽は面食らってしまう。記憶にある限りでは、夜空に浮かんでいたあのときには、せいぜいもうちょっとは親しみのある雰囲気だった気がするが? やはり別人だろうか?
いずれにせよ、そう言われてしまってはもう、いいと言われるまで口を開くことができなくなってしまう。
再び、沈黙がその場を支配する。
もうしばらくというのはどのくらいだろうか、と考えこんでいる矢先に、それは聞こえてきた。
「もう、なんでよりよって私が……最悪」
少女の消え入りそうな独白が、赤羽に余計な混乱を与える。
ひょっとして、この『最悪』っていうのは……俺のことか?
俺、何か悪いことしたっけ?
悶々としたまま短くない時間が過ぎたところで、少女はようやく顔をあげた。
依然としてひざを折り曲げたまま、不機嫌そうな表情のままだ。視線は斜めで、赤羽に向けないでいる。意図的なものを感じた。
「……これから、いくつかの情報を開示しますので、あなたは余計な口を挟まず、黙って傾聴していてください。いいですか」
丁寧な言葉づかいも、冷淡な口調だと、余計に圧を感じるものだ。
また、雑談もなく単刀直入な展開からして、少なくともこの少女は、自分と親しくなる気など微塵も感じ取れない。
いろいろと言いたいことはあったし聞きたいことなど山ほどあるが、機嫌でも損ねてまた途中で話が遮られてもかなわないので、この場はとりあえず「わかった」と首肯してみせる。
夜空にいたときとは声が全く違うことも、もうこの際どうでもよかった。むしろ今のほうが見た目通りでしっくりくる。
同意を得ると、少女は懐から何かを取りだした。それを手元でいじくると、その何かから、オルゴールのような音質の、えらく単調でゆったりとした独特のメロディが流れ始めた。殺風景な雰囲気にわずかばかりの安らぎが加わる。
それを、少女は再び懐にしまう。しかしメロディは続いている。
この一連の作業は一体なんなのか。
この音に何の意味があるのか。
仮に尋ねてみたところで、どうせ無駄だろう。
「……これから情報を開示しますが、その前にまず──すでにお気づきとは思いますが、私はサンタクロースのひとりです。そのことを前提に、話を進めさせていただきます。よろしいですか」
「まあ、そうだとは思っていたけどさ。でも、そんなにあっさりと認めちゃっていいの?」
「必要だから話したまでです。それに、実質的な損害もありません」
「でも、俺が警察に駆け込んだりしたらどうするの? たとえば、似顔絵を描くのとかに協力したりしたら?」
「その程度の低レベルな質問にはお答えしかねます。時間の無駄なので」
「……とか何とか言っちゃって。今のは強がりで、本当は俺に顔を覚えられるのが怖いんじゃないの? だからそうやって、俺と目を合わせないでいるんだろうし」
赤羽の嫌味な追撃に、今度は速答されなかった。
ただし、論破したとかそういうわけではないようだ。少女から、今まで以上の嫌悪感が止めどなく溢れ出しているのが肌で感じる。
それと併せて、どこから現れたのか、風が頬を撫でてきた。ここは密閉された室内だというのに。
風がゆっくりと、荒々しくなっていく。
「……仮に、あなたの言うように目をそらしているとして、その理由をどうしてあなたに説明しなければいけないんですか」
それは、冷淡から一転して、酷く感情的な、怒気に満ちた口調だった。
理由はわからないが、どうやら逆鱗に触れたらしい。
普通であれば、小学校の中学年くらいの少女にすごまれたところで別にどうということはないだろう。だが、少女のそれは、その普通とは明確に違った。
なんとも生々しい威圧と外見とは不釣り合いなほどの迫力。それらが絡み合って訴えかけてくる本気の感情。それに相対した赤羽は、わずかながらもこの少女に恐怖心を抱いた。
ただ、少女のほうでも熱くなり過ぎたという自覚があったらしい。目をつぶって一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。それに伴って、気流も止んでいく。
「いい加減、不毛な発言をして時間を無為にするのはやめてください。正直なところ、私はここにいたくない。一刻も早くあなたの傍から離れたい。私としてはその気持ちを前面に押し出しているつもりですが、それがあなたには伝わっていないんですかね」
「……伝わってるよ、ちゃんと。少なくとも、俺のことを嫌っているんだ、ってことはな」
再び冷淡に戻った少女に今の赤羽が言えるのは、それだけだった。
少女は黙っていた。赤羽がもうこれ以上噛みついてこないか、それを確認したかったのかもしれない。あるいは、何かしら吟味していたのかもしれない。定かではないが、しばらしてようやく元の話を再開した。
「さきほど、私がサンタクロースであることを打ち明けましたが、サンタクロースという名称はあくまで私たちの組織名であって、私個人を特定するものではありません。なので、私のことは──そうですね、『ニコラス』とでも呼んでください。呼びたければ、ですけど」
いかにも偽名じゃないかよ、とは口にしなかった。それこそ少女の言うように時間の無駄だ。
「ふーん。それにしても、君みたいな子供がサンタのひとりとはねぇ」
「……ちょっと。今、私のことを子供って言いましたか」
「え? えっと、まあ」
「失礼なことを言わないでください。私のどこが子供だっていうんですか」
「いや、そうは言うけど、どう見たって子供じゃん」
「だから、子供じゃないってば」
「じゃあ君、いくつ?」
「14、ですけど」
「ほら、やっぱ子供じゃん……っていうかウソ、14? え、君が?」
「……何が言いたいんですか」
ここで少女は、露骨に不機嫌な表情を浮かべてみせた。
しかしそれでも、意地でも視線は合わせないらしい。これではいったい誰に向かって怒っているのかわからない。
「ああもう。私の歳のことなんか、どうでもいいでしょ。これじゃあ一向に話が進まないじゃないですか」
「そうだったな。悪い」
突っかかってきたのはそっちだけどな、という意見はこのさい心の中にしまっておくことにした。
「えっと……私がサンタのひとり、ってところまではお話しましたね。それで──今あなたがいるここは、私たちサンタクロースが隠れ家として使用している場所のうちのひとつです。そして、あなたをここに連れてきたのは、あの高峰望からあなたを守るためです」
「守る? って、ちょっと待って。その前にその、高なんとかって誰?」
「……知らないんですか? 昨日、私たちが襲ったキングキャッスルのオーナーですよ。テレビのニュースとかでも顔が出ていたはずですけど」
「うーん、そう言われてもなぁ。俺、あんまりテレビ見ないし」
「それじゃあ、昨夜あの廃墟の地下で私と対峙していた男性、と言えばわかりますか」
言われて記憶を探ってみる。
面とむかってまじまじ見たわけでもないので詳細こそはっきりしないが、どの人物のことを指して言っているのかはだいたい想像がついた。
「ああ、思い出した思い出した。あの人のことか。……ん? でもなんかそれ、おかしくないか?」
「何がです?」
「なんでキングキャッスルのオーナーともあろう人が、自分のビルがサンタに襲われているってときに、あんなところにいたんだよ? しかも、よりにもよって、そのサンタなんかと一緒にさ」
「だから、それを今から説明しようとしているんです。いちいち疑問を挟まないでください」
悪いという自覚もあるが、こう何度も言われると、段々と頭にくる。
「いいですか。世間では『サンタクロースが今年の舞台としてキングキャッスルを、しいては龍の瞳を標的として選んだ』ということになっていますが、それ自体が、そもそも真実ではないんですよ」
「……へ? それってどういうこと?」
「私たちは毎年クリスマスの日に、あらかじめ今年襲撃する場所に対して予告状を届けるのですが──さすがにそれは知っていますよね?」
「そりゃあまあ。サンタの常識って言ってもいいくらいだし」
「そう、常識です。そしてそれが今回、悪用された。つまり高峰望は、『今年のクリスマスはキングキャッスルが襲われる』っていう偽物の予告状を用意したんです。そして私たちが本物を標的に届ける前に、世間に公表してしまった」
「なるほど。つまりは偽装工作ってやつか」
「そのとおりです。私たちが気づいたころにはもう、今年のサンタクロースの標的はキングキャッスルだと世界的に流布されてしまったあとで、事態はすでに収拾のつかないところまで進んでいました」
「そうなっちゃうともう、サンタとしては、毎年の恒例行事を遂行するにはそこに行くしかない、と」
少女は無言のまま、軽く頷いた。
「でも、待ってくれよ。その高峰ってのが偽物の予告状を用意までして自分の所有してるビルを襲わせようとしたってことはわかったけど、その理由っていうか、そもそもの目的は何だったんだ?」
「おそらくですが、私たちサンタクロースを捕まえるためでしょうね」
「捕まえるって、じゃあ警察に協力してたってこと? 自ら囮になって? それじゃあ今回の件は警察も噛んでいるってことなのか?」
「それは違うと思います。いくらなんでも警察がそんなことをでっち上げたりしないでしょうし、それに、あの人がそんな献身的というか、自己犠牲的なことをするはずがないですからね。おそらくは、私を生け捕りにして拷問にかけ、そこから今までサンタが奪ってきた財宝をそっくりそのまま強奪しようとしたとか、そんな腹積もりじゃないですか。あるいは、切り刻んで、『超越心理』のための実験でもしようとしたのかもしれませんけど。もっとも、私はこうして逃げ延びたわけだし、あなたの予期せぬ登場もあったせいで、あの人の計画もきっと頓挫したことでしょうけど」
「ん? 俺のせい?」
「だってそうでしょう? 本来あの人は、襲われている最中のキングキャッスルの傍にいてしかるべき人。なのにわざわざあんなところにいたのは、表立ってではできない行動をしたかったからです。その証拠に、現にあのとき、私との会話でいろいろと表ざたにはできないようなことも口にしていましたし。周りにいた連中だって、全員銃器を持ってましたからね。それらを一般人に目撃されたとしたら……あなたならどうしますか? 高峰望の身になって考えてみてください」
「おいおい、それってもしかして、俺を──始末するとか? ハハハ……まさかそんなおっかないことを言ったりしないよな?」
「少なくとも、私があの人ならそうしますけどね」
冗談のつもりで言ってみたが、少女は膝を曲げたまま、赤羽を見ることもなく淡々と、物騒な言ってのける。赤羽の半笑いも次第に消えた。
「で、でもそんなのどうすればいいんだ? 警察に行って命を狙われているんですとか言えばいいのか? でも、信じてもらえるかどうか……」
「警察に行く必要はありません」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
「しばらくのあいだ、ここで生活をしてもらいます。ここならたとえあの高峰望といえど、その手が及ぶこともないでしょうから」
「ああなるほど、ここで……ん? ここで?」
「さきほどそう言いましたが」
「いや、こんな生活感のないところで? トイレとかどうするんだよ」
「そういったことは心配しなくても大丈夫です。トイレや浴室、炊事場といったものは、あのドアの向こうにありますから。食料だって備蓄してあります」
そう言って少女は赤羽の正面にあるドアを指さした。
そういうことなら一応は大丈夫かもしれない、我慢すればいいだけかもしれない、と一度は受け入れようともしたが、束の間、別の問題が頭のなかで急浮上した。
それは──そもそも今日はいつなのか? そして今は何時なのか? ということである。
世界がサンタの襲来に注目したのは24日の夜のことである。そしてその次の日の朝、赤羽は『遅刻せずに学園に登校する』という約束を教師陣と交わしていたのだ。留年をかけて。
実際にこんな状況下に置かれていなければちゃんと達成できたのか、と聞かれた速答しかねるが、今が仮にまだあれから1時間も経っていないとしても、どこともわからないこの部屋にいつまでも閉じ込められたままとあっては、教師との契りの履行は不可能に等しい。
そのうえ、学校が終わった後は、常盤と一緒に柊に帰ることにもなっている。それこそ破ることのできない絶対の約束である。
「あ、あのさ。ひとつ聞いてもいいかな?」
「どうぞ。ただし、愚問だと判断したら却下します」
「こ、この部屋には、どのくらいいることになりそうなのかな?」
「そうですね……私が高峰望に必要な措置を講じ終えるまで、ということくらいしか今は言えません。それに──」
「それに(まだ何かあるのかよ)?」
「実は今、それとは別にもうひとつ、サンタにとっての緊急事態が発生しているんです。正直なところ、そっちのほうが高峰望なんかよりも優先順位がはるかに高い。なので、それらを勘案すると……とりあえず、最低でも3日は覚悟してください」
「はあ? 3日だ?」
話にならない。
「その様子だと、何か用事があるみたいですね。でも諦めてください。あなたも、自分の命を守ること以上に優先すべきことなんてないはずです」
「それは……」
「では、これで説明は終わりとなります。これ以上は何を聞かれても答えかねますし、今言ったように私もやらねばならないことがあって忙しいので、すぐにこの場を後にしますので」
「ちょっと待ってくれよ。そもそも今日は何日で、今は何時なんだ?」
「……何を聞かれても答えない、とたった今言ったばかりですが?」
ここにきてそれかよ、とも思った赤羽だが、よくよく考えてみれば、自分の携帯電話でそれを確認すればいいことに気づいた。すぐさま自分のズボンをまさぐってみる。
だが、どうしてかお目当てのものが見つからなかった。
対する少女は、先ほど懐に戻した何かを再び取りだして、延々と鳴り響いていたオルゴールの音色を完全に止めた。
それと時を同じくして突然、少女の上着から、別のメロディが激しく盛大に鳴りだした。
けたたましく訴えかけるような電子音からして、これが携帯電話の着信音であることは疑う余地もない。ただ、少女が改めて懐から取りだしたそれに、どうにも赤羽の視線が奪われる。
たまたま同じものなのかとも思ったが、赤羽の携帯電話は型落ちした中古品であるため、同じものを扱っている人とは滅多に出会うことがない。そういった観点からして、少女が今手にしているのは、まぎれもなく赤羽のそれに違いなかい。
どうりで探しても見つからないはずだった。おそらくは目を覚ますまでの間に盗まれたに違いない。
──そんな赤羽の視線を意に介さずに、少女は寡黙に手元の携帯電話を操作して黙らせた。
「おい。それ、俺のだろ。返せって」
たまらず、赤羽は少女に詰め寄り、強引にその手に触れた。
だが、それがいけなかったらしい。
少女が、反射的に赤羽と顔を向き合わせた。それから能面的な表情が崩れていき、みるみるうちに焦りや脅えの色が染み込んでいったのだ。
「やめ……触らないでっ!」
やがて我慢の限界を迎えたらしく、絶叫が起こった。
刹那、この狭い空間に収まっていた気体が、彼女の感情の起伏に呼応するかのように、女王に隷属する兵士のように、赤羽へと襲いかかってきた。突如として発生した豪風に飲みこまれ、体ごと吹き飛ばされ、そのまま壁へと打ちつけられてしまう。
しかし、それだけでは終わらなかった。
断続的な豪風は、赤羽に足を床につけることを許そうしない。磔刑のように背中を壁につけたまま大の字になっている。そんな風の圧力以前に、そもそも呼吸すらままならない。まさに拷問のような仕打ちだ。
必死でもぎ取った携帯電話も、いつの間にか手から零れ落ちてしまっていた。
そこで少女が我に返ったことで、部屋の天災がたちまち止んだ。赤羽はようやく拘束から解除され、壁伝いに床へと腰を落ち着かせる。
すると、尻のあたりから、バキッ、という嫌な音が耳に入ってきた。
今の騒動で気力というものが削がれていた赤羽は、ぐったりしたまま視線だけを移して確認してみる。確認してみて、今度は血の気が引いた。
なにせ、奪い返したはずの携帯電話が今、自分の下敷きになって大破していたからだ。
嘘だろ? と手に取ってみるも、蜘蛛の巣ばりにいびつで繊細な波紋を画面の全面に描いたそれは無反応を決め込んだままピクリとも動こうとしない。
呆然としている赤羽の様子に、少女はバツが悪そうな表情を浮かべるも、すぐさまそれを押し殺し、逃げるようにこの部屋に現れたときのドアにまで飛びよっていた。
「あ、おい、ちょっと待てよ!」
すでにドア開いて半身を部屋の外にだしていた少女は、振り返り、赤羽に手をかざす。
室内の空気が再びざわめいた。そのようなことがこの密室で自然と起こるはずもない。
まるで先ほどの豪風が再来するかのような予感に、条件反射が働いて身構えてしまう。自然と両腕が動いて顔の前で交差していた。
そのまましばらくじっとしていたが、予想に反して、豪風は訪れなかった。
おかしいと気づいて警戒心を解いたときには、ドアはすでに閉まりきる直前だった。
一言も発する暇もなくドアは閉じ切ってしまったのだが、そうなる一瞬のあいだにとらえた少女の表情が、世間では憂愁と呼ばれるものだったのを赤羽は見逃さなかった。