41ねこ いざ出陣
さて現実に戻ってきたわけだが。
ご主人がもうすぐ帰ってくるとはいえ、当たり前の話現状ではまだ帰ってきていないわけで、少しだけ空白の時間ができた。こういう、何かするには短いが何もしないと長い時間が俺は苦手だ。
とりあえず、部屋からの脱出経路を確認しておこう。候補は玄関とベランダだから、その二つを中心に。
あとは……書置きってやっぱ用意したほうがいいだろうか。タイムリミットまでに帰ってこれるかどうかは正直わからないし、なんだったら猫の身だと無事に帰ってこれるかもわからないだろうけど、だからといって目的を素直に書き残すべきでもないだろう。
となると無難に「少し外に出ます、探さないでください」的な感じになると思うんだけど、それはそれで不安をあおるだろうし……うーん、どっちがより正解に近いだろうか。
なんて悩んでいるうちに、ご主人が帰ってきた。むむむ、どうしたものか。
とはいえそういうそぶりを見せるわけにもいかないから、できる限り普段通りを心掛けて対応。
彼女の食事に付き合いつつ(今日の昼飯は俺の苦手な食べ物が多かったからつらくはなかった)、例のドラマの件について話を聞く。
どうも俺を起用することについてはわりと前向きに話が進んでるようで、この感じなら主従揃ってのドラマ出演がかないそうとのこと。
「あとこれはまだ提案程度の段階なんだけど、もしかしてナナホシに吹き替えがつく可能性もあるみたいよ」
「にゃあん?」
「ペット目線の話にしても面白いんじゃないかって案が出たみたいでね。まあその辺りはあたしが関与できることでもないから、話半分で聞いてるんだけど」
モノローグをつけて、狂言回しにでもするのかな。それはそれで、話の色合いがだいぶ変わりそうだが……。
俺に声がつくなら、自分で声当てたいなぁ。ハリウッドで活躍してる大物俳優が、出演映画の日本吹き替え版で吹き替えもやってるわけだし。自分でできるなら自分でやりたいのが人情じゃないだろうか。
SWWのボイスシステム、うまいこと使えないかなぁ。あれを転用できれば、俺ももう一度声優できる可能性があるんじゃないかと思うんだが。
まあ、それは高望みがすぎるか。転用されるとしても医療分野が先だよな。
ドラマのほうも構成自体完全には固まってないわけだし、これに関しては深く考えないようにしておこう。
そんな話を済ませたあとは、二人でSWWにログイン。レベリングとマッピングをこなしているうちに、あっという間に時間を迎えた。
「それじゃもっかい行ってくるわね。前にも言っといた通り、帰りは遅くなるだろうからよろしくね。ご飯はいつものところに用意しておいたから」
「うなぁ」
設置されてる自動のペットフード給餌器に視線を向けながら返事する。
まああれ、自動の給餌機能は使われていないんだけどな。俺が自分で使用できるからもっぱら手動で運用されていて、早い話が高価な弁当箱みたいになっている。
スマホと連動した最新の高価なやつではなくタイマー式だから、そこまで高価ってわけでもないが。そこら辺は、俺の知能を知ったご主人がここは少し節約してもいいよねって財布の紐を締めた結果だ。
それはともかく、ご主人の発言は要するにいつでも食事ができるから好きなタイミングで食べてねってことだ。この辺りは普通の猫と違って気楽なところだろう。自制も求められるが。
「それじゃ、行ってきまーす!」
「にゃーん!」
ともあれご主人を見送る。ひらひらと前足を振る先でばたんとドアが閉まり、ご主人の気配が遠ざかっていく。
それから場所をベランダに移して、彼女がこのマンションから離れたのを確認した上で……。
「にゃっ」
よし、やるか。
自分の頰をぱしんと叩……こうにもうまくいかないけど、とにかく叩いて気合を入れて。
まずはだいぶ悩んだが、書置きを一応パソコンに入れておく。スクリーンセーバーはオフにしておいたから、この状態にもすぐ気づくだろう。
内容は無難に「少し出かけてきます、すぐに戻るので気にしないでください」的なものにしておいた。
いや、もっと凝ったものにしたかったけど考える時間がなかったんだ。遅くなるとはいえご主人はそのうち帰ってくるし、何より湊からのメッセージがいよいよ切羽詰まった感じになってきてたから、これ以上は待たせられないと思って。
時間制限がある展開はどうにも好きになれない。でも現実って大体そんな感じだよな。その中でそのときのベストを尽くすしかない。がんばろう。
さていよいよ部屋から脱出するわけだが、これはベランダからとなる。玄関から出るとまず鍵をかけられないから、これは仕方ない。っていうか、そもそも玄関のドアが重すぎてこの身体じゃ動かせないし。なのでこれは却下。
そして他に出入り口になり得るところはないので……まあ、必然的にベランダから出ることになるわけだ。
ただ、問題になるのは立地だ。この部屋、実は四階でな。人間がここから飛び降りたら命にかかわる高さだ。猫であってもさすがに無傷とはいかないだろう。
まあでも、角部屋でな。隣の建物が目と鼻の先にあるから、やりようはある。足場は相応に存在するから、そこを伝っていくってわけだな。
これがなかったら、サーカスさながらの綱渡りじみたことをするしかなかっただろうけど。この辺りは、運が良かったと喜んでおこう。
「ぐにゅ」
というわけで、ベランダから隣の家の屋根に飛び降りる。今風のデザインをした箱型のそれは、屋根もほとんど傾斜がなくて着地も簡単だった。なんていうか、思ってた以上に身体が動く。これは嬉しい誤算だ。
まあ着地時の足への痛みは懸念通りあったわけだが、事前にある程度慣らしてたこともあってか許容範囲内だ。
ここが、二階ちょい上くらいの高さ。ここから屋根の上を移動して、この家のベランダに降りて……。
「にゃー!」
ここからなら行けるだろと思ってジャンプ。そのまま華麗に道路へ着地。うーん、十点。主人が帰ってくる前に確認しておいたから、ここまでは特に悩むことなくスムーズに来れたぜ。
だけどここからは、ほぼ未知の領域だ。周囲を見渡してみると……うーむ、上から見たことはあったが、こうやって道路に立つと自分が小さくなったんだなってのがよくわかるな。見るものすべてが巨大でやんの。
今のところ動き回るものが周りにないからそこまで圧迫感とかはないけど、人通りの多いところはもちろん交通量の多いところに出たらまた感じ方も変わるんだろうな。
まあそのときはそのときだ。ひとまず、第一目標である最寄駅に向かおう。道は覚えてきたから大丈夫だ。その方向へまっすぐ進む。
……歩きながら思うが、ご主人って本当にいいところに住んでるんだなぁ。佇む建物はいずれも高級感のある一軒家かマンションばかりで、高級な住宅街って言葉がこれほどしっくり来るところなんてテレビでくらいしかお目にかかったことがないぞ。
これであのセキュリティ抜群のマンションに一人暮らしだろ? ご主人って一体どれだけ稼いでるんだろう。まだ二十代半ばなのに。当たればでかいと言われる芸能界だけに、売れっ子となると収入も凄まじいってことだろうか。
とはいえ、運だけでのし上がれる世界でもない。確かに生まれが歌舞伎一家というのは幸運だったかもだけど、本人も相当に努力してないとこうはいかないよなぁ。
そんなことをつらつらと考えながら歩いているが……うん。遠いな。そもそも身体が小さいから、一歩一歩が人間とは比べ物にならないくらい小さいんだよなぁ。
それで長距離を行くとなると数をこなすしかないが、あんまりやりすぎるとただの走りになってスタミナに響く。タイムリミットがあることを考えると急ぎたいから走ること自体は問題じゃないんだが、人間だった頃に比べると今は格段にスタミナがない。
これは俺が飼い猫だからってのもあるが、そもそも猫という生き物自体が元々持久走に向いてない生き物だから、どうしようもない。ここは気合いでなんとかするしかないだろう。
「にゃー……」
横を通り過ぎる自転車が恨めしいぜ。まったく文明の利器ってやつぁ……。
しかしこうなってくると、やっぱり駅に向かう選択は正しそうだな。この時間帯ならさほど混雑はないだろうし、電車に頼らせてもらうぜ。
そうやってえっちらおっちら歩き続けて、どれくらい経っただろう。ともあれ俺は、ようやく最寄駅にたどり着いた。
「にゃむん」
駅に掲げられた時計を見ると、部屋を出るときから三十分ほど経っていた。ゴーグルさんの地図で調べた限り、ここまでの想定所要時間は人間の足で十分ちょいだったはずだ。となると、俺の移動速度は大まかだが人間の三分の一くらいってことか。
まあでも、予想の範囲内ではある。今のところは予定通りと言えるだろう。
さて、ここまで来ると人通りもそれなりにある。地元ならこの時間帯の駅なんて閑古鳥だろうけど、ここらはさすがに都会だよな。
そんな人たちからの視線をいくつか感じながらも、駅の中……には、入らない。入ってもいいけど、普通に改札から入ろうとしたら駅員さんに丁重にお帰り願われるだろう。そういうほっこりニュース、見たことあるぞ。
かといってご主人のお金を持ち出そうとは思えなかったし、そもそも持ち出すにしても入れ物がない。用意する時間もなかった。
だから入り口としてはイレギュラーだが、線路から直接ホームに乗り込むことにする。
これは人間がやったら完全にアウトだが、猫がやるならまあ許されるだろう。無賃乗車にもなるが、そこはなんていうか、大目に見てもらいたい。
よい子は真似しちゃダメだぞ。悪い子もだ。死んだあと、人間の社会に人間以外の生物として転生したとき以外は絶対にやらないようにな。その場合でも、やらないに越したことはないぞ。
というわけで、ぐるりと回り込んで線路に出る。そこから少し進んで、ホームに上がり込んだ。
「にゃ」
ふむ。電光掲示板を見る限り、特に遅延とかはないようだ。これなら目当ての列車には余裕で間に合うな。
待ち時間は二十分くらいか。それなら適当にダラダラしててもよかろう。
最終目的地である前世のアパート、最寄駅が普通列車しか停まらない駅だから乗る列車は選ばないといけないのは不便だが、自分の足で歩くよりよっぽど早い。それくらいの待ちは全然気にはならない。
とはいえ、ホームのど真ん中でくつろいでたら人目につくし、電車に乗り込むまではどこかでひっそりと隠れてたほうがよさそう……だけど、それらしいところがないな。椅子の下は……ダメだ、かなり簡素な作りだ。俺の身体すら隠し切れそうにないぞ。
となると他にそれらしいところは……うーん、ない。
仕方ない、ホームの一番端っこで待機するか。人目につくと言えばつくが、ここまではさすがに気にする人はほとんどいないだろう。
「にゃあーん」
ふむ、今の時間だとここはなかなかの日向ぼっこスポットだな。、線路沿いに立っている街路樹のおかげで、適度に日差しが緩和されているぞ。ぬくぬくだ。
よいしょと身体を横たえれば、あくびが出てくる。これは寝不足だからか、それとも猫の習性なのか。
どっちにしても、うっかり寝落ちしないようにしないとな。今後の予定を頭の中で反芻しながら、予定通りにいかなかったときの想定でも……。
『おいテメェ』
『んお?』
と思っていると、後ろから声をかけられた。何事かと思ってそちらに顔を向けると。
『見ねぇ顔だなテメェ。あたいのナワバリに入り込むたぁいい度胸じゃねーか』
『……ひょ?』
額に向こう傷のついた強面の三毛猫が、ものすごい形相で俺をにらんでいた。首輪はもちろん、手入れの形跡が見えない風貌からして野良猫なのは間違いなさそうだが……えーと。これ、つまりあれか。
もしかしなくても、やらかしたってことだな!?
『えーっと、その、なんだ。待て、落ち着いてくれ。そういうつもりがあったわけじゃ』
慌てて起き上がって居住まいを正し、釈明しようとするが……。
『うるせぇ! ぶちのめしてやる!』
『ギニャー!?』
ですよねー! そんな気はしてた!!
俺の声にはまったく耳を貸さず、三毛猫が躍りかかってきた。両の前足からはしっかりと爪が出ていて、殺る気に満ち溢れてる。
こうなるような予感はあったから、なんとか対処できたけど……リアルでケンカなんてしたことないんだぞ、勘弁してくれ!
でもあんまり駅から離れると、このあとの行動に支障が出るのも事実。この辺り、都心のほうと違って駅間の距離が詰まってないから、次の駅まで行くだけでも一時間単位で歩き続けるハメになるんだよなぁ!
仕方ない、ここは多少のリスクは覚悟するしかなさそうだ!
そう腹をくくって、俺は三毛猫に正面から向き直った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この作品はあくまでフィクションです。
作中でも主人公が言及してますが、無賃乗車はやめましょうね。
お兄さんとの約束だぞ!