第六十五話「誤算」
ずん、と。足元が揺れた。
地震ではない。アスピドケロンの巨体が移動している――のだが。
「どうなってる」
一瞬止めた足を再度動かし、走り出しながら自問する。
おかしい。変だ。
何が変かと言うと、すでにアスピドケロンの巨体が侵入できる浅瀬に届いているというのに、アスピドケロンの前進が止まっていない。
周囲の景色は海と空ばかり。そして、眼前――巨大魚が進む先にある港町が段々と近付いてきている。
まだ離れているが、すさまじい勢いだ。
……船に乗っている時よりも目に見えて速い。
「いきなりどうしたんだ、なんで進む?」
明らかにおかしい。先日、相対した時と違い過ぎる。
あの時は浅瀬に近付いただけで人間を見逃したのに、今は俺を完全に無視して進んでいる。
さっき、多分船長達を触手で叩き潰した時も。
同族の魔物――サハギンは触手で口まで運んだのに、あの触手が人間の死体を口へ運んだようには見えなかった。
それは、空腹のアスピドケロンが『空腹を忘れてまで』目指す者が有るという事。
いったい――そこまで考えている間に、随分と巨大魚の背を駆ける事が出来た。ようやっとその頭部が見えてくる。
海底が浅くなってきているからか、目元まで海面から出したままで海を進んでいる。その様子は、異形の亀のように見えるかもしれない。
顔と尻尾は魚、胴は亀。手足には以下のような触手が生えた異形……遠目から見ると、本当に気持ち悪そうだ。
「やっと追いついたぞ」
呼吸は乱れているが、気力は充実している。魔力だって十分だ。
口の中に入って、中から壊す。
恐怖はあったが、迷いはない。
何を考えているのか、この巨大魚が港町に向かっている。顔は魚だ、エラもある。陸上で呼吸できるとは思えないから、放っておいても死ぬかもしれないが、死なないかもしれない。
なにより、これだけの巨体が上陸したら、どれだけの被害が出るか分からない。
最悪、港町近辺の大地が海に崩れ落ちる可能性だってある。
なにせ、書物か何かで知ったアスピドケロン――島のように巨大という謳い文句に偽りはなく、本当に大きい。
そんなのが大地へ体当たりを舌だけで、大惨事だろう。
「くそっ、面倒臭えっ」
まずはアスピドケロンの頭部に到着。
その頃には港町が更に近付いていて、後数分も進めば町の喧騒を見る事が出来てしまいそう。
同時に、生臭さに顔をしかめた。
長い時間、海面から顔を出して渇いたのか、全身を覆う鱗から異臭が出始めている。
流石魚介類。乾けば臭い。
「ふう」
視線を下へ向ける。まるで崖だ、と思った。
切り立った崖。自然を相手にするような無力感が、胸に湧く。
人間にはどうしようもない、圧倒的な存在感。絶対的な存在感。
そこに在るだけで、身を竦ませる偉容。
その巨影が海を切り開く――まさにその言葉の通り。海面を切り裂いて白い波を上げながら、アスピドケロンが進んでいる。
さっきより少しスピードが落ちたように感じるのは、港町へ近付くにつれて海底が段々と浅くなってきているからか。
それでもまだ大型の船だって余裕のある深さなのだが、今は驚異的な巨体が枷になっている。
後ろを見ると、巨体の尻尾辺りが不自然に飛沫を上げている様だった。遠すぎて正確には分からないが、触手を使って浅瀬に乗り上げた巨体を押しているのか。
……もう何でもありだな、このデカブツ。
このままだと本当に大陸に乗り上げて、その一部を海に沈めてしまいそうだ。改めて、その出鱈目さに溜息を吐く。
海風が髪を揺らす。濡れた服を揺らす。心を揺らす。
どうしようもないと、諦めそうになる心を奮い立たせた。
「よし、やるぞ」
自分に言い聞かせる。
問題は俺を無視している――というか認識すらされていないという事。
まずは俺が敵だと、餌だと、認識させる必要がある。
ふん――簡単だ。簡単だとも。
俺を敵と認識しておらず、無警戒なのだから。そして今居る場所は魚の頭。その天辺。
すぐ下には顔――側面には、眼球。
さあ……やるぞ。
「できれば痛くしないでくれよ」
左腕に纏っていた水を鞭状にして巨体の前進を覆う鱗、その一つに巻き付ける。
ロープを使って険しい谷間や垂直な場所を降りるラペリングの要領だ。ただ、時間が無いのでしっかりと安全を確認するのは省き、一気に落下。
落下の勢いに任せて水の鞭を伸ばしていき、すぐに目的の場所に到着。
魚の眼球。その正面。
すぐ目の前に、乾くのを防止するための薄い膜に守られたアスピドケロンの魚眼。身体が巨大なら、その目も巨大。
瞳孔だけでも俺よりも何倍も大きい。
まじかで巨大な瞳を見るというのも初めての経験だが、なによりも気持ち悪い。長い時間、眺めて異様だなんて思えない。
左腕で全身を支えながら、右腕を引く。想像するのは、ずっと昔に討伐した、ドラゴン。その右腕。
今までの水腕とは違う、その全体が鋭利な刃物のように尖り、指が、爪が、刃などよりも禍々しく歪んで曲がる。
「さあ、こっからは殺し合いだ……クソ魚」
一度、膜に覆われた魚眼を蹴って反動をつけ――その勢いのまま一気に右腕でアスピドケロンの右目を貫いた。
「このまま脳ミソを抉ってやる!!」
魚眼を潰して溢れ出た血液とは違う液体を取り込んで、魚眼内で水腕を巨大化。ドラゴンを模した巨大な腕を暴れさせて、内部を無茶苦茶に蹂躙する。
流石にこれは応えたのか、アスピドケロンの巨体が止まり、一瞬の後に暴れ出した。
身体を波打たせて海面を叩くと津波が起き、地震が周囲を揺らし、飛沫が逆流する滝のように空へ向かっていく。
「ぐ、ぅぬう!?」
歯を食いしばってその衝撃に耐えながら更に深く右目を抉ると、ついにその巨体が横臥に倒れた。
今まで以上に大きな飛沫が上がり、津波が起きる。
まだ離れているが、もしかしたら港町にまで被害が出たかもしれない。
そう思いながら、横臥に倒れたアスピドケロンの上に立つと――ここにきてようやく、迎撃のために触手が動いた。
俺を狙った横薙ぎの一撃を、アスピドケロンの体液で強化された水腕で受け止める。
――が、それは一瞬。
あまりの質量差にあっさりと踏ん張った足が浮き、海に向かって吹き飛ばされた。水腕で受けたのでダメージは無いが、抉った魚眼から遠ざかってしまう。
その隙に、呆れるほどの巨体はその外見からは想像できない機敏さで体勢を立て直し、起き上がった。
本当に、魚だ。
巨大な魚が起き上がる光景というのは、普通の現実ではありえない。ファンタジーだからこそ見る事が出来る光景だ。
……正直、これから死ぬかもしれないと分かっていても、呆れて一瞬だけ思考が止まってしまう。
それくらい、異常。
そして――。
「……は?」
アスピドケロンは、また俺を無視して港町の方を向いた。
んな馬鹿な。
片目を潰したんだぞ。だっていうのに、こっちを敵と思わないのか。まだ無視するのか。
そんなに何を追っている。何を目指している。
なにが――。
「ジェシカか?」
彼女の体質を思い出す。呪いとも言うべき、魔族に掛けられた魔法。
魔物が好む『恐怖の匂い』を普通の人よりも多く出すという呪い。
彼女が恐怖を覚えれば、その魔法は際限なく彼女の恐怖を増幅させる。
だが、そんな事よりも。
あの魔法は、こんなにも巨大な魔物すら引き寄せてしまう物なのか――。
「なにがあった、くそっ。カルティナは何して――」
このバケモノが本当に港町まで進んでしまう。
吹き飛ばされた俺とは逆の方へ進もうとする巨大魚へ鞭を伸ばして再度鱗へ絡めると、鞭を縮めて一気に肉薄。その鱗に掴まり、そのままクライミングの要領で登っていく。
どうにかしないといけない。
けれど、どうすればいいのか分からない。こんな短時間で何か良い策を想い付けるほど、頭の回転が良い方ではないのだ。
「くそっ」
港町が近付いてくる。
まだ距離は離れているが、アスピドケロンの侵攻スピードならあっという間だ。十数分と言ったところ。もしかしたら、もっと早いかも。
――それまでに何とかしないといけない。




