第六十四話「果たすべき約束を」
「あ」
と気の抜けた声が出たのは空中。
足場も逃げ場も無い空中で、まるで俺個人を狙ったかのように真下から三本、新しい触手が出現した。
周囲を見回すと、これ九本目。まだまだ少ない。あと倍程度はあると考えるべきなんだろうが――。
「っと」
真下から槍のように突き出された触手を足場にして回避、そして真横から叩きつけられる一撃を擦れ違いざまに水の爪を引っ掛けて移動。
弾丸のように弾かれて一気にアスピドケロンのとの距離を詰めるが、それでもまだ遠い。本当に、敵が巨大過ぎて距離感が分かり辛い。
海面へ落ちるなり、新しい触手の追撃。
その意識がこっちへ向いたのが分かった。先日一閃を交えて、少しは警戒しているのか?
そう思ったが、どうにも違う。ただの空腹か。目の前に落ちてきた『餌』に『手』を伸ばしているだけか――触手の動きは乱雑。
「ちっ、くそ――待て待て!」
触手を避け、躱し……ごう、と。地面――海面が大きく揺れた。
アスピドケロンの巨体が海中へ沈み、その反動で大きな波が一つ。たったそれだけで、こっちは逃げの一手しか選択肢が無くなってしまう。
「おいおいおい!? 俺は食う価値無しってか、魚介類!」
咄嗟に足元の海面へ腕を沈め、集中。水の腕を伸ばしてアスピドケロンの鱗を掴む――。
「ぅ、ぉ、ぉおお!?」
そのまま一気に引っ張られた。まるで水上スキーのような勢いで海面を移動すると、頭上に影が差す。
顔を上げると、真上には触手に絡め取られた船の姿。
「まず――っ」
引っ張られることに慌てて気付くのに遅れた。
船はすぐ真上。すぐそこ。
触手に囚われたまま海中へ引き摺り込まれ、本当にただ運良くその残骸は俺の真横に落ちていく。
透き通るほど綺麗な回遊に、船が沈んでいく。
船は漁師の命というが――さあ。
「出鱈目すぎる……」
その海中。黒い穴が開いたと見紛うほどに暗い、アスピドケロンの口が開いていた。船を丸呑みにして、口を閉じる。
ゴクリ、と生唾を飲む。
さあ、来い。
近くには、他に生物は居ない。なら、お前の餌は俺一人だけ。
後は、喰われて、腹の中で暴れるだけ。
……なのに、足が竦む。動けなくなる。
怖いか?
ああ、怖いね。
生きたまま喰われる経験なんてあるわけがない。喰われたらどうなるかなんて、想像もできない。
あの鋭利な牙で噛み砕かれるのか、飲み込まれてから胃で溶かされるのか。
どちらにしても、最悪な死に方には変わりない。
だから震える。動けなくなる。
さあ、来い。
俺はお前が怖い――この恐怖を、喰いに来い。
だが……。
「な――っ」
しかし、海中のアスピドケロンはそのまま海面へ顔を出すではなく、泳いで移動してしまった。
俺を無視して……。
「ふざけんなっ」
駄目だ、駄目だ駄目だっ。
アスピドケロンが向かうのは、港町の方。
泳いで逃げているはずの、船長達。
俺を無視した行動に一瞬戸惑い、すぐにその後を追う。海面を走り……けれど海中の巨大な魚影はすさまじい勢いで移動。
まるで海底が流れて移動しているかのような錯覚。
大きな背中。巨大な甲羅――。
「なんで!?」
魔物は獲物の恐怖を好む。
人間の欲望から生まれ、人間の恐怖を喰らう。
そのはずなのに――なんで。
俺も、船長達も、同じ恐怖のはずなのに。そう思ってしまう。
どうして俺を無視する!?
「――!?」
瞬間、まるで海上で地震が起きたかのように揺れた。
あり得ないはずなのにと視線を下に向けると、あれほど勢い良く前進していたアスピドケロンの巨体が止まっている。
まだ尾鰭は見えない、丁度、背中の甲羅を半分くらい過ぎたあたり。
「ここがお前の限界かっ」
海底にアスピドケロンの腹が触れたのだ。
これ以上は進めない。ここが巨体の限界――のはずなのに。
「まあ、そうだよなっ」
その巨体が徐々に浮上してくる。海中から地面が浮き上がってくるような威圧感。
すさまじい勢いで浮き上がってくるアスピドケロンの巨体に、駆ける足を速める。押し上げているのは、触手だ。
十を超える巨大な触手がアスピドケロンの巨体を押し上げ、浅瀬から更に先へ進もうとしている。
少しでも、少しでも、獲物に近付こうとしている。
その気配が伝わってくる。
空腹なのだ。
どうしようもないほど。
我慢できないほど。
空腹で、目の前から逃げる餌しか見えていない――。
「いける――か?」
足元が揺らぐ。
最初に現れたのはアスピドケロンの背。まるで島のようにゴツゴツとした甲羅だ。
その上に立つ。
海面に立つ魔力すら惜しくて、アスピドケロンの背中を駆ける。島のようだと言っても海中に沈んでいたのだから植物が生えているわけじゃない。
けれど、海水が流れる所々に小魚なんかが落ちていた。
それを尻目に、一歩でも早く前へ。顔へ。口へ。
「まだだ、まだ待て。逃げてくれよっ」
それでも遠い。凄く遠い。
一体どれだけ走ればこの甲羅は終わるのか。アスピドケロンの貌に辿り着けるのか。
果てしなく遠い――それでも走れ。
走らなければならない。
走る理由がある。
殺すと約束した。このデカブツを。だから――。
「くそぉおおお!!」
アスピドケロンが半身を海面から出した。きっと、頭の方も目元くらいまでは出ているはずだ。
だから走れ。走れ。走れ。
それでも遅い。
全力で走っても、遠い。届かない。
理性が訴える。
駄目だ、間に合わない――それでも。
「だめだあああああ!」
まだずっと先で、触手が持ち上がるのが見える。見えてしまう。
高く、高く――まるで雲にも届きそうなくらい、高く。
それが、無造作に振り下ろされた。
爆発が起きたかのように水柱が上がり、少し、ほんの少しだけ――そこに、朱が混じっているように見えた。
足を止めないまま、走りながら、唇を噛んだ。血の味が口内に広がる。
「だから言ったんだ――」
一緒に来たら、死ぬって。
名前も知らない。親しいわけじゃない。
――でも、人が死んで何も感じないわけじゃない。
「ったく」
乱れた呼吸を、少しでも鎮めようとゆっくりと深呼吸。
けれど、走りながら呼吸を沈める事なんて出来るはずも無い――と気付いたのは数回繰り返してから。
は――動揺するな。落ち着け。
やる事は決まっている。やらなければいけない事は決まっている。
さあ……。
「てめえは殺す、絶対だ」




