第六十三話「決戦開始」
「くそっ、相変わらず動くだけでこんなに海が荒れるなんて、本当に災害そのものだなっ」
アスピドケロンの食事は、物の数分で終わった。
四方八方に伸びた触手がサハギンを捕えてそれを口に運んでいくという、人間が目にするには巨大過ぎる魔物の食事。物見の話では海中の影だけでも数十は居たらしいが、それらの殆どが食べられてしまったらしい。
魔物が魔物を食べる。
自然界に生存しているのだから弱肉強食なのだろうが、それは初めての光景で、不覚にも見入ってしまっていた。
そして、あまりにも大き過ぎる――雄大とも感じるその光景に気持ちが揺らいでしまったのも事実。
そしてなにより、触手が海面を揺らし、叩くだけで嵐の直撃を受けたように船が揺れる。
高い波が甲板を濡らし、そこに居る人間は船から振り落とされないように何かに掴まって耐えるしかない。
「船は動かせないか?」
「風の勢いより、波が強過ぎます。これじゃあ波から抜け出せねえ」
そう言った直後だった。
近辺のサハギンを獲り尽くした触手が、目に見えて標的を替えた。
「ちっ、なんとか動かせないか!?」
「無理ですっ――ひぃ!!」
叫ぶような声が悲鳴に変わる。サハギンを襲っていた触手が、今度はこちらの船に巻き付いたのだ。
太陽の光を反射するぬめった触手の一本が船に巻き付くと、それなりに頑丈な造りの船を巻き上げる。
木材が悲鳴を上げ、あっさりとひび割れ、メキメキと音を立てて砕かれていく。
「くそぉ!!」
船員の一人が手にしていた斧を振りかぶって触手へ叩き付けた。
けれど、漁師の巨椀から繰り出された一撃は、触手の表皮を切り裂く事が出来ずに逆に弾かれてしまう。
まるでゴムのような弾力だ。
弾かれた勢いが強過ぎて、船員の手から手斧が離れて遠くの海に落ちる。
「どけっ!」
海水で濡れた甲板を駆け、左手を抜き手に構える。走りながら腰の水袋を一つ手に取ると、中身をぶちまけた。
左手でその水を受け、走った勢いもそのままに水を纏った左の爪先からアスピドケロンの触手を貫く――。
「太過ぎるかっ」
水袋の中身と触手の体液を使って内側から爆発させようとしたが、その行動は触手を一瞬だけ膨らませるだけに留まってしまった。
表皮や触手の筋肉が硬く、太過ぎる。
なにせ、触手一本だけでも俺の胴体よりもデカいのだ。
これだけの太さを切断しようとすると、ちょっとやそっとの水量じゃ足らない。
水袋程度の水量では足らず、海から水を汲んでくる余裕も無い。
目の前で触手が更に船に食い込んでいき、今にも真ん中から圧壊されてしまいそう。
とにかく、まずは触手から腕を抜いて、一歩離れる。
「ここから泳いで港町まで戻れるか!?」
「な、なんとか……」
「だったら早く、船から――」
飛び降りろ。
そういう前に、船が持ち上がった。
一瞬の浮遊感。咄嗟に甲板に膝をついて耐えようとしたが、船が斜めに持ち上がって甲板を滑り落ちてしまう。
何人かの船員が悲鳴を上げながら船から落ちた。船長が手を伸ばすが届かない。
それどころか、海面へ落下する前に、水中から現れた船を持ち上げるのとは別の巨大触手に掴まった。
悲鳴が上がる。
恐怖の宿った瞳で俺の方を見て、手に武器を持っている男はその武器で触手を攻撃して逃げようとするが――効果が無いのはさっき見たとおりだ。
「――――っ」
唇を噛む。奥歯に力を込める。
待っていろという言葉すら出せない。空中に在って不安定な船が足場では咄嗟に立ち上がる事も出来ず、離れた場所には水が届かない。
俺の手を離れた水は少しの間しか武器としての形状を維持できず、巨大触手との距離は離れすぎていた。
「たすけ――」
悲鳴や助けを求める声が消えた。
サハギンと同じく、触手が締めあげて圧殺したのだ。巨大な触手の隙間から、赤い血液が垂れているのが見えた。
奥歯に、もっと力を込める。
「俺が囮になる。触手が俺を追ったら、船から飛び降りて港町まで泳げ――泳げない奴がいるなら、泳げる奴が助けるんだ」
「旦那、無茶でさあ!?」
「このままじゃ船ごと喰われて全滅だっ」
不安定な足場で膝立ちになろうとするが、それすら難しい。
それと同じくらい、もうかなりの高さまで持ち上げられた船から飛び降りるのも難しいだろう。
けれど、それでも落ちるしかない。
下は海面。運が良ければ軽傷で済むはずだ――だが、喰われたら特別な能力が無い彼らは絶対に助からない。
船が軋みながら、徐々にアスピドケロンの口に運ばれていく。海面から目元までを覗かせた巨大な魚面が迫ってくる――巨大過ぎて、距離感が分からなくなりそうだ。
「だから言ったんだ、俺と一緒に居たら死ぬって!」
「――それでも、命を懸けてくれる人を一人になんて出来ねえ!」
「ありがとう! その意気で怖がるな、絶対に助かると思え――あのデカブツは、俺が、ここで殺してやる。だから……諦めるなっ」
船の軋む音が強くなっていく。
もうすぐ真ん中から折れる。けれど、それより先にアスピドケロンの口に運ばれるのが先だろう。
感覚でそう感じる。
咄嗟に何か使えない物が無いかと周囲を見回すと、運良く、まだ甲板にいくつかの真水入りの樽が転がっていた。
数は三つ。
そのうちの一つの元に這って移動すると、殴って砕く。中にあった水を両腕に纏い、それを爪状にして垂直近くまで傾いた甲板に張り付いた。
残り二つは口を開けて、水の爪を介して水を吸い上げ空にしてからまた口を閉じた。
簡易の救命道具だ。中が空なら、樽は海水に浮く。
これがあれば、溺れる事はないだろう。――ただ、巨大触手が現れている海面だ、樽に辿り着けるかも運に任せるしかない。
その樽を先に海面へ蹴り落とす。
「それじゃあ、また後でなっ」
樽が無事に海面へ落ちたのを確認し、それから重病を数えてから傾いた甲板に立つ。
下を見る。
海面が遠い。嵐のように海を揺らす触手は、六本。まだ海中には倍以上の触手があるはずだが――今更考えても、どうしようもない。
そもそも、これは作戦通りでもある。
自分自身を餌にして体内に侵入して破壊する。
なに、丁度良いさ。
口内へは、この触手に運んでもらおう――。
「ああ、旦那っ!?」
「無事に戻れよ、船長ッ」
その言葉を最後に、空中に身を投げた。




