第六十二話「戦いへ」
「ヨーソロー」
「なんだいそりゃ?」
「俺の世界で、船を直進させるときに使う掛け声」
「いや、もう船は出ているんですがね」
というのは、港を離れて十分くらいが経過した時の会話である。
もう見送りに来ていたカルティナやジェシカの姿は見えず、港町からだとこっちは手の平で隠れるくらいに小さくなっているだろう。
それなりに大きな中型船。和船のように底は浅く、木造なので強度もあまり無い。帆を張ったマストは二本で、乗っている船員は六人。
船員達は帆の向きを変えて風を捕まえ、船を加速させていく。大型船よりも軽いので、スピードに問題はない。
この前アスピドケロンに追われた事を気にしてか、足が早い船を新しく用意したようだった。
風は良好、天気も快晴――という訳じゃなく、風は湿り気を帯び、遠く、水平線の近くには黒く濁った雨雲が見える。
絶好の魔物退治日和だと、心の中でだけ呟いておく。
まあ、水の魔法が得意な俺的には快晴時よりも戦いやすいのは事実だ。
「この船、どうしたんだ?」
「町長が新しく用意してくれたんでさあ。旦那の役に立てるようにって」
先日の船とは違う形状を気にして聞くと、そう答えが返ってくる。
顔も知らないが、どうやらこの戦いのために船を用意してくれたらしい。船が一隻でどれくらいの値段なのかは知らないが、子供の小遣いで買えないというくらいは分かる。
「中々太っ腹だな……にしても、良かったのか? 俺を送ったら、また怖い目に遭うだろうに」
「いえいえ。あっしらは戦えませんが、せめて旦那を送るくらいはしないと罰が当たってしまいまさあ」
「義理堅いんだなあ、アンタら」
「命を張って助けてもらうんですから、こっちも命を張るのが当然でさ」
そう言って、船長の男が満面の笑みを浮かべて笑った。
他の船員達も先日のように忙しなく動いているが、この前よりは親しみのようなものを感じる。余所余所しさが無くなったというか。
陽に焼けた肌と、長年の漁師生活で鍛えられた身体。頭には大きなターバンを巻き、口元は濃い黒い髭を蓄えた四十代くらいの男性だ。
身長は俺の肩くらい。もう少し高かったら、漁師版ロシュワである。俺とあんまり年が変わらないのに髭の所為で老けて見えるからなあ。
……アイツ、今頃何してるんだろ。
俺がこんなに苦労してんのに、アイツはいつも通りサティアさんの尻に敷かれながら店を切り盛りしているんだろうな。
「どうかしましたかい?」
「いんや。知り合いに土産、何を買っていこうかなあ、と」
「負ける気はないんですかい? 豪胆なこって」
「一々、負ける時の事を考えていたってどうしようもないだろ」
死なないでと言われ、生きて戻ると約束した。
だったら、負けた時の事を考えている余裕なんてありはしない。これから無茶をして拗ねられるだろうから、同居人達へのご機嫌取りの方法を今から考えている方が現実的ってものである。
椅子代わりにしている樽の上でひらひらと右手を振って、視線を空へ。
まだ晴れているので、良い天気を見ていると少し気持ちが軽くなる。
「まだ港町の観光とか全然していないんだが、女に贈って喜ばれるようなものってもの売ってるのかい?」
「へえ。そりゃあ、もう。今はあの怪物の所為で旅行者が少ないですが、平時は夫婦や恋人……公には出来ないお忍びの恋人達もわんさかですしなあ」
「んじゃ、これが終わったら何か見繕うかね……やっぱり服とか宝石、人形とかかな?」
「さあ、あっしに女性の好みはちょっと――ああ、見送りに来てた、あの美人さんに?」
「そんなところだ。怒ると怖いんだよ、アイツ」
「はあ――でもまあ、一緒じゃなくて良かったんで?」
それは別れ際の事を見ていたからの質問か。
カルティナが付いてくると言って、俺が拒否した。それだけの遣り取り。
「いいんだよ。今回は危ないし」
いつも頼ってばかりだが、危ない目にはあまり合わせたくないという矛盾にも似た思い。俺の、勝手な独善だ。
だから戻ったら拗ねているだろうし、もしかしたら怒られるかもしれない。
なので何か贈り物でもと思うのだが、アイツ、どんなのを喜ぶかなあ、と。
「そういうもんですかい」
「そういうもんだ」
とまあ。緊張感の無い会話をしているうちに、目的の場所が近付いてくる。
アスピドケロンの背中。まるで島のような厳つい形状をした甲羅。その一部が海面から見える場所。
まだ遠い。
肉眼では親指の先で隠れてしまうくらい小さく見える、離れた場所。
「そろそろ、か」
「へえ。それで旦那、武器も何も無いですが、大丈夫なんですか?」
「気にしなくていい。俺の武器はこの海、全部だ」
よし、と一つ気合を入れて樽から腰を上げて両足で甲板に立つ。
「旦那――」
「あん」
さあ行こうかと内心で意気込むと、その声に足を止めた。
落下防止の柵に片足を乗せたまま振り返り――。
「船長、真下っ」
マストの上にある物見台に立っていた船員が声を張った。
俺は下ではなく前へ視線を向け――まだアスピドケロンの背が遠くに在る事を確認。すぐに下を見ると――海面を突き破って、小柄な影が甲板へ飛び乗ってきた。
「サハギン!?」
物見とは別の船員が声を上げ、傍にあった銛を槍のように構えたのが横目に映った。
同時に、船長を含む全員が戦闘態勢を取る。銛に弓矢、それに手斧。六人の船員が構え、物見台の一人はアスピドケロンの方から視線を外さない。
「囲まれてる――何十匹も居る!」
「落ち着けっ」
取り敢えず、すぐ傍に『降ってきた』サハギン――半魚人を海へ蹴り落とす。
その姿形は人型の魚というべきか。
顔は確かに魚で全身を鱗で覆われているが、二本の足で立ち、二本の腕がある。後、ついでに魚のような尾ヒレのある尻尾も。
人型のくせに魚のように海中を泳ぎ、トビウオのように跳ねて船に飛び乗り、人間を襲う。
身長は百六十センチ程度。だが、横幅があるので数が揃うと威圧感がある。
「ゲウ」
甲板に上がってきたのは七匹。だが、物見の言葉が真実ならこの船の周囲を囲んでいるのだろう。
気付かなかったのは、海の深い場所から一気に海面へ浮上してきたからか。
海水を滴らせる全身を覆う鱗は薄い緑色。本来は半透明なはずだが、藻か何かが付着しているようだ。
水掻きのある足が踏み出すと、べちゃ、と気持ちが悪い音がした。
同時に、連中が吐く息の異臭に顔をしかめる。こいつ等、魚やら海藻やらも餌にしているからか、その息が物凄く臭いのだ。
「ゲウ、ゲウゥ」
「うるせえ」
独自の意思疎通を図る為だろう、サハギンが鳴いたが煩かったのでもう一匹を蹴り落とす。
すると、代わりと言わんばかりに船の外装を這って上ってきた新しい一匹が甲板へ現れた。
「……こりゃ、キリが無いな。おい、ここまででいい。港に戻れ」
「ですが――」
このまま船を降り、海上で戦おうと身構えた時だった。
いきなり、船が左右へ揺れた。
海上ではありえないはずの、大きな揺れ。津波に巻き込まれたわけじゃない。――船があるすぐ横の海面が盛り上がったのだ。
「またかよ!?」
言いたくもなる。
先日はそれで何度も殴られた――アスピドケロンの巨大な触手だ。それが、海面を盛り上げながら姿を現した。
咄嗟に遠くにあるアスピドケロンの甲羅を見るが、元あった場所から動いた様子はない。
単純に――。
「アイツ、ここまで届くのか!?」
いくらなんでも、触手が長すぎる。目測だが、甲羅が見える場所からここまで、五百メートル以上はあるはずだ。
もしかしたらもっと離れているかもしれない。そんな遠くまで――と思うが、本体は視界に収めきれないほどの巨体。人間の感性で考える方がおかしいのか。
「ちっ――サハギンを乗せたままでいいから早く離れろっ」
「う、はいっ! 取舵で反転っ、この場所から離れる――」
海面を盛り上げて現れた触手は三本。
その三本が――サハギンを捕まえた。数匹は吸盤で捕らえ、十匹に近い数を巨木のように太い触手を絡めている。
まるで蛇だ。記憶にある、巨大なアナコンダ。
巻き付いて、獲物の骨を砕いて、柔らかくしてから飲み込む。アマゾンだかどっかに居る、化け物蛇。
B級のホラー映画に出てくる一幕。
ただ、食われているのは人間ではなくサハギンで、捕えているのはアナコンダではなくイカのような触手。
触手で締め付けられるサハギンが「ゲウ、ゲウ」と悲鳴を上げる。
甲板に這い上がってきたサハギンが出していたのと同じ声。アレはこっちを威嚇するのではなく、助けを求める声だったのか。
触手はそのままサハギンを運び――遠く、親指の先ほどしかなかった甲羅が白波を立てて浮上。
現れるのは本体――巨大な、魚の顔。
見慣れた、けれど巨大過ぎる異形の貌。
それが、波を立てながら牙を覗かせる。津波を起こしながら、嵐のように水面を揺らしながら、口を開ける。
鋭利な牙、強靭な顎、巨大な鱗で覆われた全貌。まるで滝に飲み込まれる水のようにその口内へ流れ込んでいく海水が水煙を上げる様は、相手が魔物だというのに雄大さすら感じてしまう。
自然の雄大な光景、それと遜色のない衝撃を胸に受け、一瞬だが敵意や殺意と言った物が消え失せてしまう。
呆然と、船に乗っている全員が言葉を失ってアスピドケロンの食事風景に見入ってしまった。
「――サハギンを喰うのか、アレ」
ポカン、と。我ながら間抜けな声で呟いてしまう。
アイツ、こっちに気付いてない。というか、単に食事の時間になったので触手を伸ばしただけなのか。
そしてサハギンは、きっとこの船を襲うためではなく逃げる為に海上へ現れたのだろう。
甲板に現れたサハギンたちが慌てるように、また海中へ逃げていく。そして、それを追う巨大な触手。
確かに、と思ってしまう。
外からが駄目なら中から。
あの口の中から体内に侵入するっていうのは、勇気が必要だ。
洞窟どころか夜の闇、いや新月の夜のような暗い口内に飲み込まれていくサハギンを見ながら、久しぶりに身が竦んだ。




