第五十七話「アスピドケロン5」
叩き付けられる触手を水の巨腕で打ち払い、薙ぎ払いの一撃は足場にして跳んで避ける。
「マズ――」
けれど、跳んだ先。空中で待ち構えていた触手に叩き落され、また海面へ。
さっきからこの繰り返し。
攻撃は見えているが、避ける手段が限られる。単純に大き過ぎるのと、多過ぎる。
一人で対処するには限界があり、向こうは体力が無尽蔵なのではと疑いたくなるほど攻撃が始まってから勢いが緩まない。
まあ、視界に全長を収めきれないほどの巨体だ。相応の体力はあると見るべきだろう。
「だったら」
触手の攻撃――向こうからしたら攻撃の意図も無いかもしれない乱撃の隙を狙って前へ。
右腕を海水に浸ける。一気に引き上げるイメージ――先ほど以上に巨大な水の腕を生成して、左腕も使って右腕を支えながら持ち上げる。
「これならどうだっ」
巨大過ぎて遠近感すら狂ってしまうその顔に、思いっきり水の腕を叩き付ける。
大人と子供どころじゃない、巨人と赤子のような差。それを思いっきり顔面に叩き込むが、しかしビクともしない。
それどころか、込められるだけ魔力を込めたというのに水の腕が崩壊する。
ダメージは無くとも少しは怯むかと期待した一撃は、無駄に魔力を消費しただけ。
荒い息を整えられない。自分でも分かるくらい動きが鈍くなっていく。
いくら水を使う事に長けていても、海水に濡れれば身体が冷え、体力が奪われる。最初は煩わしいだけだった濡れた服も、今では重くすら感じているほどだ。
「はぁ――はぁ、っ」
外からはどうやっても無理か。
なら、やれる事は限られる。というか、今思い付くのは二つだけ――。
「もう、十分か?」
限界だ。体力だけじゃない。これ以上は俺が死ぬ。
そう頭も体も訴えてくる。
ああ、だが。それでも――肩越しに振り返ると、船はまだ近く。とても逃げ切れたと言える距離じゃない。
風は吹いている。波も後押ししている。
それでも、この巨大魚なら一瞬。それこそ、少し進んで触手を伸ばすだけで届くだろう。
「ああ、くそっ――」
その悪態は、どっちに向けたものか。
……決まってる。
それでも、人を見捨てたくないと思ってしまう自分自身にだ。
「怒るなよっ」
悩んでいる間に頭上へ移動し、叩き付ける為に動き出した巨大な触手を更に前へ進む事でやり過ごしながら叫ぶ。
今度は左腕を海水に浸ける。さっきと同じように腕一本では支えきれない巨大な水の腕を生成。
しかし今度は握り拳ではなく、抜き手。
「ぶち抜けっ!!」
それを一気に突き出し、狙うは巨大な目。眼球。鱗に覆われていない、剥き出しの柔らかい肉。
眼球を抉って、そこから一気に頭を掻きまわしてやる――必殺の意思で放った攻撃は、しかし今まで以上の機敏な動きをした触手に掴まれた。
水の腕があっさりと砕かれる。一瞬でただの海水へ戻される。
――その程度、予測していた。
「まだだっ」
まだ腕に繋がっている水腕を支点に砕かれた水を回収。
水は無形。俺の意思でどのような形にも変わる。そう、どんな形にも。
砕かれた水が五叉の鞭――異形の指へと変化。上下左右。あらゆる方向から巨大魚の眼球へ向かう。
アスピドケロンの触手が水の触手と打ち合い、邪魔をされた。
左腕を支える右手に力を込める。集中のし過ぎか、魔力の込め過ぎか。肘から先の感覚が薄れていく。
腕を上げているだけなのに肩が重い。気を抜くと、あっさりと気を失ってしまいそう。
唇を噛み、両足を広げ、息を止めて水触手を操る事に集中。アスピドケロンを怯ませる事、それ以外を思考から消す。
やれ、やれ――やれっ!!
五本の内の四本で十の触手を絡め取り、残りの一本が剥き出しの眼球へ。最短距離を最速で。アスピドケロンの巨体からすれば針よりも細い一矢。
けれど、それは必殺の一矢だ。
このまま一気に――っ!?
「ぅあ!?」
眼球を貫く。そう思った瞬間、足元が揺れた。違う――持ち上がった。
「しまっ」
二本の触手が海面を盛り上げる。突然できた足場に体勢を崩しそうになり、咄嗟に倒れないようにと踏ん張ってしまった。
集中が途切れ、左腕の水腕を顕現させておく事が出来なくなる。ただの海水となって、海面へ落ちてしまう。
そうなればもう、攻撃どころではない。
「うわああ!?」
慌てて俺を持ち上げた触手から飛び降りるのと、自由になった触手が空を薙ぐのは殆ど同時。
すぐ後ろで起きた暴風は、触手が真後ろを通った証拠。
その感触に背筋を冷たくしながら海面へ着地すると、そのまま背を向けて走り出す。
船はまだ近い。港町まで結構な距離があるように見える。だが、もう限界だった。
大丈夫、あれなら逃げ切れる――多分。
自分にそう言い聞かせて、今日何度目かの全力疾走。揺れる海面をしっかりと踏みしめて駆けると、背後から爆発音。
いや――振り返ると、十を超える触手が勢い良く海面へ沈み、アスピドケロンの背にある島のように巨大な甲羅も一緒に海面へ。
――僅かに海面から顔を出す甲羅の一部が、まるでサメの背ビレのように海水を切り裂きながらこっちへ向かってきた。
「――――っ!?」
走る、走る、走る。
全力で、全速力で、全霊で。
心臓が破裂しても構わない。疲労と酸欠で視界が霞むのも構わず、肉体が悲鳴を上げるのも無視して、必死に――魔物から逃げる。
「――、――――、っ」
船は遠い。走って距離を詰めているが、それでも船の方が先に港の方へ着くだろう。
それだけが救いだ。
追いつけば、間違いなく向こうが狙われる。
ただそれだけは、考える事が出来た。
バカだな、と。
自嘲してしまう。疲労で引き攣った口元を、自分でも分かるくらい無様に歪めてしまう。
死にそうになりながら他人の心配なんて――本当に馬鹿だ。大馬鹿だ。救いようがない。
自分に悪態を、罵詈雑言を吐きながら走り……ついに、足を止めた。
足がもつれた。
海面に顔面から突っ込み、そのまま海中に沈んでしまう。
もう、海面に立っている事も出来ない。浮かぶ事すら難儀しながら海面から顔を出し、振り返る。
…………そこに、アスピドケロンの姿。
だが、その背。巨大な甲羅は、遠い。
「は、はは……」
前髪から海水を滴らせながら、乾いた笑いが出た。
どうやら先ほど戦っていたすぐ近くが、あの巨大魚の限界。浅瀬。海底に巨体が触れて進めない場所だったらしい。
……なんだそりゃ。
「あー……」
疲れた。
戦うどころか、なんとか動き出したアスピドケロンをやり過ごしただけ。だというのに魔力を使い果たして、しばらくは動く事すらしたくないと思えるような疲労。
手足を投げ出して、波に揺れる海水へプカプカと浮かぶ。
「こりゃ確かに、町一つ潰すわ」
こんなのが港の出口に居座ったら、船じゃあどうしようもない。移動スピードが違い過ぎるし、触手の一撃どころか、口を開ければ丸呑みされる。
……はあ。
「どーすっかなあ」
無理だ無理だと言って諦めるのは簡単だが、だからといって俺が諦めれば港町の人達がどうなるのかと考えると気が重い。
町を捨てる。
言葉にするのは簡単だが、今まで住んでいた故郷を捨てるというのは――きっと、第三者がどんな言葉を並べるよりも困難で、悲しい事だ。
……だが、他の連中が諦めたんだから、俺一人で何とか出来るはずも無い。
はてさて。逃げの口上ならいくらでも思い付くが……。
プカプカと波に揺れながら、呼吸を整える。
「はー……綺麗な空だなあ」
現実逃避気味に呟いてみる。
取り敢えず、どうやってここから帰るか――泳ぐしかないんだろうな。




