第五十六話「アスピドケロン4」
何が起こっているのか気付くのに、一瞬の時間を必要とした。
背を向けて逃げ出した第一歩。
その足元。海面の下。凄まじい勢いで動く海底――ではなく、大地と見間違えてしまいそうなくらい大きな背中。アスピドケロンの背。
それが船の方へ移動している事に気付けたのは幸運で、けれどその速度は全力で走る俺よりもはるかに速い。
もちろん、港町方面――アスピドケロンが侵入できない浅瀬の方へ向かう船よりも、だ。
「さっきまでうんともすんとも動かなかったくせに!?」
悪態を吐いてなんとか走るスピードを上げようと頑張るが、元から全力で走っているのだ。そのスピードはほとんど変わらない。
唯一の救いは、巨大な触手が俺に興味を失くした事。アスピドケロンの興味が俺ではなく船に向いた事か。
魔物はヒトの感情に敏感だ。
なにより、恐怖を好む。俺のように戦う人間よりも、恐怖を抱いた人間を優先して襲う。
先ほどの攻防――とすら言えない、俺とアスピドケロンの遣り取りを見て船の連中が魔物を恐れた。
原因はそれだろう。
「くそっ」
全然追いつけないっ!
足元の巨影が凄まじい勢いで前へ流れていく。それでもその全長――尾ヒレがまだ見えないのは、それだけ海中の魔物が巨大だという事。
改めてその事実に呆れながら、足を止めずに走り続ける。
触手を蹴って空中を移動した事もあって、すでに両足はパンパンだ。肺が少しは休ませろと文句を言うかのように熱を持つ。
それでも足を止めることなく走っていると、眼前――まだずっと先にある船が不自然に左右へ揺れた。
海面が持ち上がる。まるで海中で爆発が起きたような勢いだ。
「まてまてまて!?」
同時に俺の足元も揺れ始める。地震じゃない。
アスピドケロンの浮上。
所詮はデカいだけの魚のくせに、それが浮上するだけで小さな津波が発生し、とても立ってはいられない。
同時に海面へ現れたその背――岩のような鱗を掴んで落下しないように耐える。
現れたのは、陽光を弾いて瑠璃のように煌めく光沢ある鱗。そして、それとは真逆に岩のように歪な黒い甲羅。
海面へ姿を現したのはアスピドケロンの巨体からするとほんの一部なのに、眼下に見える海面は十数メートルの遥か下。
例えるなら、ビル五階程度の高さ。
下が海面とはいえ、落ちればそれなりに痛い高さだ。
「少しは大人しくしやがれ、くそったれ」
拳でその鱗を軽く殴るが、効いた様子はない。
むしろ、殴ったこっちの方が痛いくらいだ。
硬い――天音の話だと外部からの魔法的な攻撃は受け付けなかったという事だし、物理に関しても同じような物だろう。
触手は切れるが、所詮は先端。それが致命傷になるとは思えないし――ダメージを与えるには、やはり柔らかい部分を狙うしかないか。
そう考えながらアスピドケロンの巨体をよじ登り、その背中に到達。甲羅を足場に、深呼吸を三回。
さっきから飛んだり跳ねたり走ったりで、乱れた息を整える。
「さあ、もうひと踏ん張り」
自分に言い聞かせて、水を吸って重くなった上着を脱ぎ棄てる。邪魔だ。
流石にズボンを脱ぐのは止めて、シャツ一枚になって少し軽くなった上半身を解してから――集中。
行くぞ、行くぞ、行くぞ、行くぞ――。
「ふ――――ッ!!」
全力で駆ける、駆ける、駆ける。
アスピドケロンの鱗を、甲羅を、背びれを。足場になるそれらを全力で踏みしめて駆ける。
肉体を限界まで酷使して、ここまでする必要があるのかと自問しながら目指すのは魔物の頭部。
やっと顔を出してくれたのだ。
デカいだけのクソ魚が、人間の怖い所を教えてやる。
そんな暗い気持ちを抱いて全力で駆けると――眼前。右側。船がある方。
船の後ろの海面が持ち上がり、俺をあれだけ追っていた触手の一本が持ち上がった。同時に、船に乗っている人達の顔が見えてくる。
我ながら素晴らしいスピードだ。
必死に走り、自分で自分を褒めながらその触手の方へ視線を向ける。
船を沈めるつもりだ。触手が持ち上がり、叩き付けられる――同時に、触手が持ち上がった事で空から滝のように海水が降ってくる。
「このっ」
迷いはない。
背中を蹴って宙へ飛び出し、空から落ちる海水に魔力を込めて一瞬だけ足場に。
海水を踏み、蹴り、右手で握って剣へと変えると擦れ違いざまに触手を両断。船を叩き砕こうとしていた触手が音を立てて海中へ沈んでいく。
やはりというか痛覚が無いのか、アスピドケロンに動揺はない。もしくは、これだけ巨体だから反応が鈍いだけなのかもしれないが。
半ばから切り落とした触手を足場にして、一瞬の休憩。
海面へ落ちた触手が上げた水飛沫を全身に浴び、右手に握った剣を巨大化。
――駄目だ。
これじゃあ斬れないと判断して、大きく、大きく――巨大な拳を顕現させる。
まずはこいつの興味を船から逸らすのが先決。
ならやる事は決まっている。迷いはない。恐怖は無い。
俺は誰も見捨てない。見捨てたくない。
そう生きると、決めたのだ――だから、やる事は決まっている――ッ。
右腕一本では集めた水を支えきれなくなり、左手で右手を支える。
顕現したのは、巨大な腕。太陽の光すら完全に遮るほど圧縮され、大型の船すら拳の一振りで砕いてしまいそうなくらい、巨大な腕だ。
「いくぞ」
触手の残骸を蹴ってアスピドケロンの背中へ戻ると、また駆け出す。
目的の場所はすぐそこ。
右腕を真横へ伸ばす。水の腕が連動して真横を向く。
強く握る。
強く、強く、強く。
巨大な岩すら簡単に砕く俺の水腕――それがどこまで通用するかは分からないが、アスピドケロンの首を蹴って跳ぶ。眼下にある頭部を視界に収める。
まるっきり魚だ。
背には亀の甲羅、尾びれ付近にはタコかイカか分からない無数の触手。
出鱈目な複合魔獣の姿に畏れを抱かず――その頭部を水の腕で殴りつけた。
下は海面。踏み止まる地面は無く、アスピドケロンの頭部が殴った衝撃で海面に沈む。
手応えあり――!!
「さっさと逃げろ、バカ!」
一瞬見えた天音にそう伝え、アスピドケロンの頭部を追って俺も海面へ――そのまま足に魔力を込めて、再度海面に立つ。
帆を張り直した船がゆっくりと進み出す。
その直後、先ほどまで船が居た場所から巨大な触手が現れた。まるで船を突き破らんばかりの勢いでの一撃。
頭部への攻撃が効いたのか、狙いを外している。
「しばらく俺と遊んでくれよ、デカブツ」
言葉は通じないだろう。
それでも嘲るような口調で言うと、海水を纏う。
先ほどよりも二回り小さな腕を二本、顕現。
また、海面が盛り上がる。
現れたのは、見慣れた魚面。ただ、デカい。
太陽が隠れる。巨大な影が俺を覆う。
正面を見る事に適していないからか、せり上がってきたのは横顔。魚の顔。
そのぎょろりとした異様の目が、船への興味を失くし、俺を見下ろした。




