第五十四話「アスピドケロン2」
「ごぼっ!?」
驚きに吐いた息が気泡となって海面へ昇っていく。
巨大な触手を叩きつけられて海面に沈んだ俺の視界に映ったのは、巨大なアスピドケロンの胴体――その一部。
大型の獣よりも大きな鱗に全身が覆われ、水面から差し込む陽光がオーロラのように揺らいでその身体を照らしている。
状況がもっと落ち着いているなら幻想的ともいえるその光景に一瞬だけ思考が止まったが、その間も巨大な触手は俺を海底へ叩き付けようとその勢いを緩めない。
(ま、ずい!?)
息を止め、水の腕で触手を掴む。
表面にはタコやイカのような吸盤が張り付いた触手は、その吸盤一つでも俺の身長と同じくらい。
目の前で口のようにパクパクと蠢いているその光景は、見ているだけで怖気を覚え、なんとか接触しないようにと水の腕を使ってガード。
そうしている間も触手は海のさらに深い場所まで俺を運んだが、それが人体の限界を超える深度へ達するよりも前になんとか触手の押さえつけから脱出。
海水を吸って肌に纏わり付く服を煩わしく感じながら頭上を見ると、アスピドケロンの巨体が視界の大半を占めた。
海面が遠い。
太陽の光すら僅かにしか届かない深海でもないのに、アスピドケロンの巨体が陽光を遮ってしまっている。
急いで海面へ戻ろうとすると、先程の触手がまた俺を狙ってきた。
(あれだけデカいのに、やたら狙いが正確だな!?)
声に出して悪態を吐きたくなる。
迫ってくるのはイカのような触手。白い、先端が槍のように尖った形状。
だが、太過ぎる。
あれでは槍というよりも破城槌と言った方が正確か。しかも触手なので柔らかく、呆れるほど正確にこちらを狙っているのが分かる。
直撃すれば腹を貫かれるどころか、それだけで木っ端みじんに吹き飛んでしまいそう。
それくらいに先端が太く、そして海中だというのに勢いがある。
巨大魚で隠された暗がりではその全長は見えないが、触手の長さだけでも百メートル以上。
それが、瞬きをする間もなく迫って来る――その圧力に身を固くすると、急いで海面へ向かって泳ぎ出す。
(こんなに巨大だってのに、なんて厭らしい――)
海面へ逃げる俺を追って触手もまた這い上がってくる。
追いつかれたのは一瞬。
周囲の海水を腕に纏い、今度は両手でその触手の先端を受け止める。
(ぅぉおおおお!?)
すさまじい勢いで、今度は海面へ向かって運ばれる。水を鎧のように纏っているというのに、それがまったく意味を成さない。
自分が今どういう状況なのかも理解できないまま――一瞬で海面を突破し、今度は海上、その先にある空へ持ち上げられた。
あっという間に海面が遠ざかり、遠く――俺を運んでくれた漁師の船すら眼下に確認できるほどの高さまで。
「ぶはっ!? こ――」
そのまま、触手の先端を掴んでいた水の腕を外すよりも早く触手が波打ち、器用に俺の側面へ移動した。
「――くそっったれええ!?」
虫を叩くように弾かれ、数十メートルはある空から海面へ向かって叩き落された。
咄嗟に水の腕が反応したのは奇跡以外の何物でもなく、海面を足場にする余裕も無くまた海中へ身体が沈む。
「ごばっ!?」
思いっきり肺の中にあった酸素を吐き出し、慌てて海面へ。
頭を出して息を吸うと――。
「――――っ!?」
悪態も悲鳴も上げる間が無く、頭上から巨大な触手が叩き付けられた。
「ま、ず――」
頭を強く打つ。意識が鈍る。視界が明滅する。
それでも必死に全身に水の鎧を纏い、なんとか生存の道を探す。
(まだ――)
まだ動いてすらいないのに、何だこの攻撃は。
いや、邪魔な虫を掃うような無頓着さは、攻撃というよりも煩わしさなのか。
どちらにしても、触手一本にすら抵抗できない。
こんなのをどうにかしようとしていたのかと、自分の無謀さに恐怖すら抱いてしまうほど。
力の差があるというレベルではなく、生物としての立ち位置が違い過ぎる。
(ああ、くそっ!)
恐怖したのは一瞬。
だからって、ここまでされて何もしないなら、後は無様に殺されるだけじゃないかっ。
魔物との戦いなんてこんなものだ。知っているじゃないか。
殺すか殺されるか。生きるか死ぬか。
(この野郎っ)
使える『武器』は周りに沢山――それこそ、このアスピドケロンの巨体を越えるほど多量にあるんだ。だったら、やれるだけやってやるっ。
フューリーの「追い払うだけでいい」という言葉が思考から消え、戦いの道を探し出す。
そうしている間に、先程は運よく俺を叩きつけた後、海面を叩いた勢いで僅かに逸れて深海へ沈んだ触手が再度こちらを目指してせり上がってくる。
(だーっ、くそっ!?)
何かをしようと考える余裕も無い。
また海中から空へと一気に持ち上げられ、しかし今度は叩き付けようとした動きの隙に触手を水の腕で掴んで、その上に立つ。
「ぶはっ!? 舐めんなよ、魚介類が!」
右の水腕は触手を掴んだまま、左の水を剣の形状へ。丸太のように太い触手を切断できるほどに大きく、幅広の剣を生成。
それを一気に横へ払い、触手の先端を切断。
切った先は宙を舞い、傷口からは――出血は無い。
「うげ」
それどころか、切り口はどういう原理か蠢いていて、咄嗟に声が出てしまう。
気持ち悪い。
「こっちは斬れるみたいだなっ」
取り敢えず、この触手を切り刻んでやる。
そう思った瞬間、周囲の海面が盛り上がり――無数の、十本を優に超える触手が海面へ姿を現した。
「は――あ!?」
――イカでも触手は十本なのに、ズルいぞ!?
咄嗟に出た悪態は置き去りに、先端を切った触手を足場に跳躍。更に高く上がった俺を追って、十数本の触手が群がってくる。
逃げ場のない恐怖に身を固くする事も無く、気持ちを落ち着けて近付いてきた触手を冷静に選んで足場にすると、蹴って跳ぶ。
また跳んだ俺を触手が追い、その触手を蹴って逃げる。
「なげえ!?」
一瞬、巻き付けて動けなくしようかとも思ったが、まるで触手一本一本に意思があるかのように器用に避けやがる。
むしろ、蹴って避けているだけなのに、空中に居るという事と、掴まれば死ぬという恐怖であっという間に息が上がる。足が棒のように重くなり、海中へ沈んだ際に少し飲んでしまった海水で痛めた喉が焼けるように痛む。
「ふう、ふうっ!」
喘ぐような呼吸を繰り返し、必死に肺へ酸素を送り込む。
こんな事、いつまでも続けていられない。
どんな攻撃をするのか確かめるために手を出したが、ここまで苛烈なのか。図体がデカいんだから、もっと余裕を持って生きやがれ。
頭の中に無茶苦茶な悪態が浮かぶが、それを口にする時間も惜しい。
もう何度目かの触手の攻撃を蹴って避けると、久しぶりに海面へ着地。それを追ってきた二本の触手を、足元と海水に魔力を通わせて生成した巨大な水の腕で握り止める。
「ぐ、ぬ――」
疲労と酸欠で力が入らない。握った触手が徐々にこちらへ迫ってくる。
しかも、他の、まだ残っている十本以上の触手が俺の周囲を囲んだ。
――ここが限界か。
振り返ると、離れた場所に停泊していた船は帆を広げてこの海域から遠ざかろうとしている。ちゃんと俺が言った通り、逃げる事を優先していた。
それでいい。
後は、俺も海面を走って逃げるだけ。なに、簡単だ。
このクソ魚の巨体が侵入できない浅瀬まで走るだけ。時間にすれば、多分十分かそこら、余裕余裕。
「はは」
余裕過ぎて笑っちゃうね。
そう自分を奮い立たせてタイミングを計る。
心臓がバクバクと壊れたように鳴っている。耳元に大きな爆弾があるみたいだ。
少しでもその鼓動を落ち着けようと深呼吸を二回。
そうしている間も、水の腕で押さえ付けている二本の触手は徐々にこちらへ迫って来る。
目を閉じて、口の中で――俺なら大丈夫と、口にする。
「よーい」
目を開ける。ふと目に留まったのは、先程先端を切り飛ばした触手。
他の触手とは違い、その触手だけは先端が歪で――けれど、尖っていた。再生したのだ。
「どん」
それを確認してから水の腕を解くと、アスピドケロンの巨体、そして触手の群れへ背を向けて駆け出す。全力で。勇者――この世界の理から片足を踏み外した身体能力の全部を走る事に向けて。




