第五十三話「アスピドケロン1」
さて、と。
肩を大きく回して周囲を見回すと、船の上に居る全員が俺の方を見ていた。
そんなに目立つような事をしたつもりは無かったけれど、やっぱり元とはいえ『勇者』というのは良くも悪くも目立ってしまうものなのか。
まあ、船に乗っている勇者は二人だけって言うのが大きな理由なのかもしれないが。
「それじゃあ、行ってくる。何かあったら、取り敢えず逃げる事を優先してくれ」
「あれ、助けなくていいの?」
「余裕があればな。こっちに手が回るようなら助けてくれればいい」
船の指示は船長に、アスピドケロンが動き出した時の対応は天音に任せる事にする。
適材適所だ。
操船技術も知識も無い俺達が船の動向に口出ししても混乱させるだけだし、その逆も然り。
では、行くとしよう。
落下防止の垣立に足を乗せると、そのまま海へ。
空中に投げ出した身体が重力に引かれてすぐに落下。本来ならすぐ下にある海へ沈むところだが――水の魔法を得意としている勇者なら、その海を足場にする事が出来る。
地面とは違う柔らかな感覚をブーツ越しに感じながら、着地。
まるでアメーバ……スライムを踏んでいるような感覚が近いか。ブヨブヨと柔らかく、それでいて一定の形をしていない。不安定な足場。
「よし」
久しぶりに水辺を足場にしたが、昔の通りに立つ事が出来た。
その事に気をよくして、水面の上を歩きだす。
少し上、船上で驚く声が聞こえたので、振り向く事無く大丈夫だと言って手を軽く振っておいた。
「にしても――本当にデカいな」
ゴミなどで汚染されていない海は透明に近く、かなり深い場所まで透けて見えている。
海中まで差し込む陽光はオーロラのように揺らめいて、泳ぐ魚の僅かな仕草まで良く見える。
少し浅い場所なら揺らめく海藻なども見えている。
……そんな海上を歩く事、十分ほど。魔物を恐れて十分な距離を取って停泊していたからか結構な距離を歩く事になってしまったが、すぐにその威容は理解できた。
その透き通るほど美しい海だからこそ――海中に沈む、止まっている巨躯がしっかりと見えてしまったからだ。
まるでその一部だけに濃い影が落ちているような、違和感。青い海に、黒い壁が沈んでいる様な異様ともいえる光景。
その壁が無数の鱗で守られている事に気付くのにしばらくの時間を要し、そして理解すると今度は眩暈すら起こしそうな虚無感に襲われる。
……本当、こんなのをどうしろというのか。
海面に出ているのはその背びれ――というか、背を守る亀のような甲羅。その一部が顔を覗かせ、藻や苔が彩りとなった様は、まるで小さな無人島。
その藻や苔を求めて海鳥が集まっているので、それが魔物の背中だと分かっていても間違えてしまいそうだ。
「はー……デカいな」
分かっていた事だが、それでもそう言葉にしてしまう。
右を向いても左を向いても、足元――海面の下には魔物の巨躯。それが何時動き出すだろうかと不安になってしまう。
なにせ、これだけの巨体だ。全長はキロ単位、魚型なので厚さは無いはずなのだが、それでも反対側へ回るのに数分は歩かなければならないくらい太い。
頭や尻尾が何処にあるのかすら分からず――ああ、これは魔物というより災害のようなバケモノだな、と。
改めてそう理解する。
これは無理だ。倒しようがない。殺しようがない。これだけ巨大なら心臓へ届く刃を生成する事も出来ず、頭を潰すにも頭蓋を砕く事すら不可能かもしれない。
「ふむ」
呟いて、数歩近づく。
すぐ真下に、アスピドケロンの巨体がある。今動き出したら、俺はその際に出来る波にさらわれ、海に沈んでしまうだろう。
これだけの巨体だと、少し動くだけで波が立ち、きっとこれだけの遠洋でも港町へ被害が出る。
……こりゃあ、下手に刺激するのも難しいな。
海面へ膝をついて、手を海中へ伸ばす。巨大過ぎて遠近感が分かり辛い。
何度か近付いて海中へ手を伸ばすを繰り返し、ようやっとその巨体に触れる事が出来た。
触れたのはアスピドケロンの背。亀のような甲羅。
甲羅を背負った魚というのは珍しいというか、初めて見た。
まあ、魔物は人間の欲望が受肉した存在。港町に住む、そして訪れた人達の欲望が受肉した存在こそアスピドケロン――これだけ巨大で、強固で、災害のような魔物を生み出した欲望とは何なのか。
「まあ……単純に食欲とかかねえ」
これだけ大きければさぞ空腹だろう。どれだけ食べても満足できないだろう。
それこそ――勇者すら食っても、満たされないだろう。
カルティナが何かを得ようとする『欲望』から生まれたように、ジェシカを呪った魔物が人間に対する『憎悪』だったように。
「動かすには、満足できるだけの食い物か……」
大型船二隻を丸呑みにしたと言っていた天音との会話を思い出し、そう呟いて頭を掻く。
こんなデカブツを満腹にさせるだけの食い物なんて、それこそ大陸に住む人達がしばらく節制しなければならないくらいの量ではないか。
それとも、それでも満足させられないか。
「船で逃げても追いつかれるよなあ」
これだけ巨大なら泳ぐスピードも相応だろう。それとも巨大過ぎて鈍重なのか。
やはり、見ただけだと分からない事が多い。
「おい」
試しに、海面から覗いている背中を蹴ってみた。
やはりというか反応しない。そもそも、痛みを感じているのかも怪しい。鱗はデカいし、甲羅は硬い。蹴った程度では刺激にもならないのかも。
なので――。
「さて」
足元の海水に右腕を肘まで浸し、集中。周囲の海水を、腕を支点に集めるイメージ。
普通なら有り得ない、腕が延長する感覚に溜息を一つ。
まるで自分の右腕だけが巨大になったような感覚だ。触覚も僅かにあるから水の流れも分かるし、その腕を通る小魚の動向も何となく分かる。
そのまま右腕を引き上げると、巨大な――それでもアスピドケロンの全長からすると脅威にもならない五メートル程度はあろうかという水の腕が現れる。
人間の腕の延長。強度はそれなりだが、力――魔力を多量に込めているわけじゃない。ただ、それなりの質量が欲しかっただけなので。
「んじゃ、これはどうだ?」
水の中で右腕を握ったり開いたりすると、連動して水の腕も同じ動きをする。
それを確かめてから、右手を強く握る。
そして、堅く握った水の拳でアスピドケロンの背中――小さな島と見紛う巨大な甲羅を殴りつけた。
小さな波の音しかなかった海原に鈍い音が響くが、しかし砕くには至らない。
本当に硬い――それを再認識して、もう二度、三度と殴る。
「――あ」
途端、遠くで大きな水音がした。船が動くのでも、魚が跳ねた音でもない。
巨大な何かが持ち上がった音。水を文字通り持ち上げ、そしてその水が滝のように海面へ叩き付けられる音。
視線を向けると――最初はそれが、何なのか理解できなかった。
白に緑……丸太のように巨大なイカのような触手に海藻が纏わりついている。それをどう表現すればいいのか……。適切な言葉が思い浮かばない。思考が一瞬だが止まる。
何故なら――本当に、大きいのだ。巨大なのだ。太いのだ。
「まず」
い、という言葉まで告げられない。
多量の海水を空へ撒き散らしながら、勢いよくその巨大な触手が迫ってくる。輝く太陽が隠れ、全身が影に飲まれる。
逃げるという思考すら湧かない。
逃げる場所が無いのだ。横っ飛びに避けようとしても触手の範囲内。上は言わずもがな、後ろに逃げても同じ。
「――来いっ」
ならばとれる手段など一つだけ。
先ほど生成した水の腕を眼前に構え、触手を受け止める――っ。
「ぅ――ぉっ!?」
同時に、海面を足場とするために放っていた魔力を解除。重力に引かれて足が海面へ沈み、それと同時に触手を叩きつけられ、視界が一瞬で蒼に染まった。




