第五十二話「信頼と不安」
「ユウヤさん、大丈夫でしょうか?」
出向していく船が遠ざかっていくのを見ながらそう呟くと、私の隣で同じように見送っていたカルティナさんがこちらに視線を向けた。
心配……しているのかもしれない。
いつもよりずっと、じっと、船を見ていたから。
「大丈夫よ」
「だといいですけど……大きな魔物なんですよね、アスクレピオス」
「アスピドケロン――成魚なら、この港町よりも大きな魔物よ」
「……想像できないんですけど」
私の間違いを訂正しながら言われた言葉が現実離れし過ぎていて、本当に頭の中でもその威容を想像する事が出来ない。
町より大きな魔物だなんて、どうやって退治するというのか。
「ユウヤさんは追い払うだけだから簡単みたいに言ってましたけど、カルティナさんは一緒に行かなくて良かったんですか?」
そう。
いつもはユウヤさんと一緒に居るカルティナさんが、今日は別行動。いや、この港町に来てからはずっと私と一緒に居てくれている。
……多分、私に何かあった時にすぐ動けるようにとか、気を使ってくれての行動なんだろうけど。
そうと分かっていても何も出来ない自分が、少し情けなくなってきた。
「どうかした?」
「ぅ……いえ」
自分で言って勝手に落ち込んだ私を気にした言葉に返事を返して、俯こうとしていた顔を上げて前を見る。
船はまだ見えるけど、多分もうすぐ肉眼では見えなくなってしまう。
大丈夫かな。ちゃんと無事に戻ってきてくれるかな。
そんな不安を少しでも和らげるために、無事に――ちゃんと生きて帰ってくると言っていたその姿を思い出す。
船に乗る前。出港する前。
今日ものんびり過ごしていいと言ってくれたユウヤさん。
そのユウヤさんはこれから魔物退治で、その魔物は今まで誰も対峙した事の無い大物。
不安に思うなというのが無理なのに、そんな私に笑顔で「帰ってくる」と約束してくれたのだ。
「大丈夫よ。ユウヤは嘘や冗談を好むけど、約束を守るわ」
「……それって信用していいんですか?」
「信用できるでしょう? 嘘や冗談も口に出来ない聖人君子よりも、約束だけは守ろうとするユウヤの方がよっぽど」
「ぅ」
確かにそう……なのかな?
その断言するような口調には確かな信頼があって、なんだか私もそうなのかもと思ってしまった。
「でも、カルティナさんも一緒じゃないし……」
「ユウヤの場合、私は一緒ではない方がいいのよ」
「そうですか?」
「私に頼って怠けるもの」
ああ、確かに、と。
家でのユウヤさんを知っている人なら、カルティナさんの言葉に皆が頷くだろう。
掃除に洗濯、料理や諸々の後片付け。その全部を任せっきりで、本人は日がな一日リビングのソファでぐーたらしているのだから。
あれで元勇者、魔物退治では人並み以上の実力者と知らなければ……こう、悪い感情というか、色々と不満も出てくるところだ。
ただ、ちゃんと私の事は考えてくれているし、面倒も見てくれている。それに、生活が苦しくならない程度には働いている所を知っているから、そんなに悪く思えない。
ああいうのは、人柄だろう。なんとなく憎めない、というのは。
「信頼、しているんですね」
「そうかしら?」
周囲で私達と同じように船を見送っていた人達が、不安そうに何度も海の方を振り返りながらも少しずつ港を離れていく。
その表情は、一様に不安の色が浮かんでいる。
巨大な魚の魔物が沖に現れて船を出せないというのは、きっと内陸部に住んでいる私では想像もできないほどの不安なのだろう。
「カルティナさんは、いつも通りです」
「そうね」
そう言って、カルティナさんはゆっくりと右手で自分の頬を撫でた。
「こういう時は、どういう顔をするべきなのかしら?」
「大丈夫だと信頼しているなら、笑っていいんだと思います」
私は無事に帰ってきてくれるか不安だから笑えないけど。
ああ、だめだめ。
不安に想ったら魔物が寄ってくる――と気持ちを強く持つ。大丈夫。ユウヤさんは帰ってくる。無事に。
だって、そう約束したもの。
「そういえば、ユウヤさんってカルティナさんと会ってからずっと約束を破った事はないんですか?」
「……正確には、一番最初の約束だけ、破られたわ」
「あ、そうなんですか」
「ずっと傍に居て守ってくれると約束してくれたけど、彼は大怪我をしてしばらく私の傍を離れたの――それからね。ユウヤが約束を守るようになったのは」
「なんだかすごく重い話みたいな気がするんですけど……」
「重い?」
「いえ、なんでもないです」
でも……女の子なら、男の人から一生に一度でいいからそんなセリフを言ってもらいたいという願望が頭に浮かんでしまう。
どう言う状況でそんな事を言ったんだろう。あのユウヤさんが。
今のユウヤさんからは想像もできない情熱的な言葉に、事の詳細を聞きたいという欲求が大きくなりながら、けど大怪我をしたと言っているし不謹慎なような気もして海とカルティナさんの横顔を交互に見てしまう。
カルティナさんは――ずっと、海を見ている。
もうすぐ私の目では見えなくなってしまう、今はもう小さな点となっている船を。
「大丈夫ですよ。ユウヤさん、無事に帰ってきますから」
「そうね」
「私と約束しましたもん」
「……ええ、そうね」
あ、でも、と。
「カルティナさんも、ユウヤさんと何か約束をしたんですか?」
「私はもうずっと昔に――約束を破ったユウヤが、今も守り続けてくれている約束があるから」
「そうなんですか?」
「死なない――そう約束してくれたから、それで十分よ」
いつも通りの無表情。
感情の起伏が無い声。
……だというのに、聞いているこっちが恥ずかしくなってきた。
何かをしたわけじゃないのに頬が熱くなり、両手で押さえて熱を逃がす。
「どうかした?」
「な、なんでも――それよりカルティナさん、今日は何をしましょうか。町のはずれに景色の良い高台があるそうですし、王都で見た事も無いお店も沢山ありますし……」
照れ隠しに早口で言うと、カルティナさんが海に向けていた視線をこちらに向けた。
「そうね。でも、もう少し海を眺めていてもいいかしら?」
「……はい」
じっと、カルティナさんは海を見ている。
きっと不安で、心配で。
――こんなに心配してもらえるユウヤさんが少し羨ましい。そう、思った。




