第四十三話「港町アルストレラ」
「ん……」
カタカタと、床が揺れている。
薄目を空けると視界に白の厚布が映り、視線を動かすと木造の壁……ではなく、馬車の荷台が映る。木製の荷台に枕も用意せず横になっていたからか、首が痛い。
起き上がって首を回すと、コキコキと小気味良い音がした。
その荷台には大小様々な荷物が転がっていて、中身は着替えや港町アルストレラへ行くまでに掛かる三日分の食料など。
……ああ、思い出してきた。
そうだ。王都を出て三日。今日の昼には港町へ着く――昨日は野宿をして、一晩中火の番をして寝ていないから馬車の荷台で仮眠をとっていたんだ。
――なにか、夢を見たような気がする。
何だったかな……思い出せない。
「起きましたか? お水、飲みます?」
「ああ――くれ」
荷台の後ろから景色を眺めていたらしいジェシカが俺が起きた事に気付き、水袋を一つ渡してくる。
それを手に取ってから一気に煽ると、馬車の揺れで少し零れてしまった。
ぬるくなっていた水が顎から零れ、チュニックの胸元を濡らす。
乱暴に手の甲で口元を拭ってから、俺もジェシカに倣って馬車の後ろから外を見た。
「うお……もうこんな所まで来たのか」
「だってユウヤさん、凄く寝ていたんですよ? イビキも、凄かったです」
「そりゃあ、申し訳ない。次からは、イビキをかかないように努力しよう」
「……出来るんですか?」
「さあ?」
寝ていた時の事なんか覚えていないが、イビキをかいていたと言われると少し気恥ずかしい。
冗談めかして言うと、眩しい太陽の明かりに目を細めながら遠くを見る。
太陽と同じくらい眩しい、光を反射して輝く青い海――その先にある水平線を。
「うおー……海なんて何年ぶりだ、見るの」
「聞いていましたけど――ユウヤさんって、本当に王都からあまり出ないんですね」
「出なくても困らないからなあ」
ジェシカも久しぶりに王都の外に出て、しかも海を見たからか少し声のトーンが高い。テンションが上がっている。
かく言う俺も、なんだか大きくて広い、雄大な海を見ているとちょっと胸の奥が熱くなる。
大きく息を吸うと、磯の香り。王都周辺では嗅ぐ事が出来ない、海の香りがした。
「おお、海だ」
「海ですよ。凄いですね。凄く大きいです」
魔物退治の依頼だからと堅苦しい騎士学校の制服姿で、ジェシカが子供のようにはしゃいでいる。
ああ、いや。まだ子供なのか。
そう考えると、まだ学生の子供を王都から出さなかった俺は……なんてダメな大人なんだろうと一瞬思ってしまった。
「……どうかしましたか?」
「ああ、いや。久しぶりに笑っている所を見たな、と」
「そうですか?」
よく考えると、家に居る時は……笑顔を浮かべてはいたけど、今みたいに自然に笑ったという感じではなかったような気がする。
こう、楽しい笑みではないというか。
そこには言葉に出来ない違いがあって、今は心から楽しくて笑っているのだと分かる。
子供の笑顔――年相応の笑顔だ。
「あ」
そういえば、パム達に何も言ってこなかったのを、今更ながら思い出した。
家の近所に住んでいる子供達。
……海に行ったなんて言ったら、絶対拗ねるだろうな。まあ、連れて行くのは無理だから、事前に教えていても結局拗ねそうだけど。
土産でも買っていけば機嫌は良くなるだろ、とだけ思っておく。帰りは忘れないようにしよう。
……魔物退治で出てきたのに、気分はすっかり旅行のそれである。
何で海って、見ただけでテンションが上がるのだろう。不思議だ。
「ユウヤ、起きたのなら場所を代わってくれないかしら?」
ジェシカと二人で海を見ながら盛り上がっていると、そんな声が前から聞こえてきた。
馬車を引く馬の手綱を握っているカルティナだ。
こっちもいつも通りのメイド服姿で、けれど頭にはカチューシャやホワイトブリムではなく麦わら帽子が乗っている。
日差しを避ける為なのだが、メイド服に麦わら帽子っていうのも新鮮だ。中々悪くないと思うのは、旅行のテンションだからだろうか。
「私も海をゆっくりと見たいの」
「ああ、交代するか」
その正直な言葉に苦笑して、荷台を通ってカルティナと場所を代わる。
二人が座れる程度に余裕のある御者台。馬車を引くのは二頭の馬。
三人で移動するには大きすぎるようにも思える馬車を用意したのはフューリーだ。カルティナへ良い所を見せる為だと本人は言っていたが、魔物退治の件を少しは悪いと思っての行動なのかもしれない。
なんだかんだ根は真面目で、無茶な依頼を回してきたら少しくらいの罪悪感を抱いてくれる。
アスピドケロン――島のように巨大な怪魚。
その討伐がどれだけ無茶苦茶なのか。
あの夜、酒に酔っていたのは、素面では切り出せなかったからかもしれない。まあ、俺の勝手な想像だが。
「懐かしいわね」
「うん?」
御者台から移動したのに荷台の後ろへ移動するでもなく、そのまま俺の背中越しに海を眺めているカルティナがそう口を開いた。
手綱をしっかりと握り、馬は街道に沿って歩く。
右手にはどこまでも続く草原が、左手には太陽の光を反射して煌めく青い海が。
そして眼前には高い山と下り坂。緩やかな下り坂に差し掛かると、海に面した場所に作られた街――港町アルストレラが遠目に見えてくる。
まだかなりの距離があるというのに大きく見えるのは、それだけ港町が栄えているという事。
この大陸にはいくつも港町があるが、一番大きいのは王都の南に位置するこのアルストレラだろう。
立地的には湾状と言うべきか。港町が作られている場所は三日月のような形で、その形に添って町が形成されている。
その内側には外洋へ出る事が可能な大きい漁船が並び、その数は十を超えている。
外洋に出る事の出来ない小型の、多分、個人で所有しているのだろう船は数える事も出来ないくらい並んでいる――が、それらの船は湾の中に留まったままだ。
一隻も使われていない。
それを見て、寂しいな、という気持ちが最初に浮かんだ。
きっと、あれだけの数の船が漁業を行っていれば、それだけで凄く壮観な光景を見る事が出来たはずだ。
だから寂しいと。そして、勿体無いと思ってしまった。
「貴方と海を見るのは、もう十年以上も前以来だから。懐かしいと、そう思ったの」
「あー……」
「ユウヤさんって、本当に出不精なんですね」
荷台で、女子二人が「旅行とかしなかったんですか?」「ええ。ユウヤはあまり動きたがらないから」とか何とか言っているが、聞こえない。
その後「甲斐性」がどうのこうのと聞こえてきたが、聞こえないふりをする。
……別にそれでも、今まではカルティナは文句を言わなかったし――というのは情けない言い訳だろう。
単に、何も言わなかったカルティナに甘えていただけなのだから。
「別に、どこかに出掛けたいなら、言えば連れて行ったし」
「ふつう、そういうのって男の人から言うべきだと思います」
「……そだね」
女の子の可愛らしい主張に、けれど反論できずに肩を竦める。
今日、というか王都を出てからジェシカは少し強気だ。さっき感じたように、テンションが上がっているからだろう。
多分、これが素の感情。本当のジェシカなのかもしれない。
今まで俺が見ていた、俺の家で見せていたのは、借りてきた猫とかそんな感じ。
こうやって本音を出してくれるなら、それだけで連れてきた甲斐があったとも言えるのか。
「凄いです、カルティナさん。景色が綺麗です」
「ええ、そうね――綺麗なのね」
尋ねるような声は、何故か、俺に向けられているような気がした。
実際、その声に惹かれて振り返ると、カルティナは俺を見て、そして視線を海の方へ動かす。
長い三つ編みに纏められた髪が荷台に入り込んだ海風に揺られて、カルティナが手で押さえた。
「海に浮かぶあの島々――そのどれかが、魔物なのね」
「……もう少し綺麗な景色を楽しもうな、カルティナ」
その唇から漏れた現実に苦笑すると、手綱を握り直した。
視界には、遠くに霞んで見える島がいくつかあり――そのどれかが魔物なのだ。とても人がどうこう出来るような大きさではない。
それが魔物。
星を滅ぼす存在。人を殺す存在。
ヒトの負の感情が生み出した、ヒトを憎むモノ。
……俺の世界。地球の知識があればだが――自然と同化して美しい景色を作る魔物の方が、人間なんかよりもよっぽど『キレイ』だと思ってしまった。
無機質なコンクリート、ビル、機械。
ではなく、自然と生きる事が出来る魔物の方が――こんな事を言えば、きっとまた偉い貴族連中から怒られるのだろうけど。




