第三十七話「幕間 特別な物を特別ではない日に」(書籍未収録)
「なあ、カルティナさんや」
起きてリビングへ顔を出すと、なんというか……物凄く甘い香りがした。
あまりの香りに顔を顰めてしまうくらい、強い匂いである。
「おはよう、ユウヤ」
「ああ、おはよう……で、何の匂いだ、これは」
朝一番からの匂いに少し口調が強くなりながら、リビングの窓を開ける。
もう近所の子供達は学校へ行っているので、外は静かなもの。そんな静かな庭では、どうやらジェシカが洗濯物を干している様だった。
……真面目だなあ、と。
家に居候しているのが気になるのだろうけど、いつも何かしているような気がする。
もっと気持ちに余裕をもって生活してくれてもいいのだけど――とは、もう何度も言った事。
まあ、その内ここでの生活にも慣れてくれることだろう。……とまあ、そんな事はさて置き。
「なんだ、お菓子でも作ってるのか?」
「ええ。昨日は、お店の方で甘いものがよく売れていたから」
だから食べて見たくなったという事か。
ロシュワの店……というか、サティアさん手作りのチョコレート菓子を頼む男連中の顔を思い浮かべてしまう。
まあ、それが義理だと分かっていても、美人人妻手作りのチョコレートっていうのは、それだけで価値があるだろう。もしその場に居たら、俺も頼んでいると思う。
カルティナの場合は、他人が食べていたから自分もという感じなのだろうか。その心理は分からなくもないけれど……。
「……朝からか」
「もうお昼なんだけど」
確かに、太陽はもう空の高い位置まで昇り、時間帯は昼食時。そんな時間まで寝ていた俺が悪いと言えば、悪いのだろう。
「ジェシカと私は、昼食よ」
「ま、いいか」
せっかく作ってもらったのだから文句を言うのは失礼だし、甘いモノなら食えない事も無い。
カルティナは人間と味覚が違うので普通の料理は苦手だが、甘いモノだけはちゃんと作れる。というか、複雑な味付けが無く『甘くする』だけなら何とかできるといった感じか。
どうやら作っているのはパンケーキにチョコレートソースのようだ。
「それにしても、お菓子の種類、また増えたな」
「異世界にはレシピがあるのでしょう? なら、その通りに作るだけだと思うけど」
「……レシピがあっても、一から作るっていうのは面倒そうだけどな」
だから俺は、工作系の仕事に就かず、剣を振り回す依頼を受けていたのだけど。
そっちの方が難しく考えず、簡単に異世界生活を満喫できたし。
でも、年を取って普通に生活するようになると、異世界からもたらされた技術や食べ物がどれだけありがたいかがよく分かってしまう。
お菓子だってそう。
ジャガイモは元から似たようなのがあったのでポテトなんかは簡単に作れたけど、こういうチョコレートや調味料の醤油など、俺のように異世界から召喚された別の勇者がもたらした『技術』は数多い。
そして、それを用いた祭り――バレンタインやクリスマスなども、一部では普及しているし。
「ああ」
そうか、と。
カルティナの後ろからお菓子作りの作業を覗き込んでいると、ようやくその事に思い至ってそう声を出してしまった。
「バレンタインか」
「…………」
忘れていた俺も俺だが、ここまで反応が薄いカルティナもカルティナである。
いや、こいつがお祭りに興奮する姿なんて見た事が無いし、こうやって世の中のお祭り騒ぎに反応するだけでも成長したと考えるべきなのか。
「はー……お前がバレンタインに手作りのチョコレート、ねえ」
パンケーキとチョコソースだけとはいえ、立派な手作り料理と言えるだろう。多分。俺的に。
そう感嘆の声を出すと、ん? 首を捻る。
「いや、バレンタインは昨日だ」
「ええ、そうよ」
そういえば昨日、カルティナとジェシカからチョコレートを貰った事を思い出す。
三十を過ぎると貰ったチョコが本命か義理かなんてあまり関係なく、貰えることが嬉しかったりしてロシュワの店で酒を飲んだのだ。結構な量を。
アイツは強面だから毎年サティアさんとカルティナからの義理でチョコレートを貰っていて、俺も去年まではカルティナとサティアさんからの義理チョコしかもらっていなかった。
けど今年は、それにプラスしてジェシカからの義理チョコである。
遂に俺は、あの強面の男よりも一つ多くのチョコを貰う事が出来たのだ。
……悲しい勝利だが、勝利は勝利。
ロシュワの奢りで深夜まで酒を飲んで……今日は昼間で寝ていたのだが。はて、どうしてカルティナは、今日もチョコレートを作っているのだろう?
「どうしてまたチョコなんだ?」
「昨日は市販品。今日は手作りのチョコレートよ」
ああ、なるほどと。
「……んん?」
意味が分からなくて、顎に指を添える。
「どういう事だ?」
「サティアが、バレンタインの翌日にチョコレートを渡すのも効果的だと言っていたのだけれど」
「いや、知らないけど」
サティアさんが言うのなら、そうなの……かな?
そういう考えもあるのだろうと思い、どういう意味かは後で調べてみるとしよう。
しかし、バレンタインの翌日にチョコレート、ねえ。
「太りそうだな」
「貴方がちゃんと働けば問題無いわ」
「耳に痛いな」
そう言って、誤魔化すように欠伸。胸一杯に甘い香りを吸い込んで、頭の中まで甘くなってしまったように錯覚した。
「あのー……おはようございます、ユウヤさん」
そう話していると、洗濯物を干し終わったジェシカがリビングの隅に立ちながら声を上げた。
声を掛けられるまで気付かなかったのは、彼女がまるで隠れるように立っていたからだろう。
窓から差し込む陽光から、まるで逃れるように影に立っている。
「おはよう、ジェシカ。……それで、なんで隠れているんだ?」
「あ、いえ。なんだか良い雰囲気だなあ、と」
「……何か誤解していないか? 別に、いつも通りだぞ」
「ええ。そうね、ユウヤ」
俺とカルティナが揃ってそう言うと、ジェシカが深い深い溜息を吐く。
恋仲とかなんとか誤解しているのかもしれないけど、別にそういう訳じゃない。
お互いに、お互いを男女として意識していないのだ。異性というよりも、仲間、同居人……そんな感じ。
最初は確かに男女で、異性で、カルティナは美人で……意識していたけれど、こうやって同居生活が十年以上も続けば、そんな感情にも慣れてしまう。
こうやって息遣いを感じる距離まで近付いて話す事だって、もう何度目かと数える事も出来ない。
……我ながら、枯れているなあと思ってしまった。
「それより、飯にしよう。俺は腹が減って、お腹と背中がくっつきそうだ」
もうずいぶん昔、子供の頃にどこかで聞いた言葉を思い出しながらそう呟くと、ジェシカが照れながら影から顔を出す。
指で毛先を遊んで居る仕草は、まるで借りてきた小猫を連想させて愛らしい。
「そうね……洗濯物、ありがとう。お昼にしましょう、ジェシカ」
「はい。お皿、出しますね」
二人にはパンケーキが一枚ずつ。俺には二枚と、たっぷりのチョコレートソース。
どうやらチョコレートは俺だけのようで、ジェシカも食べるかと聞くと、思いっきり溜息を吐かれてしまった。
まあ、確かにいまの質問はデリカシーが無かったのかもな、と思う。
「うん、美味い」
寝起きに甘いものは結構きついものがあったけど、それは本心だった。
『甘すぎる』と思わなくもないけれど――それでも、手作りのチョコレート菓子というのは気持ちが籠っているというか。
「そう、よかったわ」
いつもと同じ、毎年同じ、感情の起伏が分かり辛い平坦な声。
喜んでいるのか、物足りないと感じているのか、それも分かり辛い。
カルティナはいつものように返事をしてから、パンケーキを口に運ぶ。
俺はそんなカルティナを見てから、また甘いパンケーキを食べる。
無言だけど、心地良い空間。気持ちが落ち着く、いつもの食卓。
ただ今年は、俺達以外にジェシカが居る。
彼女は溜息を飲み込んで、俺やカルティナの代わりに恥ずかしがりながらパンケーキをナイフで切り分けて食べていた。




