第三十二話「勇者の在り方2」
「どうしてこんな――どうして……」
世の不条理に。不幸に。訳の分からない現状への怒りに。そして、魔物に追われる恐怖に声を震わせながら必死に馬の手綱を操って駆ける。
草原の景色があっという間に後ろに流れていくが、その景色を楽しむ余裕などありはしない。
馬を操るジェシカは後ろを気にする余裕も無く、振り返る事も無い。
後ろから聞こえてくる獣の唸り声にも似た、けれどそれ以上におぞましい魔物の咆哮。息遣いすら聞こえてきそうなほどの緊張と、嗅ぎ慣れない体臭はそれだけで涙を流してしまいそう。
振り返っても抵抗の手段などありはしないのだから、むしろ前だけを見て馬を操るのは自己防衛なのかもしれない。
「くっ」
突然、馬がジェシカの意志に反して左に曲がった。
その行動に驚き、舌を噛まないように口を閉じると視界の端に小さな影。以前、騎士学校の授業で夜営の経験をした際に襲ってきた魔物、ゴブリンだ。
身体は十代にも満たない子供のそれと同等だというのにその顔は醜悪。
身体の大きさとは不釣り合いに肥大した顔と、ギョロリと突き出た瞳。開かれた口から覗く牙、糸を引いて垂れる涎。
直視しただけで吐き気を催し、馬の本能に従ってジェシカは逃走のルートを変える。
どこかを目指しているわけではない。
ただ、逃げているだけだ。
王都が魔物に襲われた。その原因が自分であるという現実から――今後、周囲から向けられるだろう敵意から、逃げ出したかった。
魔物を引き寄せる。
人類の敵。星の厄災。
その魔物を引き寄せ、惹き付けてしまう体質など、誰からも受け入れてもらえるはずがない。
今日、その事を理解した。誰に言われるでもなく、自分で理解してしまった。
『赤毛の雄牛』亭の中に逃げ込んだ時に向けられた、自分と同じ避難者達の瞳。恐怖と嫌悪、そしてなにより――ジェシカが騒動の原因なのだと告げている瞳。
だから逃げた。
王都から離れれば誰かを巻き込むことなく、終わる事が出来る。
そういう思考だけが頭にあった。
けど、今は違う。
馬を盗んで、王都を出て……これで誰かを助けられると思ったけれど、現実は違う。
こうやって逃げていると、生きたいという気持ちが湧いてしまう。
死にたくないという気持ちに突き動かされてしまう。
この馬のように。
本能が生存の道を探そうとしているのが分かるのだ。
「お願い、もっと頑張って」
揺れる馬の上でその首筋を撫でながら、涙声で呟く。
魔物に追われる恐怖からではない。
死にたくないから泣いて、必死に逃げる。
王都に居られないなら、きっと何処へ行っても受け入れてもらえないだろう。そもそも、隣村、別の町、そこへ辿り着く事すら難しい。
それでも、少しでも長く生きていたいと思ってしまう。
一分。一秒。
それだけでも、生きていたいと。
風景が変わる。
何処までも続いていた広い草原ではなく、森の中。
高い木々が、その緑葉が、空を飛んでいたハーピー達の視界を遮り、ゴブリンやオークの足を鈍らせる。
森での行動を得意とするコボルトが唸り声を上げ、手に持つ得物を木々に叩き付けてジェシカを威嚇してくるけど、その声は遠い。
馬が悲鳴を上げるように息を乱し、けれど走る速度を緩めないまま森の中を駆け抜ける。
そしてようやく――森の奥。開けた場所に出た。
森の中を駆けたのは僅かの間だったはずなのに、久しぶりに太陽の光を見たような気がしてジェシカは天を仰ぎ見る。
振り返ると、魔物の姿は無い。
追ってきているはずだが、距離が開いたからだろう。
「……ここは?」
つかの間の休息に息を落ち着けながら、馬の手綱を操って周囲を見回す。
そこにあったのは、朽ちて蔦に覆われた石の壁。人の手で組まれた石壁や石柱――何かの建物の跡。
もう長い間、放置されていたのだろう。石柱に絡まる蔦は幾重にも重なり、その下にある石の白を僅かに覗かせる程度のものまである。
石壁も同様だ。
馬に乗っているとはいえ、小柄なジェシカが見上げるほどに大きな建物の残骸達。
場所は広く、ジェシカの家どころか、ユウヤの家……その庭を含めても、数倍の広さはある。馬の足でも、一周するのにそれなりの時間が必要になってしまうだろう。
「なぜここに?」
不意に、声が響いた。
自分以外に人が居るなどと思っていなかったジェシカは大きく全身を震わせ、その驚きに反応して馬が足踏みをする。
「だ、誰ですか……?」
周囲を見回すが、人影は無い。
「魔物を引き寄せ、『ヒト』の住む場所へ混乱をもたらす算段だったのだが……アテが外れたか」
声は遠い。いや、近い。
耳元で声が聞こえているように感じるのに、その姿はどこにも無い。
まるで木霊のように森の中に響いたかと思っても、その声はしっかりと耳に届いている。
妙な感覚だった。
耳から聞いているはずなのに、直接頭の中に言葉が流れ込んでくるような。
妙な違和感に、手綱を握っていた手を離して両耳を押さえる。
「困るな。予定通りに動いてくれないと」
「よてい……?」
不意に、建物跡の影が動いたような気がした。
顔を上げると、そこにはさっきまで存在していなかった人影が一つ。
一際高い石柱の上に、ボロを纏った人影が座っていた。容姿も、性別も分からない。僅かに覗く口元だけが見えるが、それだけだ。
ただ、なんとなく――怖くなった。そんなジェシカの内心を察したわけでもないだろうが、馬が後退る。動物の本能で。
「きゃ!?」
突然馬が前足を高く上げ、大きな声で嘶いた。その行動に、鞍を付けていなかったジェシカは振り落とされて地面に転がってしまった。
したたかに背中を打ち付け、一瞬息が止まる。
魔物に追われた恐怖と身体の痛みから涙を零すジェシカに見向きもせず、馬は森の中へ駆けて行った――それを、地面へ倒れ込んだまま目で追う事しか出来ない。
そして、少しの間を置いて馬の悲鳴が上がった。
追ってきていた魔物に襲われたのだろう。
森の暗がりでその最期が見えなかったのは、幸運なのかもしれない。
「獣の方が利口だな。恐怖を理解する」
――誰ですか?
先程と同じ問い……をしたつもりだった。
けれど開いた口から言葉が出ず、喉が震えて、無意識に口内に溜まった唾液を飲み下す。
手が震えていた。
手だけでなく、全身が震えている事に少しの間を置いて気付く。
倒れ込んだまま、起き上がる事も出来ない。馬が利口なのではない、ジェシカは恐怖を感じながら、身体が竦んで動けないだけだった。
「最後に逃げ出したのは予想外だったが、まあ、実験が成功した事が分かっただけ上々か」
男……だろう。頭の中に響いている声は、低い。
「実験?」
「あの、理性の欠片も無いバケモノ達を操る実験だ……といっても、いまだ特定の誰かを襲わせる程度の精度しかないがな」
「こ、これっ。これ、貴方がっ」
それが自分の体質――突然魔物に襲われるようになった要因の話をしているのだと感じジェシカが声を上げると、ボロを纏った男はケタケタと全身を震わせて笑った。
被ったフードの下から僅かに覗いていた口元が――まるで三日月のように、横に裂ける。
「ああ、そうだ。ここ数日、貴様を眺めていた。中々に愉快な見世物だったぞ、ニンゲン」
「見世物って――なんでこんな……元に戻して――元に戻してください!?」
「なぜ?」
そう言って、男が頭部を覆っていたボロを脱いだ。
現れた――人に似た顔。頭。
けれど、肌が白い……まるで人形のようだ、とジェシカは思った。女性のように整った容姿に、白い肌。白い髪。
長く伸びた髪は適当に布で結ばれ、手入れがされていない事が一目で分かるほど毛先はボサボサ。
顔色も悪く、青白い……けれど、それとは対照的に逆光となっていてもそれとよく分かる真っ赤な瞳。
その男は笑っているのに、直接表情を見てしまった恐怖でジェシカの身体が震える。笑顔というよりも、笑みを顔に張り付けているという印象。
目が笑っていない。雰囲気が笑っていない。
男はそのまま、ボロを脱いだ。
下から現れたのは、人と同じ。二本の腕に、二本の足。
服は肌と対照的な黒で統一されていて……。
「ま……まぞ、く?」
「ああ、そうだ。貴様ら『ヒト』の敵。星の敵。神の敵――『勇者』の敵だ」
からからと、顔に笑みを張り付けて男が嗤った。
「それにしても――良い感情だ。こちらの気持ちも昂ってくる」
「かん、じょう?」
「貴様らヒトの恐怖、悲哀、絶望……魔にとってそれは極上の食料でな」
それが何を意味しているのか理解できずジェシカは男を見上げる事しか出来ない。
けれど、男の口が閉じる事はなかった。
最期なのだから、自分がどのような状況に置かれているのか……それを知らせ、更なる絶望を煽ろうという考えだろうか。
男は饒舌に語り、そのたびに変化するジェシカの反応を楽しんでいるようでもあった。
「小娘、貴様は他のヒト以上にその『感情』が漏れるのだ。我らへの恐怖が、絶望が。そして、現状への悲哀が」
「どう、いう……」
「貴様が魔を恐れれば恐れるほど、魔は貴様を『より良い餌』として認識し、どれだけ離れていても見付ける……もう逃げられない。魔物は死すら恐れず貴様を襲う。そして、貴様の周囲も貴様を憎むだろう。魔を引き寄せる人間、死を招き寄せる人間――ああ、ああ」
よほど楽しいのだろう。
男の声が興奮に高くなる。表情に張り付いていた笑みが濃くなり、人形のように整っていた顔が歪になる。
ジェシカと魔族の男以外は誰も居ないこの場所に、興奮に昂った声だけが響き――。
「なるほど」
同時に、違う方向から新しい男の声。
ビクリとジェシカは驚いて、そちらへ視線を向けた。
「ジェシカだけじゃなく不審者も居ると思ったら、お前か」
「ユウヤさん!?」
そこには、いつの間に来ていたのか。白い装束の一部を血の赤で汚したシンドウユウヤが悠然と立っていた。
息は乱れていない。
右手には、揺らぐ半透明の――水の剣が握られている。
「遅くなってすまなかったな」
あっけらかんと呟いて、ユウヤは水の剣の切っ先を高い位置に居る魔族の男へと向けた。
その表情には、いつもの怠惰な雰囲気を浮かべて。




