第二十四話「過去」
「ロシュワ、居るか!? 起きてるか!?」
雨が、降っていた。
酷い雨だ。
地面はまるで浅い川になってしまったかのような水浸しで、昼間だというのに夜のように暗い世界。
雨雲に覆われて周囲は暗いけど、まだまだ昼間と言っていい時間帯。
目の前にある木造のドアを乱暴に数度叩くと、向こうに人の気配を感じた。
「おう。誰だ?」
「祐也だ。新藤裕也……助けてほしい!」
「あん?」
名前を出すと、この家の住人――ロシュワはすぐにドアを開けてくれた。
「こんな雨の日に尋ねてくるなんて……って、誰だ?」
ここ数か月葉音沙汰なしで、突然訪ねてきた俺に胡乱な瞳を向けてきたロシュワは、すぐにその後ろ――俺が背負っている女性に気付いて、尋ねてきた。
その質問へ返事をする前に、乱暴に家の中へ押し入ってドアを閉める。
この女性の姿を他の人に見せたくはなかった。
「おいおい……説明くらいしろよ」
ロシュワの目が細められる。俺の腕を伝って落ちる血に気付いたのだ。
気づいても追い出さない優しさに感謝しながら、そこでようやっと一息つく。
「傷の手当てをしてほしい……傭兵だから、少しは心得があるだろ?」
「元、だがな。結婚したんだ。手紙を送っただろ? それと、この女は何者だ?」
「アナタ、どうしたの?」
玄関で話していると、奥から女性の声。
ロシュワの妻……名前はサティアさん。こちらも以前から知っているけど、今はあまり顔を合わせたくなかった。
そうしている間にも濡れた服から零れ落ちる水滴と一緒に、女性から零れ落ちる血液が木製の床を穢していく。
「ロシュワ、ちょっと……」
「なんだってんだ――おいこら、床が汚れるだろうが!?」
背中の女性を抱え直して、ロシュワの耳に顔を近付ける。
「頼む。何も聞かないでこの女性を助けてくれ」
「そんな事が出来るかっ。大体、治療道具なんて普通のしかないぞ、家には。医者に行け、医者にっ」
「訳ありなんだ、察せよ!!」
「察しているから言ってるんだっ。俺はもう結婚して家庭があるんだ、面倒は……」
小声で会話している途中、そこでロシュワが言葉を切る。
家の奥からサティアさんが顔を覗かせていた。
「あら、ユウヤさん。お久しぶりです」
「あ、はい……」
「ユウヤ、こっちに来いっ。サティア、床と玄関を掃除していてくれっ」
今度は俺が家の奥へ引っ張られていく。
連れていかれたのは、何かの作業場。
壁にかかっている見覚えのあるロシュワの得物――巨大な斧がある事から、武器を保管している場所のようだ。
そこにあった、細かな道具が置かれていたテーブルの上をロシュワが丸太のような腕で乱暴に払う。
「見るだけだからなっ……それで、誰なんだその女は?」
「それは……」
「せめて、それを言え。面倒事に巻き込むんだって言うんなら、それくらいの義理はあるだろ」
俺はそのテーブルの上へ女性を寝かせる。
外套に溜まっていた雨水と、今尚流れる血液がテーブルの上を瞬く間に濡らしていく。
「二か月くらい前に、助けたんだ」
「そうか。それで?」
「……懐かれた、のかもしれない」
女性を寝かせると、そのまま部屋の壁へ背を預けるように座り込んでしまう。
雨に濡れて体温を奪われ、ここまで歩き通しで精神的にも肉体的にも疲れていた。
一度座ると、もう立ち上がれない。両足から、力が抜ける。
「森で、人間に襲われていて……乱暴されそうになっていて、だから、助けたんだ」
「乱暴って――そうか」
それがどういう意味か理解して、ロシュワがそれ以上は何も聞かなかった。
それがどういう意味か分からない子供でもないし、その身体を包んでいる外套から除く顔は……あまり女の子と親しくない俺でもそうと分かるくらい、美人。
ロシュワは手当てをするために、女性を包んでいる外套に手を伸ばした。
「助けただけじゃないだろ。これだけの血だ――」
そのまま、女性を包んでいる外套を外す。
現れたのはボロボロの、服と呼ぶ事も憚られるような布を纏っただけの、血の気が失われた白い肌。
見た目は、人間と変わらない。
「怪我をしているのは背中か?」
「ああ、見てやってくれ」
「……なんでお前が投げやりなんだよ」
呆れた声を出しながら、ロシュワが傷口を確認するために仰向けだった女性を横臥位の体制にする。
息を呑む気配に、ロシュワが何を感じているのかを察した。
「――魔族なんだ」
「……おい、魔族っていうと……翼がある筈だろ?」
「自分で切り落としたんだよ……」
女性の背中にある傷から血が流れていた。
そこにあった翼を、自分の意思で切り落とした傷が。
「……殺すべきだ」
「頼む、ロシュワ。傷を手当てしてやってくれ」
「自分が何を言っているか分かっているのか、『勇者』!!」
「わかってるよっ!!」
ロシュワの怒鳴り声に、怒鳴り声で返す。
「人を助けるために魔を殺さなければいけない事は分かっている。『大』を助けるために『小』を切り捨てなきゃいけない事も、理解している」
「あ?」
「……でも、俺はそんな生き方、もう出来ない」
あの森の中。
この女性に乱暴しようとしていた人間の姿が脳裏を過ぎる。
人のために魔を殺す。
それに、どれだけの価値があるのか――もう、分からない。
あんな、魔族だという理由で弱っている女性に乱暴するような人を、助けようと思う事が出来ない。
人間という『大』の為に、魔族という『小』を見捨てたくなかった。弱っているからではなく、この女性は何かが違っていて……何かが変われると、思ったのだ。
助けてから約二か月。
興味を持たれて、ずっと追いかけてきた女性。
今まで遭遇した魔族達のように敵意を向けるでも、殺意を向けるでもない。
ただ、なぜ自分を助けたのかと問い、気紛れだという俺の言葉に納得できずに追いかけてきたその姿を知っている。
力や魔法ではなく、会話でこちらを理解しようとした姿を知っている。
だから。
「頼む、ロシュワ。コイツを助けてくれ……頼む」
頭を下げた。
何度も、何度も頭を下げた。
魔族相手にそこまでする必要などないとロシュワに言われながら、それでも助けてほしいと願った。
「まったく……本当に面倒事を持ってきやがって」
「……ごめん」
「謝るなよ。面倒事だってわかってて、それでも俺を頼ってきたんだろ? そこまで思ってくれる友人を、無碍にはしねえよ」
ロシュワはそう言うと、女性の手当てをしてくれた。
傷口を縫って止血をし、清潔な布で濡れた身体を拭いて、傷口に包帯を巻いてくれる。
それを見ながら、俺はただただ、濡れた服もそのままに、少しずつきれいになっていく女性を見ていた。
戦うことに、疲れたんだ。
殺すことに疲れたんだ。
魔族も人間と同じ。
自分の意思があり、言葉を解す。
この女性のように人間を知ろうとする魔族を、俺は殺せない。
魔族なのに俺と居るために翼を切り落として、人間の傍に居ようとする女性を殺せない。
――それでも、この女性は魔族なのだ。
このことが知られたらヒトから殺される。
翼を切り落としたことで魔族としての特性を無くし――同じ魔族からも受け入れてもらえない。
それでも、人間を知るために魔族をやめたこの女性……この女性よりも、あの森で――魔族だから構わないと、女性に乱暴しようとしていた男たちのほうがよっぽど『邪悪』に思えてしまう。
そうなると、もう駄目だった。
俺はこの数週間後、人を助けるために生きるのをやめた。
『勇者』である事を、やめた。
「なあ、ユウヤ」
手当てが終わって、どこから持ってきたのか酒瓶を片手にロシュワが聞いてきた。
そのまま、床に座ったままだった俺の隣に立つ。
「この魔族に名前はあるのか?」
「ん? ……ああ」
最初は、無かった。
魔族は人を殺すことだけを考えていて、個体を識別するのはその容姿だけ――名前という概念を有していない。
だから、請われた。
名前が欲しいと。
――だから、俺は、この女性の名前を呼んだ。
「カルティナだ」
「そうか」
ロシュワはそれ以上、何も聞いてこなかった。
顔は怖いが、こういうところは優しい奴だ……。




