第二話「一日の始まり1」
シャコシャコと歯を磨きながら、欠伸を噛み殺す。
見上げる空は快晴。太陽は眩しいくらいに明るく輝いているのに、春先の少し冷たさを感じる風が頬を撫でた。
寝起きで鈍った頭にはその冷たさが良い刺激となり、少しずつ意識が覚醒してくる。
軽く伸びをすると、全身の関節が鈍い悲鳴を上げた。
筋肉痛だ。
僅かな痛みだが、これが中々どうして――この歳になると時間を置いてから痛くなるので堪らない。
その事実に息を漏らしながら周囲を見回すと、いくつかの家屋が軒を並べていた。木造の家屋だ。
窓はガラス張り、多くは二階の無い平屋。一軒一軒に広い庭があり、畑がある家、花を育てている家などがある。
流石に民家が多いので家畜を飼っている家は無い。中には、まだ朝方だというのに家の庭で遊びに興じている子供の姿もあった。
その姿を見て、歯を磨きながらまた欠伸を噛み殺す。
青い空に白い雲。眩しい太陽はまるで俺が憎いかのように燦々と輝いていて、その眩しさに顔を顰めると丁度起き出したらしいお隣の爺さんが窓から顔を覗かせた。
「相変わらず早起きだのう、ユウヤ」
「つい昔の癖でね。それより爺さん、腰の調子はどうだい?」
「ああ。昨日アンタが採ってきてくれた薬草が効いたようでの、今日は調子が良いよ」
「そりゃあよかった。ひーこらと悲鳴を上げながら頑張った甲斐があったよ」
「ほっほ」
俺の言葉に、爺さんは破顔した。
「すまんの。勇者様に薬草採りなんぞをさせて」
「気にしなくていいさ。それと、何度も言っているけど『元』勇者だよ」
爺さんの言葉を訂正すると、また笑われてしまう。
「そうかの? 薬草を採ってきてくれたり、庭の草むしりをしてくれたり。儂からすると、主の方がよっぽど助けになっているがね」
「そんなの雑用だろ。勇者ってのは、バカみたいに前線に出て、魔物や魔族をバッタバッタと薙ぎ倒すような奴の事を言うんだよ」
爺さんの言葉に呆れて溜息を吐くと、またほっほと朗らかに笑う。
「なにも、戦うだけが勇者じゃあるまい」
「だといいんだけどなあ」
歯を磨きながら溜息を吐くと、歯磨き粉特有の強い香りが鼻から抜けた。
「それより、随分早起きをしてるけど何かあったのか?」
「いや、なに。腰の調子も良いからの、植木の世話でもしようかと」
「そんな事したら、また腰をヤっちまうぞ……朝飯を食ったら俺がやるから、少し待っててくれ」
「いやいや、そうそう若いもんに甘えてられんよ」
「若いって言っても、今年でもう三十を越えたんだがな」
「儂からしたら、十分若いよ。それに、お主にも仕事があるんじゃないのか?」
「嫌味か」
その言葉に、自分の家を見上げる。
築十二年。木造平屋建ての我が家は長い年月を雨風に晒されて、所々が色褪せてしまっているが、時折補強している事で見た目ほどガタは来ていない。
それなりの大きさ、数人が住んでも余裕のある広さである。そして、その軒先にある看板には『何でも屋』の文字が書かれている。
俺の仕事だ。
『何でも屋』。
文字通り、依頼料さえ払ってもらえれば『何でもやる』仕事。
……だというのに、ここ一週間ほどは家に依頼人が訪ねてきていない。
まあ、あれだ。ここに家を建てて十二年経つけど、やっぱり『何でもやる』なんて謳い文句は胡散臭いのだろう、と。
いくら異世界でも、そんな安っぽい言葉に吊られる人はそう多くない。
いや、俺としては大真面目なんだけど、やっぱりどこか胡散臭いらしい……『何でも屋』っていうのは。
結果、尋ねてくる依頼人はそれこそ胡散臭い人か、この爺さんのように薬草摘みや庭の草むしりのようなものばかり。
まあ、そういう生活も結構楽しいのだが。
なにせ異世界。しかも『元』だが勇者。
身体能力は人並み以上なのでそれなりの無茶は出来る。まあ、体力は人並み程度でしかないけれど。
優れた能力だって毎日磨かなければ腐ってしまうというのは、現実でも異世界でも変わらないらしい。
そんな現状も相まって、日々の稼ぎは本職の勇者に比べると微々たるものでしかない。
勇者というのは本来、国から支援を受けて生活する。
普通に町で過ごしているだけでも生活費くらいは貰えるし、魔物を倒せばその数に応じて報酬を得る事が出来る。
かく言う俺も、それなりに強いと自負しているが……まあ、あまり魔物退治をしたがらないので周囲の風当たりは結構強い。
実力はあっても気分次第で働かないから『国』からは依頼が来ないので、昨日のように近所の爺さんから依頼を貰って何とか食い扶持を繋いでいるというのが現状だ。
その上、『元』勇者という事で周りの人の印象もあまり良くない。一部では、魔物と戦うのが怖くて逃げたとかも言われているほどだ。
噂って言うのは怖いもので、尾ひれ背びれが生えるどころか、翼まで生えて明後日の方向へ飛んでいってしまいそうなくらい滅茶苦茶言われるし。
そんな噂もあって、俺の『何でも屋』は年中閑古鳥が鳴いている始末である。
……ちなみに、勇者というのは一人じゃない。複数だ。
この異世界に今『勇者』として召喚されているのは、多分百人くらいじゃないだろうか。
勇者だって人間だから死ぬし、死ねば新しく召喚される。
それでなくても、魔物や魔族の攻勢が激しくなれば随時召喚されてくる。俺が召喚される前からそうだったようで、勇者が召喚されても喜ばれこそすれ、驚きの声はほとんど無い。
なんとも有り難味の無い話だ。
「とにかく、あんまり無茶してくれるなよ。もういい歳なんだから」
「ぬかせ」
かっかと爺さんは笑うと、そのまま家の中へ戻っていった。
元気な爺さんだ、俺がここで暮らすようになってからの付き合いなのでもうそれなりの歳なはずなのだが。
そう考えていると、子供達の元気な声が耳に届いた。
歯磨きを再開しながら視線を向けると、こちらに歩いてくる二人の姿が目に留まる
「おはよう、ユウヤ兄ちゃん」
「おはようございます」
「ああ。おはよう、パム、ベリド」
挨拶をしてきた近所の子供に返事をすると、二人はヘヘ、と笑った。
角刈りの茶髪の少年パムと、長い赤髪の少女ベリド。
今年で十五になるらしい二人は、なんだか嬉しそうに笑って俺の前から動かない。
ちなみに、なんで年齢まで知っているのかというと二人に教えられたからである。毎年誕生日プレゼントをせがんでくるのは勘弁してほしい。
こちとら、貧乏なのだ……子供には言えないし見栄を張ってちゃんとそれなりのプレゼントを用意してしまうけど。
「こんな早くにどうした?」
「どうした、じゃないよ。兄ちゃん、何か気付かない?」
「あん?」
パムが少し怒ったように唇を尖らせた。そう言われても、たった一日で身長が伸びたりするはずも無く、特に変わった所など……。
「なんか、綺麗な服を着てるな。ベリドなんかスカートなんか履いてるし。どうした、新しい服でも買ってもらったのか?」
「違うよ!? 今日から僕達、学校に通うの! 傭兵学校っ」
「がっこう? お前ら、そんなに頭良かったっけ?」
「いや、まあ。頭はあんまり……じゃなくて。今日は始業式だよっ」
へへ、といつものように元気な笑みを浮かべながらパムが言う。
その隣で、ベリドは慣れないスカートを気にしているようだった。裾を引っ張って足を隠そうとしている姿は、年相応の少女である。
ちなみにこの少女、今までは男に混じりながら遊んでいたからか、いつもズボン姿だった。
子供らしいと言えばそれまでだが、初めてのスカートを恥ずかしがる仕草は何とも可愛らしい。
「へえ。お前らの事だから、そのまま家を継ぐんだと思っていたよ」
「そう思ってたけど、親父が学校くらい出てろって。少しは勉強できないと、大人になってから苦労するかってさ」
「アタシも……」
「いい親父さんじゃないか。勉強は出来た方が良いぞ、色々と役立つ……と思うから」
剣と魔法のファンタジー世界だけど、勇者が増えた事で商業やらが活発になっているのが最近だ。
その内、工業まで発達して機械なんかが出てくるかもしれない。
何年先、何十年も先の事だろうけど、こいつらが大人になる頃は勇者がもっと世界を変えている事だろう。
俺には想像も出来なかった事だけど、物を作る、生活を良くしようとする勇者は結構多い。
まあ、便利な現代社会を経験しているからこその思考と言うべきか。
この、パムのような子供もそうだ。
以前は学校なんて貴族の子供しか通わない金持ちの集まりという印象だったが、最近は子供の育成にも国が力を入れているのか色んな学校が出来た。
騎士学校に傭兵学校、錬金術を学ぶ学校や薬草や治療の知識を学ぶ医療学校。
他にも、いくつかの種類がある。まあ、元の世界で言うなら専門学校みたいなものか。
「それより、カルティナ姉ちゃんは?」
「カルティナ?」
突然出た同居人の名前に首を傾げ、次いでこの少年達がどうして珍しく朝から俺の家の前まで来たのか思い至る。
この二人の家は王都の大通りの近く――外れにあるウチからは離れた場所にあるのだ。
「なんだ。制服姿を見せたかったのか」
「そ、そんなんじゃないよ!?」
言うと、パムが口を大きく開けて叫んだ。
……元気なのは良い事だが、朝から大声は頭に響く。
「マセガキめ。カルティナなら、朝飯でも作ってるんじゃないか?」
「そっか……」
大声に顔を顰めながら言うと、目に見えて肩を落とすパム。
そんなパムを見て、ベリドは朗らかな声で笑った。
相変わらず元気な子供達である。羨ましいというか、その声を聞いていると元気を分けてもらえるというか。
口をゆすいで地面へ吐き捨てると、その元気で今日一日が始まったのだと実感できた。
「明日は、飯より先に洗濯物でも干せって言っといてやるよ」
「ほんと!?」
「ああ。だからさっさと学校に行って、まじめに勉強してこい」
「うんっ」
たったそれだけで元気になったパムが、学校へ向かって駆けていく。
「ちょっと待ってよ!? 置いていくなっ」
ペコリとお辞儀をして、ベリドもパムの後を追って駆け出した。
子供達を見送ってから、歯磨きに使った道具を片付ける。
それなりに仕事をして、のんびりと近所付き合いをして、だらだらと毎日を過ごす。
勇者を辞めてから十三年。今年で三十一歳になる。
それが、俺の日常になっていた。




