第十九話「ジェシカの噂1」
「ユウヤ・シンドウ様。それでは、こちらを」
そう言って細かな彫刻が施された豪奢な机の上に、革袋が重い音を立てながら置かれた。
革袋は大きく膨らんでおり、その音からも中身が相当詰まっていることを伺わせる。
ただ、この場で中身を確かめるのも厭らしいだろう。
確かめたい欲求を我慢しながら、その革袋を受け取った。
「まいどあり。勇者を辞めてからはどうにも懐が寂しくてね」
「いえいえ。こちらこそ、生徒を助けていただいて……」
言いながら、額から流れる汗をハンカチで拭く男性――この騎士学校の校長だ。
恰幅の良い体格に、上質な布で作られた修道士を連想させる黒い服。
髪は白が混じり始めた金髪で、先端が美しい曲線を描く髭。
騎士学校の校長だが騎士らしくない体格の男性は、安堵の息を吐きながら新しく流れた汗を拭いている。
そんな彼を横目に、周囲へ視線を向けた。
校長室というのは異世界も地球も変わらないというか、高級そうな机やテーブル、壺や絵画。
そして、歴代校長の顔が描かれた絵が飾られている。
「もし死人が出ていたら、生徒の親からどれだけの苦情が来ていた事か」
「本当です。入学直後の野営訓練は恒例なのですが……来年からは、もっと安全に気を配ります」
「それがいい」
経営者の経験など無いのでなんとも言えないが、恒例とか昔からのしきたりとか、色々と大変というか面倒なんだろうなあ、と思う。
「ま、俺としてはこうやって報酬を貰えるだけでいいさ。こっちこそ、正式な依頼でもないのにこんな大金を貰って悪い気がするくらいだ」
手の平に余る大きさの革袋を軽く握りながら言うと、校長はハハハと乾いた笑みを浮かべた。
こういうのって経費とかで落ちるのだろうか。
校長の反応から、もしかしたらポケットマネーとかで出しているのではと思い……それでも、貰う金額を減らすつもりはない。
キマイラなんてデカブツに襲われて、怪我もしたのだし。
それなりの額を貰わないと割に合わない。
「それじゃあ、また何か面倒事があったら……今度は正式に依頼してくれ」
「は、はあ。あ、いや、もう帰られるので?」
「あまり居ない方が良いだろ? 勇者を辞めた人間が関わっているなんて、それこそ貴族の親が黙っていないと思うけどな」
魔物との戦いから逃げた『勇者』。魔物を怖がる『勇者』。
他にもたくさんの噂がある俺だ。
そんな人間が関わっている学校になんて、体面を気にするような貴族からすると通わせたくなくなるだろう。
まあ、つまり。来年の入学希望者が減ったり、俺の事を知って子供を退学させようとする親が出てくるかもしれない。
入学するのもタダではないが、それよりも体面を気にする大人が多いのだ。この世界では。
「ぅ……そ、その通りでございます」
それを気にしてか、俺に悪いと思いながらも校長は頷いた。
また、額から流れた汗をハンカチで拭う。
「ですが、その。もう一つ……今度は正式な依頼で、『何でも屋』のユウヤ様に聞いてほしい事が」
「依頼?」
さっさと帰ろうと思って腰を浮かせたところで、校長がそんな事を言った。
こっちは年中閑古鳥が鳴いている『何でも屋』。
依頼を貰うだけなら無料だし、つい先ほど報酬を貰った手前、何となく断り辛い気持ちもある。
同時に、面倒な堅物の大人に関わりたくないという気持ちも沸いたが、面倒事など今更だ。それよりお金である。
浮かそうとしていた腰をソファへ下ろすと、校長は隠す様子も無く安堵の息を吐いた。
「実は、その。いま、学校内で妙な噂が広がっていまして……その噂が真実かどうか調べてほしいのです」
「噂あ?」
おずおずといった様子で出た言葉を、オウムのように言い返してしまった。
なにせ、噂だ。
噂。
その内容が事実か偽物かなどを問わずに言い交わされている与太話。ゴシップ。
学校の長、校長が口にするには……なんともお粗末というか、現実味がないというか。
「そういうのは、教師が調べるような話じゃないのか?」
「それはその、そうなのですが。内容が内容で……広まったのは、昨日の事件が原因のようで」
校長がパンと手を叩くとドアが開き、騎士学校を訪ねた際にこの部屋まで通してくれた女性秘書が現れた。
その手にはトレイがあり、その上に高級そうな瓶とグラスが二つ。そして、チョコレート菓子が乗っている。
「仕事中なのでお酒ではありませんが」
「ああ、いや」
どうやら、高級なのは瓶だけで、中身はただの水らしい。
なんとも現実的な理由に苦笑して、美人秘書に水をお酌してもらう。
「それで、噂っていうのは?」
「調べていただけるので?」
「内容次第だ……まあ、菓子も貰うしな」
そう言って、チョコレート菓子の一つを摘まんで口に含む。
甘みはあまり無い。どちらかと言うと、頭を冴えさせるために苦みを強めている印象を受ける味だ。
校長が甘党ではないのだろう。
俺が食べた後、校長も一つ、二つと口に含んでいく。
「それが、騒動に巻き込まれた生徒の一部が『先日の魔物が一人の生徒を追っていた』と言い出したようで」
「……魔物が生徒を追っていた?」
言われて、校長の目を見返す。
嘘をついている様子はない。まあ、噂なのだからそれほど信じていないのだろう。
「はい。最初、生徒達はいくつかの班に分かれてテントを張っていたらしいのです。皆で和気藹々と、楽しく」
最後のほうは関係なさそうだな、と聞き流しながら先を促す。
「そこを魔物に襲われ、混乱して生徒たちは散り散りに逃げたらしいのですが……あ、教師の皆さんは生徒を守ろうと必死に抵抗したそうです」
「それで?」
「その時、その、噂の渦中にある生徒とは別の方向へ逃げていた生徒や教師達は皆無事に、王都へ戻ることができたそうなんです」
あの時、北門に居た一団だろう。
「じゃあ、なにか。その、魔物に追われていた生徒が居たから、あそこに居た連中は無事に嘔吐へ戻れたって事か?」
「はい。その生徒が機転を利かせて、怪我をした教師を助けるために別方向へ逃げたのだという話です」
「…………」
なんとも眉唾物の話というか、信ぴょう性が薄いというか。
そもそも、実戦経験の無い生徒が魔物に襲われて、そんな冷静に場を見る事が出来るのだろうかという疑問が湧く。
「騎士学校だろう? 魔物がどういう生態かなんて授業で習うんじゃ……ああ、まだ新入生だから習っていないのか?」
「いえ、魔物の生態など子供でも知っています……人を襲う。特定の誰かではなく、全人類を」
「そうだな。その通りだ――俺もそう思っているし、きっと他の騎士も、俺以外の『勇者』もそう思っているだろうよ」
それが魔物だ。
そういう習性、本能。人の負の感情が受肉したバケモノの本質。
そんな魔物が特定の誰かを狙うというのは、今まで聞いた事が無い。
「根も葉もない噂だろう?」
「はい。教師も信用していませんし、生徒の殆ども……ですが」
「ですが?」
「この年頃の子供というのは、なんといいますか、そういう噂に行動が左右される事もありまして……」
「ああ」
まあ、つまり。
その『特定の生徒』が噂の所為で困っているから、その真相を確かめてほしいという事か。
聞く限りだと怪我をした教師を助けるために行動したのだから、校長としても何とかしてやりたいのかもしれない。
それにしても、噂ねえ、と。
確かに、こんなのは教師が動くのも難しいか。
噂の為に教師が動いたってだけで、噂を流している生徒がまた変な事を吹聴するかもしれないし。
なら、学校とは関係ない、俺のような部外者が動くというのが一番目立たないだろう。
「それくらいなら」
確かめるにしても、その生徒を魔物が居る場所へ連れて行ってみればいいだけだし。
本当にその生徒だけが襲われたら真実。俺も一緒に襲われたら嘘。
そう、簡単に考えておく。
噂の内容は信用していないが、仕事を受けるならそれなりに真面目にするのが俺なのだ。と、心の中で自分を持ち上げてみる。
「それで、報酬の方はどうする? これと一緒か?」
そう言って、先程受け取った革袋を軽く持ち上げる。
校長は首を横に振った。
「いいえ、いいえ。まさかそのような――元とはいえ『最高の勇者』と呼ばれていたユウヤ様へ依頼するのに、そのような事は」
その言葉に肩を竦める。
「今はただの『何でも屋』だよ。報酬さえ貰えて、依頼内容がマトモなら何でもする『何でも屋』だ」
もう一つ菓子を貰う。
「それで、その噂になっている生徒の名前は?」
「今年入学したジェシカという少女でして」
……あれかね。
何か、妙な縁でもあるのかね。彼女と。そう感じずにはいられなかった。