第十八話「騒動の後に2」
傷口を消毒されると、その染みるような痛みに俺は顔を顰めた。
そんな子供のような反応をする俺を無視して、カルティナの細く長い指はキマイラの強靭な顎で噛まれた傷口を針と糸で縫っていく。
痛みには慣れているけど、針の鋭利な先端が皮膚を通っていく感覚というのはどれだけ経験しても慣れる事が無い。
子供の頃から注射とかが苦手だった。こう、失敗したら血がいっぱい出るんじゃないかとか、悪い方向に考えが向いてしまう。
傷口を見ないように、窓の外へ視線を向ける。
いい天気である。
青い空、白い雲。
さっきまでの喧騒など無かったかのように穏やかな空。景色。
いつもは見慣れて何も感じないそんな風景も、今では輝いて見える。
「ユウヤ、力を抜いて。針が通らないわ」
「ん? あ、ああ」
力を抜いているつもりだったけど、どうやら針を怖がって腕に力を込めていたらしい。
言われて、力を抜く。
深呼吸をして、頭の中では全く別の事を考えるようにする。
そう、例えばさっき助けた学校の生徒達。
教師まで入れれば十人くらい助けたんだから、結構な額を報酬としてもらえるかもしれない。
そうすれば新しい服も買えるし、家の中の家具なんかを新調できる。
……と言っても、別に何か欲しいものがあるわけじゃないけど。
「ぅひ」
「痛かった?」
「……いや、別に」
痛みではなく、皮膚の下に異物が入り込む感覚に変な声を上げてしまった。
恥ずかしくて、そっけない態度をとってしまう。
「ほら、力を抜いて」
「……抜いてるだろ?」
傷口が縫われていく。針と糸が皮膚の下を通っていく。
こう、背筋がぞわぞわするというか、なんか変なモノが駆け上ってくるというか。
「落ち着かない時は、嫌な事と無関係な話をすると落ち着くと聞いた事があるわ」
「……そうか」
もどかしい様な、気色悪い様な。なんとも言葉にし辛い感覚に、耐え切れずに口を開く。
けれど縫合と無関係な話と言われてもとっさには思い浮かばない。
しょうがないので、最初に思い付いた事を聞くことにした
「最近、ロシュワの店はどうだ?」
「どうだ……というと?」
「ちゃんと仕事をしているとか、元気にやっているとか……」
こいつの出自を考えると雇ってくれているロシュワにどれだけ感謝してもし足りない。
そして、この性格である。
男連中に人気な事や仕事を淡々とこなす性格だというのは知っているけど、本人の口から現状をどう捉えているか聞いた事はなかった。
ふと気になったというか、頭に浮かんだので聞いてみる。
「いつも通りよ」
「……俺はいつもロシュワの店に顔を出しているわけじゃないから、いつも通りだとわからないんだが」
「そうね……」
しばらく思案するように、カルティナの手が止まった。
見ると、傷口に針が刺さったまま――見なきゃよかったと後悔しながら、また視線を窓の外へ向ける。
「店長もサティアも、よく気にかけてくれているわ」
「そうなのか?」
「店長は私が嫌だと思う客は遠ざけてくれる。サティアはよく相談に乗ってくれる」
「……お前が嫌だと思う相手とか、居るのか?」
初耳だった。
興味があったので聞くと、カルティナは少し――本当に少しだけ、雰囲気を柔らかくしながら傷口を縫合する作業を再開する。
「酔ったふりをして身体を触ってこようとする客は嫌ね」
「……」
「避けるのは簡単だけど客だから追い出せないし……そういう男は、店長が相手をしてくれるの」
「ふ、ふぅん」
いったいどこを触ろうとするのだろう、その男は。
とりあえず、あとでロシュワの店に行ったら聞いてみ――。
「触られた事はないわ」
少し物騒なことを考えそうになっていると、カルティナがそう言った。
「嫌だから」
「そうか」
「嫌な相手から触られるのは、嫌だから」
「まあ、お前がそんなに思う相手なんだから、そりゃあ嫌だろうな」
その言葉に一応安心しながら、それでもやっぱり後でロシュワから話を聞いておこうと思う。
間違いがあってからは遅いのだ――うん。
まあ、あれだ。
相手の男の方が危険だし、と思っておくことにする。
「その酔っ払いのことは後で聞くとして、サティアさんには何か相談しているのか?」
「ええ、ユウヤの事を」
「俺?」
俺の何を話しているのだろうと少し興味を惹かれて聞くと、カルティナは小さく頷いた。
「どうしたら真面目に仕事探しをして働いてくれるかとか、家の掃除を手伝ってくれるかとか、脱いだ服をきちんと片付けてくれるかとか」
「…………そ、そうか」
「お酒の量を控えさせるにはどうしたらいいか、間食をやめさせるには――」
「分かった。悪かった。今度から気を付けるよ」
「そう言って生活態度を改善した記憶はないけれど」
「……今度は頑張ります」
溜息を吐いて、そう口にする。
とにかく、今日からは酒の量を減らして、夜中に間食するのはやめるようにしようと心に決める。
「それと、サティアからは料理を教わっているわ」
「おう、頑張れよ」
「ええ」
こいつの料理の腕、というか味は知っている。
けれどそれを止めさせようとは思わない。
こいつなりに――カルティナなりに、変わろうと、成長しようとしているのだ。それを知っているから、好きなようにさせてやりたい。
まあ、料理を食べるくらいはしてやれる。というか、俺にできる事なんてそれくらいしかないけど。
そうやって話していると、気が付けば傷口の縫合は終わっていた。
ただ、カルティナが右腕を握ったままだったのでその事に気付かず、俺はずっと歯を食い縛ったままだった。
「きっと」
「……ん?」
いつの間にか終わっていたことに軽く感動しながら、カルティナのほうを見る。
彼女はじいっと縫い糸が目立つ傷口を見ていた。
「貴方のそういう所を、人は可愛いと思うのでしょうね」
「…………」
「強大な魔物を屠ってきたのに小さな針の先端を恐れる――顔を青くして、震えていたところとか」
「凄く嬉しくねえ」
そもそも、男は可愛いと言われても喜ばない……と言うとカルティナが包帯を巻いてくれる。
「そうなの?」
「そうだよ」
そのまま言葉が途切れる。
しばらく無言のまま、包帯を巻かれる音だけが部屋に響いた。
その細くて冷たい指が腕に触れるたびに、僅かなくすぐったさを感じてしまう。
「お前こそ、こんな傷口を見ても眉一つ動かさないんだから、可愛くないな」
「そう?」
「普通は、こんな傷を見たら驚いたり怖がったりすると思うけどな」
言うと、包帯を巻く手が止まった。
「そういうものかしら」
止まったのは一瞬。また、包帯を巻き始める。
「でも、それが心配というものなのね」
「さあ……どうだろうな」
「だったら私は、ユウヤを心配しないわ」
……それはそれで寂しいなあ、と。
まあ、カルティナに心配されるというのも今更だ。むしろ、心配顔で包帯を巻かれてもこっちが困ってしまう。
十年以上も一緒に暮らしていて、そんな事など一度も無かったのだから。
包帯を巻き終って、ようやくカルティナが腕から手を離してくれる。
具合を確かめるように右腕を大きく回すと、傷口が少し疼いた。それくらいだ。
「ん――」
「この程度の傷で、貴方は死なないでしょう?」
礼を言おうとすると、先にカルティナが口を開いた。
顔を向けると、相変わらずの無表情。何を考えているか分かり辛いけど、まあ、死なないと信頼されている……と前向きに考えておく。
「死ぬような傷でもないのに、心配する必要はないわ」
「そりゃそうだ」
カルティナらしい言葉を聞いて、声に出して笑ってしまった。
「以前の貴方は、もっと酷い傷を負っても生きていたもの」
「……勇者をやっていた頃と一緒に扱われてもなあ」
ずっと、前に立っていた。
一番前で、一番多くの魔物を殺そうと頑張った。
俺はそうすることで、沢山の人を助けられると、救えると思っていたから。
だから、一番前で、一番多く戦って……一番沢山の傷を負っていた。
その頃を知っているカルティナからすると、確かにキマイラ――獅子の頭に噛まれた傷など掠り傷程度でしかないのだろう。
「それじゃあ、私は仕事に戻るわ」
「ああ、うん。手当て、ありがとうな」
結局、それだけ。
そりゃあ心配されたかったわけではないけど、こうも淡白だとそれはそれで悲しいものがある。
――心配されないっていうのも、寂しいもんだ。
治療道具を片付けているカルティナをぼんやりと眺めながら、用意してもらった新しい服に袖を通す。
こちらにお尻を向けているので、黒のスカートに包まれた大きなお尻が左右に揺れている。
……しばらく眺めて、何をしているのだろうと自虐の溜息。
「まあ、騎士学校の生徒を助けたんだし。もしかしたらそれなりに報酬を貰えるかもしれないから、そしたら何か美味い物でも食うか」
「ダメよ」
言うと、すぐに否定された。
「次の収入が何時になるか分からないのだから。節約しないと」
「……本当、所帯じみてるよな、お前」
「そうやってユウヤがだらしないから、買い物を安く済ませる方法や生活態度の事を店長達に相談しているの」
「さよで」
それだけを言って、カルティナが立ち上がる。
……さっき話していたような内容以外にも、相談しているのかあ。
多分、しているんだろうなあ。
今日の事も相談するだろうし、もしかしたら今までの生活態度も相談されているのかもしれない。
そう思うと、急に気恥ずかしくなってきた。
「それと」
気分的には、母親に部屋の掃除をされてエロ本を見付けられた時のような気分?
多分、全然違うけど。
「心配はしていないけど、貴方が生きていてよかったとは思っているわ」
「あん?」
ショックでぼーっとしていたので、その言葉を聞き逃していた。
何か言ったかと呟くと、もう部屋にカルティナの姿は無い。
遠くでドアが閉まる音。仕事へ行ったのだろう。
「はあ……」
情けない。格好悪い。
気恥ずかしくて、座っていたソファへ顔を埋めるように倒れ込んだ。