第十話「カルティナ1」
「おはようございます、ユウヤさん」
ジェシカの依頼を受けた翌日の朝。
いつものように庭で歯を磨いていると、朝の挨拶をされた。歯ブラシを咥えたまま、挨拶をしてくれた人の顔をまじまじと見てしまう。
いや、朝の挨拶くらいなら近所の人達もしてくれるけど、そう挨拶してくれたのがつい最近見た顔だった事に驚いてしまったのだ。
「おふぁよう、じぇひか」
「……歯ブラシ、抜きません?」
苦笑いと共にそう言われ、うがいをしてからもう一度視線を合わせる。
「おはよう、ジェシカ」
「はい。おはようございます、ユウヤさん」
先日も見た、青を基調とした騎士学校の制服姿。今日はその手に、革製のカバンが握られていた。
そして、髪には昨日見付けた一対の十字架を模した髪飾りが陽光を弾いて煌めいている。
低い身長と童顔によく合う、可愛らしい髪飾りだと思う。
「よく似合ってるな、それ」
「はい?」
「髪飾り。頑張って探した甲斐があったよ」
そう言うと、ジェシカは一瞬きょとんとした後、嬉しそうに笑って髪飾りを触った。
なんとも無邪気な笑顔である。
そんな笑顔を見ていると、若いなあ、という感想が頭に浮かんでしまい、今度は自分が歳をとったなあと思わされてしまう。
「十五歳か……」
「? どうかしましたか?」
「いや、うん。なんでもないよ」
自分が歳をとった事に落ち込んでいると口にするわけにもいかず、曖昧に笑いながら視線を逸らした。
ジェシカはそんな俺をしばらくの間不思議そうに眺めて、そして改めて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。見付けてくれて」
「ああ、いいよ。仕事だからな。……それで、どうしてここに?」
「私の家。あそこなんです」
そう言って指差したのは、俺の家からでも屋根が見える場所。俺の家からは離れているけど、遠いというほどではない距離。
近所の地図を頭に思い浮かべると、たぶん歩いても数分といった距離だろうと予想できた。
おう、と気の抜けた声が漏れた。
「……思っていた以上に近いな」
「気付いてなかったんですか?」
少し呆れたような声。
「遊んだ時の帰り道。偶にユウヤさんの家の前を通った事があるんですけど? ユウヤさん、パム達と話していて気付かなかったけど」
「……そうだっけ?」
「おはよう、ユウヤ兄ちゃん」
「おはようございます、ユウヤお兄ちゃん」
昨日の朝の事を思い出そうとすると、元気な挨拶が鼓膜を打った。その大きな声に顔を顰め、声の主へ視線を向ける。
「おはようパム、ベリド。相変わらず元気だな」
「まあね。それより、なんで兄ちゃんの家にジェシカが居るの?」
俺の嫌味など気付かず、ベリドが聞いてくる。
二人の視線は、俺と接点がないはずのジェシカの方へ向いていた。
「昨日、仕事を受けたんだよ。んで、そのお礼を言いに来てくれたんだ」
「兄ちゃんに? 僕達の依頼は受けてくれないのに」
「お前らの依頼は遊ぶから隣町まで連れて行けとか、魔物との戦い方を教えろとか、そんなのだろうが。親父さんに怒られるんだぞ、あれやると」
子供と言うのは好奇心旺盛というか、考えなしというか。
魔物は悪者だから戦いたいという気持ちが人一倍強いらしく、パムのような男の子となるとそれが顕著だ。
それに付き合うベリドも女の子なのに男顔負けに元気ということもあって、よく俺に魔物の倒し方を教えろとか言ってくる。
そしてそれを聞いた親は俺に怒るのだ。子供になんて危ないことを教えているんだと。俺は何も教えてないけど……。
王都を囲う壁の外に出たら危険だからと付いて行って魔物に襲われると、俺の動きを見て覚えるのだ、このちびっこどもは。
頭が痛い話だが、本当に『戦う』事に関しては俺より才能があるのかもしれないと偶に思う時がある。
その影響だろうか、この二人が野で生きる方法、サバイバル技術や魔物と遭遇した際の戦い方や生き残り方を教える傭兵学校へ入学したのは。
そんな事を考えていると、後ろでドアが開く音が聞こえた。振り返ると、洗濯物を籠に入れたカルティナが丁度出てきたところだった。
「おはようございます、カルティナさん」
「おはよう、カルティナ姉ちゃん」
「おはようございます、お姉ちゃん」
子供三人からの挨拶に、カルティナは洗濯籠を抱え直すと、微かに頷いて応える。
三人の興味が俺からカルティナへ移った事を確認して、歯磨きを再開する。
「おはよう、三人とも。パムとベリドのことはユウヤから昨日聞いていたけど、ジェシカも来たのね」
「昨日のお礼に。……あの時はありがとうございました」
「いえ。仕事だから気にしなくていいわ」
カルティナの言葉に、ジェシカ嬢ちゃんが噴き出した。
「ユウヤさんと同じような事を言うんですね」
「そうなの?」
カルティナの視線がこちらを向いたが、歯を磨いているので返事をする事が出来ない。
何となく気恥ずかしかったので、誤魔化すように肩を竦めておく。
「三人とも、これから学校でしょう? 勉強、頑張ってきなさい」
「うん、わかった」
「はーい」
「ジェシカも。行ってらっしゃい」
「はい」
そうして、三人を見送ってからカルティナが洗濯物を干し始める。シーツや昨日着た服だ。さすがに下着は室内干しである。
「手伝うよ」
「ええ」
歯磨きを終えてから言うと、カルティナの隣に立って干すのを手伝う。
自分の部屋着を干しながら、チラリとカルティナの横顔を盗み見る。
もう、初めて会ってから十三年も過ぎた。
人間からすると長い時間だけど、それをあまり長い時間のように思わないのは――カルティナという女性が、あの時からあまり変わっていないからだろう。
表情も、仕草も、感情の乏しさも。
子供達と話しても、俺と話しても、職場の客と話しても変わらない。
……それに慣れたと言えば、悪い印象を与えてしまうだろうか。
洗濯物を干す手を止めないまま何かを言おうかとした時、遠くから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。視線を向けると、ジェシカ達が手を振っていた。
「お前は、あんまり変わらないな」
「そうかしら? 私としては、随分変わったと思うけれど」
「……そうか?」
まあ、そうなのかもしれないな、と思う。
ずっと一緒だった。十三年、ずっと一緒に生きてきた。
だから、僅かな変化に気付けていないのかもしれない。そう思いながら、息を吐く。
「もう十三年ね」
カルティナが、ぽつりと呟いた。
十三年。カルティナと出会って、俺が『勇者』を辞めて過ぎた時間だ。
「早いもんだ」
「ええ。貴方は随分と年を取ってしまったわね」
「あの時は十八で、今はもう三十過ぎだからな」
若かった、と思う。
人のため。誰かのため。何かのため。
そうやって『名前も知らないナニカかのため』に戦うことが当たり前だと思っていた頃を思い出すと、笑うしかない。
声に出さないようにしながら内心で笑い、綿のチュニックを干していく
二人で暮らしているのだから、洗濯物自体はそう多くない。この調子ならすぐに終わるだろう。
そう考えながら俺は高くなり始めた太陽の眩しさに目を細めて、新しい洗濯物へ手を伸ばす。
手に取ったのは、黒のワンピース。
カルティナがいつも来ているメイド服――ああ、そういえば。
「お前がこの服を着るようになってから、もうずいぶんと長いな」
「そうね」
話題に出たからか、それとも自分の服だからという理由か。俺の手からワンピースが取り上げられた。
「サティアが昔、用意してくれた服」
「お前が珍しく、その服を着たいって言ったんだよな」
「だって貴方。この服を着て仕事をしているサティアをいつも目で追っていたでしょう?」
「……そうだったか?」
本気で覚えていなくて呟くと、カルティナは迷いなく頷く。
もう何年前だ……十年以上前だろう。よく覚えているもんだと感心してしまう。
「だからこの服が欲しくなったの」
「なんで?」
どうしてそこで、その思考に至るのか。
その理由が分からなくて聞くと、カルティナは「さあ?」と迷うことなく呟いた。
「昔も今も、私はまだその答えが分からないわ」
けれど、どうやらそれほど気に留めていないのか。
カルティナの口調も雰囲気もいつも通り。落ち込んでいる様子はない。
そうして何となく昔話に花を咲かせていると、すぐに洗濯物は干し終わってしまった。
洗い立ての服とシーツが風に揺れ、視界を覆う。
先ほど教えてもらったジェシカの家、その屋根も見えなくなってしまった。
「私は、変わる貴方が羨ましい」
視界一面の洗濯物を揃って眺めていると、カルティナが呟いた。
「そうか? 三十を過ぎたら、後は老いていくだけだぞ」
「それも成長でしょう?」
その声は……言葉にするなら、多分、羨望を孕んでいるのだと思う。
いつもと同じ平坦で、感情の波が感じられない声だけど、何となくそう感じた。
「私は、人間を知りたいの。成長して、老いて、変わっていく……ユウヤという人間を」
「物好きだな」
「ええ」
カルティナは、洗濯物を入れていた籠を片付けながらそんな事を言ってくる。
「そんな私を助けた貴方も、物好きなんでしょう?」
「そうかもな」
からからと笑うと、カルティナは珍しく口元を僅かに緩めた。笑み、と言うほどでもない変化。
けれど、足取り軽く家へ戻っていくその後ろ姿は、どこか楽しそうに見えた。