第一話「ユウヤとカルティナ」
どうしてこうなったのだろう。
俺は頭の中で何度も呟いた疑問を再度呟いて、疲労で止まってしまいそうになる足を必死に動かして前に進む。
頭上を見上げれば太陽の明かりを遮るほどに大量の緑葉があり、辺りは昼間だというのに薄暗い。
現代日本ではあまり見掛けない深い森。
太陽の光が届かないから地面はぬかるんで歩き辛いし、人の手が入っていない森は木々が生い茂って酸素が濃すぎる。
科学によって汚されていない酸素は少量なら心地良さを感じるくらい清廉なものだが、濃すぎると穢れた空気に慣れている肺が苦痛すら覚えてしまうほど。
まあ、この世界へ召喚されて相当な時間が過ぎたので、綺麗な酸素に苦しむような事はないのだが。
息を乱しながら汗を掻いているのは、純粋にただの運動不足である。
「けほっ、けほ――っ」
渇いた喉ではうまく呼吸がする事が出来ずに咽てしまった。
腰に吊っていた動物の胃を干して作られた水袋を手に取って、その中身の三分の一ほどを一気に飲み干す。
飲み口が小さく袋状なので勢いよく傾けると中身が一気に流れ出し、その全部を飲み込めずに顎を伝って服を濡らした。
清潔感のある紺色のチュニックと濃い黒色のズボン。服の上から木の枝などで怪我をしないよう厚手のマントを羽織り、腰には短剣の鞘と水袋が二つだけ。
履いているのはこの世界では一般的な革ブーツ。手にも怪我をしないように革のグローブを嵌めていると、服の中に熱が籠って余計に熱さを感じてしまうのも足が鈍る一因だろう。
同居人からは地味な色合いだと言われるが、汚れが目立たないのでそれなりに着ている意味もあるのだ。
水の冷たさを心地良く感じながら渇いた喉が潤う感覚にひと心地つくと、歩くのに邪魔な草木を手に持っていた短刀で切り払った。
「ふう」
しばらく歩いて、水袋の口を締めるとまだ僅かに乱れている息を吐く。
いまだ、目的地は遠い。
すると、視界の先。
薄暗い森の中で自分が発する音以外の、草木が揺れる音が耳に届いた。
ガサ、と。
遠くで音が聞こえる。
それがだんだんと近付いてくる。
その音の主を待っていると、視界の先に薄暗闇の中でもよくわかる白い服を着た女性が現れた。
いや、正確には白い服ではない。
白いエプロンだ。
それと、恐ろしいことにその右手には俺の短刀とは比べ物にならない、大きな鉈が握られていた。
薄暗闇の中でも存在感を放つ鈍い刃を持った女性は、深い森の中を歩いたにもかかわらず僅かも呼吸を乱すことなく俺を見つけると歩み寄ってきた。
視界の端で、刃物が上空から届く僅かな光源を反射して鈍い輝きを放っている。
その刃が濡れているのは、森を歩く際に邪魔な草むらなどを鉈で切り開いたからなのだが、暗がりだと別の液体で濡れているように錯覚してしまいそうになって少し怖く感じてしまった。
「ここに居たのね、ユウヤ」
名前を呼ばれて片手を上げると、その女性は特に表情を変化させる事なく、けれど小さく溜息を吐く。
静かな森の中なので、その溜息がしっかりと俺の耳に届いた。
「疲れた。少し休憩しよう、カルティナ」
「……つい先ほど、休んだばかりだと思うのだけど」
ワザとらしくひぃひぃと息を乱すと、白いエプロンを纏った女性――カルティナがまた小さな溜息を吐いた。
「こっちはもう三十過ぎのおっさんなんだ。少しは優しくしてくれよ」
「貴方の場合は、年齢よりも日ごろの運動不足が原因だと思うけど」
感情の起伏が感じられない平坦な声で言われ、肩を竦めてしまう。
「昔はあんなにも精力的に動いていたのに」
「人間、寄る年波には勝てんさ」
まだ二十歳程度の女性が『昔』という単語を口にするのも変な話なのだが、まあ確かに、この女性が知っている昔の俺は精力的だったのだろう。
それを引き合いに出されて、けれど怒りも呆れも諦観も浮かばずに息を整える。
昔は昔、今は今だ。
それに、この女性も俺を悪く言うために昔の話題を出したわけではない。
ただ単純に、彼女が知っている『昔の俺』と『今の俺』が掛け離れ過ぎてつい口に出してしまうのだ。
だから、やはり彼女の表情に変化はなく、どこか人形のような無表情で俺が呼吸を整えるのを待っている。
薄暗闇の中に浮かぶ無表情というのはそれだけで怖いが、それが十人が十人『美人』と答えるような美女なら尚更怖い。
「呼吸は整った?」
「ああ。それじゃあ、もう少し歩くか」
「頑張りなさい。あと少しだから」
また、カルティナが先導する形で歩き出す。
少し休んで疲労が抜けた足にもう少し頑張れと内心でエールを送りながら、そのあとについていく。
目的地は――本当にすぐそこだった。
といっても、体感で十数分は歩いたのだが。
ようやっと森を抜けると、僅かに傾いた位置にある太陽が今は昼過ぎであることを教えてくれる。
そして、視界一面に広がる緑の大地。
雲を突き抜けるほどに高い山、太陽の光を反射して宝石のように煌く広い湖、はるか先には空と大地が重なる地平線。
視界一面に広がった、まるで絵画のように美しい景色に一瞬だけ視界を奪われ、ここまで息を乱して歩いてきた事も忘れて感嘆なる思いのすべてを息に乗せて吐く。
きれいだ、と。
ただただ、純粋にそう思う。
現実にはあり得ないほど、美しく、そしてどこまでも広がる世界。
草木の緑と空の青。
そして、遠目には分からないが沢山の花や木々が彩る大地。
人工物はその美しい世界からすると、ほんの一部だけ。
眼下にある、高い石壁に囲まれた都。
この世界の住人達が『王都』と呼ぶ、均等な五芒に作られた街並み。
そしてその『王都』から延びる街道を行く馬車や、その先にある木造の家が立ち並ぶ小さな村々。
その長閑な風景は現代地球ではありえない。
少なくとも、俺が住んでいた日本には無い光景と言えるだろう。
一切の機械が存在しない世界。
しばらくして、涼やかな風が吹いた。
その風で、今自分がその美しく綺麗な世界を見下ろせる場所――高い位置にある崖の上に立っていることに気付く。
視線を遠い世界から近くの足元へ向けると、そこには白く可憐な花が一面に咲いている。
先が崖なのでそれほど広くはなく、けれどその背後にある美しい世界を彩るには十分過ぎる可愛さだ。
「やっと着いた……」
けれど、そんな世界に感動したのも一瞬。
疲労で悲鳴を上げていた体は休息を求め、目についた手ごろな大きさの岩へ歩み寄ると「どっこいしょ」と言って腰を下ろし、そのまま腰の水袋を手に取って中身の半分ほどを飲む。
そして――太陽の下で遠くを見ながら立ち尽くす、ここまで一緒に歩いてきた女性へ視線を向けた。
「どうした、カルティナ」
「いえ」
彼女はそう口にしながら、けれど遠くを見たまま動かない。
流れる汗を冷やす風が、彼女の足首まである長いスカートを揺らしている。
暗い森の中ではわからなかったその姿を、何とはなしに見る。
年の頃は二十歳前後。どこか冷たさすら感じる雰囲気に、同じく怜悧さを放つ切れ長の紅い瞳。気丈な印象を思わせる人形のように整った美貌。
雪のように白い肌は白磁の人形を連想させ、膝裏まで伸びた長い栗色の髪は邪魔にならないよう三つ編みに纏められ、白いレースのリボンを使って結ばれている。
身長は高い。百八十はある俺と並んでも肩に頭が届くほどだし、白いエプロンの紐で絞られたウエストの位置も高い。
パフスリーブの肩口から伸びる腕はスラリと細く、長い。詰め襟から覗く首筋はそれだけで色香を匂わせ、黒いワンピースに包まれた肢体はまっすぐ伸ばされたまま僅かも揺るがない。
スカートを押し上げるつんと上を向いた形の良いお尻は大きく、足首まである長めのスカートを揺らす脚を包むのは革のブーツ。
そんな彼女が風に揺れる長い髪の上に載せているのは、フリルで彩られたホワイトブリム。
……いつ見ても完璧なメイド服姿である。
ただ、惜しむらくはその胸だろう。
エプロンの紐が結ばれている事でウエストの細さが際立って胸元を強調するようなデザインだというのに、強調するべき胸が無い。ぺったんこ。
黒のワンピースと白い肌のコントラストも美しいのに、どうしてもそこに目が向いてしまう。向くようにデザインされているのだから当然なのだが、だからこそ勿体無いと思ってしまうのだ。
「何を見ているの?」
「いいや。何も無いなあ、と。お前は何を見ていたんだ?」
「……。別に、なにも」
俺の言葉をどう思ったのか。
カルティナはしばらく黙った後、そう言って首を横に振ると長いスカートが汚れないように手で押さえながら膝を曲げて足元に咲いている白い花のいくつかを手折った。
一瞬向けられた視線があまりに冷たく感じたので、それとなく視線を逸らして明後日の方を見る。
今日も、空がとても綺麗だった。
「これで、お仕事は終了です」
「そうだな」
その声に視線を戻す。
たった数輪の花を手に入れるために半日、ひぃひぃ言いながら暗い森の中を歩く。
なんとも割に合わない仕事だと思うが、しょうがない。
それが『仕事』なのだから。
「しっかし、こんな花を数本取るだけでこんなに疲れるとはなあ」
そう口にして水袋をカルティナへ投げ渡すと、彼女は俺が使った後など少しも気にせず水を口に含んだ。
「貴方ならもっと簡単にお金を稼げるでしょう? こんな人気のない場所まで歩かなくても、王都の近くで魔物でも殺せばいい」
「勘弁してくれ」
そんな物騒な事を言うカルティナへ、気の無い態度で手を振って応える。
「剣を手に取って殺し殺される毎日なんて、もう懲り懲りだ」
「そう」
「そういうのは救世主とか英雄とか――そう呼ばれる『勇者』がやってくれるさ」
――『勇者』。
御伽噺で語られるような、正義の存在。
人を救い、魔を倒す。
究極の善性。人を導く英雄であり、世界を救う救世主でもある。
俺のように『異世界』からこの世界に召喚された存在は一概にそう分類されるが……まあ、どうでもいい事だ。
なにせ、この世界に居る『勇者』は一人じゃない。
正確には数えていないし、知っているのは王都に住んでいる偉い人……その中でも一握りくらいじゃないだろうか。
俺が知っている限りだと、百人くらい。
俺はその、百分の一でしかない。
異世界に召喚されただけで、特別という訳ではない。
命を奪うのは辛いし、少し動けば息が乱れるくらい疲れてしまう。
そんな、ただの人間。普通の人間でしかない。
その『百分の一』が魔物退治をしないくらい、大目に見てほしい。
――いや。
そのたった『百分の一』が、人間を救わない事くらい大目に見てほしい。
そう考え直していると、カルティナはまた視線を遥か先――どこまでも広がる美しく雄大な景色へと向けていた。
「ユウヤ」
名前を呼ばれた。
なんだ、と気の無い声で返事をしながら同じ景色へ視線を向ける。
「ヒトは、きっとこの景色を『綺麗』だと思うのでしょうね」
人形のように整った表情を僅かも動かす事なく、彼女はそう呟いた。