「亜人だって人間です」
目の前にいる亜人はひどい匂いだ。どれくらい食事をしていないだろう。水浴びもきっとしていない。
ただ相手に警戒心を抱かせてはいけないので鼻を覆うことはしない。
生物を解剖した後のような匂いだ…
ーー亜人
リリルアも見たことがないわけではない。しかし、そのおぞましい風貌から差別の対象になる種族だ。たいていの人間は近寄ろうともしないから向こうから近寄ってくることもない。
少し近ずいてみる。
「あなた、何を食べるんですか?例えばそこに蛾がいます。捕まえてきましょうか?」
亜人が顔を上げた。生気のない目に乾ききった長髪。トカゲのような犬のような顔をしている。一生懸命に顔を上げたらしい、すぐに頭を力なくぶらつかせる。
リリルアは飛び回る蛾を捕らえるのに苦労した。右往左往してやっと手中に収めると、片手で優しく握る。
まずはその蛾を地に置いて亜人の口枷を解いてやった。鉄製だったのでそれを落とすと無機質な音が室内に響く。
それにラケルたちが気づいたらしい。
「アリル!大丈夫かい!」
「大丈夫だから入ってこないで!」
ドアを開けそうになる寸前で、ラケルはリリルアの返事を聞いて止まった。
ーーこの部屋の中には鋭い鉄線が一筋伸びている。お互い不審者同士。亜人種に生まれてしまったという男の憎しみの情と、リリルアの心の内がうまく均衡を保てるかどうか。そういうギリギリの空気だ。それを崩してはならない。
のだが、
ラケルの一声でひびが入った。
亜人の舌が長く伸びリリルアの体に巻きつく。唾液がまとわりついていて、服はもちろん着ているのだが嫌な感触だ。異臭がする。
リリルアはファーストキスだってまだの身だ。ただここで気持ち悪い、という顔をすると瞬時に首を絞められて人生が終わるだろう。
決して刺激できない。
ゆっくりと深呼吸した。相手も相当疲弊しているからか、強い力は感じられない。思い切りもがけばすぐに逃げることも可能だろう。
「確かにそんな蛾を食べるより、私を食べたほうが腹の足しになるね。」
リリルアは目をつむって首を上げて見せた。
殺したければ殺せ。食べたければ好きにしろ。という合図だ。
反抗したり敵意を露わにする相手を攻撃するのは簡単だけれど、逆は難しい。よほどの精神破綻者でなければ目的もなく人を殺したりしないだろう。
そして大抵精神破綻者は強い。力があるから闇雲に人殺しができるという憶測、打算があったのかもしれない。
とにかくリリルアはとことん無防備になってみることを決めた。敵意がないことを証明しなければならない。
…
亜人の男は舌を引っ込めてくれた。そして途中、蛾の死骸を地面から舌で取ると食す。
「水もあるよ。私はリリルア、よろしく。向こうのラケル王女はアリルって呼んでるし決まった名前はないからどう呼んでくれてもいいよ。」
リリルアは自分のポケットの中から水筒を出して差し出す。亜人はそれを一気に飲み干した。
もう少しまともな食事を携帯しておいたほうがよかったかな…
今度からはパンや冷製のスープでも持っておこう。いくらなんでも人に初対面で渡すのが水と蛾の死骸だけ、というのは失礼だ。
とにかく敵意がないことは相手に伝わったろう。やっとまともに対話できる。
「ありがとう…僕はアリクイ。
でも怖くないの?僕は亜人種だし、仮にもこの国を滅ぼした張本人の手のものだよ…僕は痛めつけられて然るべきだ…」
「情けない、男のくせに!本当は死にたくないのでしょう、ならそうと言えばいいのに。命乞いでもしていたほうがまだマシ。」
アリクイがキョトンとした。
「い、いや…そういうことじゃなくてさ…」
リリルアがそっと顔を上げたアリクイの頭の上に手を乗せる。目を執拗に合わせた。
「あなたはあなた。私は旅の者。怖いというのは、あなたが私。だったり、あなたがあなたでない時に感じるものです。ちなみに前者は恋人、後者は気狂い。
少し待っていてください。今体を拭く布ともう少しマシな食事を持ってきますから。正直この部屋にいると鼻が折れそう。」
彼女はウィンクして風のように部屋から出て行った。ラケルとヴィンセントがいる。
「おい、本当に大丈夫だったのかい!?怪我とかは…」
ラケルが心配してくれる。
「あー…まあ、服が唾液でぐしょぐしょ。替えの服とかない?あとお湯にタオル、ちゃんとした食事があるといいんだけど。」
ラケルにとってこの光景は初めて目にするものではない。自分が老婆だった時に助けてくれたリリルアの姿だ。
「分かった。おいヴィンセント、すぐに用意してくれ。危険はない。私が保証する。」
こういう時、従者は不安がったり疑問を持ったりしない。すぐに用意に取り掛かってくれた。ヴィンセントはよほどラケル王女のことを信頼しているのだろう。
準備が終わるとヴィンセントから手渡されたものの中には手錠の鍵も入っていた。なるほど、優秀な人間だ。
地下室の脇にあった寝室で着替えを済ませたあとでまたアリクイのところへ向かった。
まずは手錠を外し、石でできた桶に入ったお湯に布を浸すとリリルアが体を洗ってやる。食事には木の実や野菜、果物があった。これは亜人種が肉を食べるか分からない、という配慮からだろう。
アリクイが食事を済ませるとリリルアが食器を片付けにまた戻る。
その時ヴィンセントが一瓶の香水を手渡してくれた。
どこまで気の利く人間なのだろう…ラケルが王座にいた頃は相当苦労したのだろうか?
戻って部屋の中に香水を四度ほど吹き込んだ。柑橘系の淡い香りがする、十分空気に嫌味がなくなった。香水まで優秀だ、上品かつ繊細。
さて、それでは話をしよう。アリクイも落ち着いたようで、リリルアに感謝の意を述べる。
まず聞きたいのは個人的に国を滅ぼしたという少女のこと。これでどんな団体が絡んでいるのかも分かるだろう。
次に国民たちの場所だ。そこに王国の生き残りであるラケルとヴィンセントが乗り込む手はず。
「なにか話してくれることはある?国民を取り返せる方法とか。」
「い、いや!そもそも相手が悪いよ…呪術師の商会だもの…」
そうか。国を一夜にして滅ぼした少女は呪術師の一派だったか、それならば納得がいく。リリルアも前の職業柄呪術師の噂は度々聞いてきた。
もしかすると…潜入なんて甘い考えではいけないかもしれない。
これで今回の流れの全貌が見えてきた。ヴィンセントは少女のことを呪術師一派だと知らなかったらしい。
【呪術師は上流階級の人間に「玩具」を提供しているという噂で有名だ。
「呪術師の商会」
と言って主人が呪術師ならばそれは一大ブランドとして確立される。
暗殺、売春事業、違法薬物生産。そういったものをこなしている集団。
ただ彼らは仕事柄「裏の裏社会」に生きる。裏と表の境界線が曖昧となりつつある現代において必然の隠遁行動だ。
呪術師がこなす業務を紹介するのはまた別の集団の仕事。つまり、呪術師との交際には仲介人が付き物というわけだ。
今回の王国崩しは呪術師一派のものが行い、囚われの国民は裏の商会に一度売却され、そこから表社会に再分配されるのだろう。
裏の商会が国に仕事を依頼される
↓
呪術師一派に仕事を委託、完了後報酬を商会から受け取る
↓
商会が成果を国へ分配
ってなわけだ。往々にして大仕事をこなす力のない商会が依頼を受けた場合、この構図が成り立つ。あればこの限りでない。
そして「玩具」というのは、例えば呪いで死ねない亜人を作ったとする。それをいたぶって日頃のストレスを発散したい、なんて気狂いも世の中いる。
ちなみに買い手に魔術に長けたエルフの奴隷までいれば、ある程度記憶の保存や自分好みのカスタマイズも可能。
人身売買にも質の序列が存在するから、どれだけ使い勝手のいい術式を使うか。商品の性格の傾向はどうか、隠蔽の信頼性、等々…書い手へのサービスは膨大な数で、多岐に渡る。
アフターサービス付きのアブノーマルブランド。
そんな黒よりもっと黒い集団なのである。】
しかし今回の癌が呪術師だと分かったところで、リリルアの策は変わらない。逆に危険が高まったことを除けば朗報だ、呪術師の一派は慎重なことで有名。
龍神族の庇護下に入った人々を感極まって虐殺するような馬鹿な真似は決してしないだろう。レコーダーを使った同盟作戦の効力は高まる。
とりあえずやってみるまで分からないところまで来ている。あとはラケルとヴィンセントの意思次第だ。
「分かった。だけどこっちにも策があるから。外にいる二人を案内してほしい、国民のところまで。」
「恩があるからそう言うのならいいけど…どうなっても知らないよ…」
まずリリルアが部屋を出てラケルとヴィンセントにアリクイのことを説明すると、アリクイのことを部屋から出した。
ここに人間三人と亜人一人。王国の再興に少しずつ向かっていく。