008 王女様は嵐が怖い
ふと、シオンがこちらに向かって手を振ってきた。
手を肩の辺りまで挙げて小さく揺らす、控えめな動き。
ああ、そうだ。
普段の彼は、このように決して派手なことは起こさない性格なのだ。
王女が相手だから、と変に取り繕わずに、
シオンは自分にありのままの反応をしてくれた。
まるで友人同士のやり取りみたいではないか。
シャルロッテは夢が叶ったように胸を弾ませる。
シオンに向けて、恐らく今日で一番の笑顔を浮かべて手を振り返事をする。
たったそれだけ、大したことではないし何ら特別なことでもないのだが、
男性であるシオンとって、彼女の笑顔はある種の凶器に思えた。
その凶器を正面から直撃した途端、
シオンの顔は全身の血が一気に頭に上ったように真っ赤に染まる。
そのまま一時停止。完全に放心状態に陥ってしまった。
「え、ぁ――~ッ」
どうして急に……彼は照れているのか? 原因はそう深く考えずとも思い至る。
シオンに起きた変化は自分のものだと気付いた時には、
シャルロッテ自身も恥ずかしくなってきて、慌ててシオンから目を逸らした。
第二王女シャルロッテ。彼女は自身の美貌が異性にとってどれだけ刺激的なのか、未だに無自覚なのだった。
シオンから目を逸らした後も、民衆の歓声になるべく応えていく。
平静を装っているが、内心は先程のシオンのことで頭がいっぱいだった。
流石に急に目を逸らしたのは不味かっただろうか、
もしかしたら嫌われていたりしないだろうか、
いや、嫌われていても学園では魔導具のおかげで問題はないし、
でも、友達になるなら身分を隠す訳にはいかないし、
正体を明かしたら距離を取られるかも――
堂々巡りの悪循環。
ネガティブな考えが頭を離れず、気持ちはどんどん沈んでいく。
こんなとき、本人と正面から話し合えれば、どれだけ気が楽になるだろう。
せめてきっかけさえあれば、うまくいくかも知れないのに。
シャルロッテを乗せた馬車は民衆を裂きながら前へ前へと進み、
シオンの姿はどんどん後方の景色へと流れていく。
彼と話し合える日は来るだろうか。
そもそも、自分はこれから先も心の底から気が許せる友を作れないのだろうか。
それは王女として――
「――ハッ!」
突然、将軍の掛け声が聞こえた。それも、割と近くで。
シャルロッテは自分の側方に目を向けると、
そこには一団の先頭にいたはずの将軍の姿があった。
どうしてここに? しかも、己の獲物である大太刀を抜刀して。
そんな疑問は、将軍の目の前に浮かんでいる、
縦に両断された黒い外套の人物を見てすぐに消し飛んだ。
消し飛んだだけで、疑問の答えは何も分かっていないのだが。
言うなれば、シャルロッテの頭の中は真っ白になっていた。
頭の整理が追いつかない。
どうして? 一体何が起こった?
何故突然、目の前で人が真っ二つになっている?
ダメだ、落ち着かないと。
何時の間にか乱れていた呼吸を整えようとするが、
うまく息が吸えない。吐けない。苦しい……!
呼吸器が塞がれてしまったように首が絞まる感覚。
これはまさしく、恐怖という感情だった。
恐怖で動けない王女を置いて、事態は刻一刻と進行していく。
黒い影は霧散し、魔方陣へと姿を変える。
その異様な光景を目にして、黒い外套の人物は人間ではないことを知っても、
胸の動悸は治まらない。
魔方陣からは何かしらの危機感を感じるが、
身体がまったく動かない。
「伏せろッ!!」
突然耳に入ってきた、シオンの声。
普段の気の抜けた振る舞いからは想像も出来ないほどの緊迫した様子だった。
驚きはしたが、その一喝で恐怖に支配されて硬直していたはずの身体は反射的に動き出し、魔方陣から身を守るように身体を丸める。
爆発が起きたのは、そのすぐ後だった。
凄まじい爆発音と振動が鼓膜を容赦なく叩きつけ、体中を熱風が包み込む。
――熱い! まるで竈の中にでもいるようだ。
現実時間では3秒も経っていないはずだが、
体感時間では分単位にも感じるほどの奇妙な感覚がシャルロッテを襲う。
早く、早く、開放してくれ。頭の中で何度もそう願った。
爆発が治まってからも暫らくの間、シャルロッテは蹲ったままでいた。
先程までの喧騒が嘘のように静まり返った商店街。
今、周囲はどうなっているのか。彼女は確かめる気にもなれない。
そんな最中、将軍の凛とした声が耳に響く。
「総員、抜刀! 全霊を持って姫をお守りしろ!」
続いて護衛の騎士たちの掛け声が聞こえ、
ようやくシャルロッテは顔を上げることが出来た。
恐る恐る周囲を見回して見るが――
とても先程まで民衆の笑顔で溢れていた場所とは思えなかった。
黒い外套に身を包んだ影の軍勢。それに相対するは自分の護衛の兵たち。
剣戟が響く。人のすすり泣く声が聞こえる。
傷つき、傷つけられて赤い血が飛び散る。
自身が乗っていた馬車を引いていた馬は、
横になったまま動かない。死んでしまったのだろうか。
王女は戦争というものを知識でしか知らないが、
戦場とはこの光景を意味するのだろうか。
「……ぅ」
呆気に取られている内に、微かだが将軍の呻き声が聞こえた。
シャルロッテは馬車から身を乗り出し、将軍の名を呼ぶ。
「カイネ!」
シャルロッテの目に映った将軍――カイネは、
全身傷だらけの重症を負っていた。
もう立つことも億劫だろうに、それでもこの騎士は大太刀を杖代わりにして守護すべき王女の下へ近づいて来ていた。
見ているだけで、こちらも痛くなってくるようだ。
一歩踏み出すたびに滴り落ちる血液が、その身体を蝕む痛みを物語っている。
「……ああ、姫。よかった、ご無事でしたか」
「わ、私なんかよりも先に、自分の身体を心配しなさい!」
安堵したように弱弱しく声を漏らすカイネに向かって、
思わず責めるような口調で声を掛けてしまった。
この騎士は、今にも息絶えそうな状態でも自分の安否を確かめたかったのか。
忠誠心が厚いにも程がある。それで死んでしまっては元も子もないだろうに。
しかし、何故カイネだけがこれほどの重症を負っているのか。
怪我の原因は先の爆発だろうが、
周囲の兵は戦闘に気象を来すほどの怪我を負っているようには見えないし、
自分に至っては無傷だというのに――
「申し訳ありません……先程の爆発、
この身を賭して抑えようと試みたのですが――ゲホッ!」
「! ……充分です。後は他の者に任せ、あなたは少し休みなさい。
――ありがとうございます、カイネ。あなたには何度も助けられてばかりですね」
「……勿体無き、お言葉」
言って、事切れたように地面に倒れかけるカイネ。
ギリギリ膝立ちで踏み留まるが、もう立つほどの気力は残っていないだろう。
シャルロッテは得手ではないが、簡易な治療魔術ならば扱える。
全快とまで行かずとも、カイネを少し楽にしてやるくらいは出来るだろう。
そう思い馬車から降りようとすると、
カイネは膝を付いたままシャルロッテを静止する。
「姫はなるべくその場から動かないで下さい。結界の外は非常に危険ですので」
「結界……あっ」
そうだった。
シャルロッテが乗っている馬車はそれ自体が魔導具であり、
搭乗者を守る結界が張られている。
範囲は狭いが効果は絶大。
この結界は内部へのあらゆる侵入を拒み、
『専用の魔導具でAランク以上の威力で』当てないと破壊できないという、
極めて得意な性質を持っている。
さらに、その仕組みを知っているのは王族や兵団の将軍級の上層部のみ。
この結界の中にいる限り、敵は絶対に侵入できない。
シャルロッテが先の爆発を無傷でやり過ごせたのは、
将軍の功績もあるが、この結界のおかげでもあったのだろう。