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姿なき脅威 1、2

第二章 姿なき脅威 1、2


 藤堂真吉は聖セシリア病院の番人である。

 彼が生まれたとき、母の百合子は結核の持病を持っており、幼い真吉の目には、いつも布団の中で咳き込んでいる母の面影が残っている。その母が通っていた、そして後に入院することになったのが聖セシリア病院であった。

 医師たちは皆優秀で、幼い真吉の目にも、母がこの病院で少しずつではあるが回復の兆しが見えていると分かった。母は赤い、潰した苺のような痰を吐かなくなったし、咳き込むこともなくなった。

 だが運命の皮肉か、母の病状はまもなく悪化し、以前にもまして、激しい咳をすることが増えていった。

 最後の日の最後の朝、母は真吉を枕元に呼んだ。傍らには父の洋助が、涙で濁った目をして立っていた。かかりつけの主治医が、常に母の手を取り、その脈拍を測っていた。黒縁の眼鏡をしたその主治医は、母の一挙一動を観察し、真吉にも明らかに普段とは何かが違うと感じられた。

「真吉、お前は病気になんかなっちゃいけない。身体に気をつけて、長生きするんだよ」

 嵐のような咳を必死でこらえて、胸の奥から振り絞るように、母は続けた。

「真吉、私はこの病院の先生方にとてもお世話になった。大変よく面倒を見てもらった。だから真吉、お前はどうか母さんに代わって、ここの病院へ恩返ししておくれ」

 そこまで言うと母は、いっそう激しく咳き込んだ。壊れた蒸気機関のような音が、咽喉の奥から漏れてきた。母は真吉の手をとると、こういった。

「真吉、お前ここで守衛さんに使ってもらいよ。こんな大きな病院だ。患者さんを守るのはお医者様だけではないよ。そうしてお母さんに代わって、この病院に恩返ししておくれ」

 ここまでしゃべるとは母は目を閉じ、大きく深呼吸をした。笛の音のような音が、胸から滴り落ちてきた。医師が動いた。彼は指先で母の目を開けると、その瞳孔を眺めた。そして聴診器で胸を調べた。約一分の後、医師は言った。

「ご臨終です」と。

 尋常小学校を終えたばかりであった。もともと学問に関心が無かった真吉は、そのまま聖セシリア病院の警備員の見習いとなった。

 先輩の警備員に連れられて、迷宮のような病院内を回った。真吉はいつも、いくつもの階段を登り、階段を降り、廊下を歩き、病室を見て回った。年若い真吉にとって苦手だったのは、閉鎖病棟である。男も女も、若いものも年老いたものも、およそあらゆる人間の標本ともいうべき人々が、そこで暮らしていた。真吉は猛禽類のいななきのような声を聴く。入院している患者たちが、時折そんな奇声を上げるのだ。ノートを手に、なにやら独り言を言いながら、一心に書き綴っている男がいる。そうかと思うと若き乙女が、剃刀で手首を切った。彼らはもはや、喜びや悲しみを感じることは無かったように思えた。春も夏も秋も冬も、全ては鉄格子の中で生まれ、死んだ。悲鳴も嗚咽も、施錠されたガラス窓から出ることなく、薬臭の混じった病院の中で、希望も夢も抜け殻のようにもろく、外の世界へ通じることなく息絶えた。

 そんな少年期から幾星霜。真吉はいまやベテランの警備員として聖セシリアの毎日を守っていた。日に何度となく、彼はその広大な病院内を警邏した。真吉が担当するのは開放病棟の第六から第十までの五病棟である。夜の短い自由時間が終り、各病室が消灯する十時には、彼は一回目の見回りをする。少年時代から続けた夜警の道順は足が覚えている。七階まである第六病棟から第十病棟は夜はエスカレーターは停止となる。真吉は階段を使って、各病棟を見て回った。

 聖セシリアの夜は平和だった。ただ第七病棟だけは別だった。深夜に徘徊する癖のある病人が数名いたからである。心臓には自身のある真吉だったが、初めてその患者と会ったときは胸が悲鳴を上げた。真吉は患者の手に巻かれている名前、病室名を明記した細長い紙をみて、患者を病室へと戻した。日々は事もなく単調に過ぎていった。齢六十を超えた真吉であったが、彼はよく病院に馴染み、その巨大な体の一部を立派に守っていた。その事件が起きるまでは。

 ある日のことである。いつものように真吉が病院の見回りをしているとき、第六病棟の五階の、緑色の深海のような廊下で、かすかに扉が揺れる音を聞いた。それは廊下に並んだ無数の扉の一つ、五二六号室の中から聞こえていた。真吉がドアノブに手を掛けると、扉はすうっと開いた。

 月の明るい晩であった。病室内には青白いセロハンのような光が、空になったベッドと、麻のように乱れた布団を照らしていた。病室の窓は開かれ、白いカーテンが風にはためいていた。

 まさか。

 真吉はそう呟くと、開け放たれた窓へと近づいた。そして窓から直下を眺めた。

 青い月明かりの最中に、病院の白いタイルが光っていた。そしてその上に、うつ伏した髪の長い人間が一人、倒れていた。頭の付近からは流れた赤い血が、月光に溶け込んで、紅の蜜のように、水溜りを作っていた。

 警察を呼ぼう。真吉は思った。

 音の無い夜であった。ただ頬を撫でる風の音だけが、虚空に響いて舞っていた。

 

 自殺事件?

 ある日の昼下がり、礼子は御手洗がそういうのを聞いた。

「ああ、何でも第六病棟に入院している娘さんが、飛び降り自殺をしたんだそうだ。早速警察がやってきて、今調べている」

そう言って御手洗は、お見舞い用に持ってきたハトサブレーを頬張った。

「死んだのは誰?」

 同じくハトサブレーを食べながら、礼子が聞いた。

「噂では藤村環。強迫性障害で入院していたそうだ。歳は僕たちと同じぐらいじゃないかな。跡見女子学園に通っていたんだって」

「その人なら知ってるわ」

 礼子が言った。

「まだ入院したての頃、病院の中庭で一緒に遊んだもの。彼女が自殺ですって?ありえないわそんなこと」

 礼子の中に、悲しみとも驚きともつかないパズルのような気持ちが沸き起こった。

 そんな礼子の言葉に、御手洗は少し慌てて、こう訊いた。

「じゃレイちゃんは、自殺じゃないっていうの?」

そんな御手洗の問いに、礼子は答えた。

「ええそうよ。自殺だなんて考えられない。だって藤村さんよく行ってたわ。病気が治ったら大好きにイタリア旅行に行きたいって。彼女、オペラが好きだったのよ。ヴェルディとかジョルダーノとか。それでね、かいっちゃん、いつかイタリアのスカラ座にオペラを見に行きたいって、そう言ってたわ」

 そう言うと、礼子はかつて中庭で見た、屈託のないジェノヴァの船乗りのような笑顔を浮かべる藤村の姿がありありと心に蘇るのを感じた。同時に憤りも感じた。あれほど将来の夢を熱く語っていた人なのに。あれほど音楽を愛する人だったのに。なぜ死ななければならないの?

「でも警察は自殺と言うことで捜査しているよ。院内でも、あれは自殺だって、いろんな人がいってたよ。僕、病院の待合室を通り過ぎるとき聞いたんだ」

「かいっちゃん、杉崎さん呼ぶわ」

礼子は毅然とした表情で言った。

「呼んでどうするの?」

こう聞かれて、礼子ははっきりと答えた。

現場にいくのよ。そして警察の人に言うわ。あれは自殺じゃないって。みんな藤村さんのこと知らないだけなのよ」

 そういいながら礼子は、ナースコールを押した。

 まもなくやって来た杉崎は、礼子の話を聞くと、こう言った。

「礼子さん、今は探偵ごっこよりも、病気を治すほうが先よ」

「そんなんじゃないわ」

 礼子が言った。

「あれは自殺じゃないわ。他殺よ。藤村さんは自殺するような人じゃないって。杉崎さんも知ってるでしょう?彼女が自分の夢を語っていたのを。杉崎さん。お願い。力を貸して。警察の人に真実を言わなきゃ」

 こんな礼子の訴えに、杉崎は少々当惑していたが、やがていつもの抜け目のない顔に戻ると、こう言った。

「分かったわ礼子さん。現場へ行きましょう。第六病棟だから少し遠いわよ」

「ありがとう」

礼子が言った。こうして三人は、いくつもの階段と廊下のはてにある現場へと向かった。 


「あんな言い方ってないわ。なによあれ、完全に馬鹿にしているわ」

 病院の廊下で、礼子は激昂した。

「無理も無いよ。統合失調症って妄想癖があるんだろう?」

御手洗がこう言うと、礼子はこう言い返した。

「だからって人の言葉を馬鹿にするなんて、許されないことだわ。ねえ杉崎さん、杉崎さんなら信じてくれるよね?」

 杉崎は笑みにならない笑みを浮かべて、小さく頷いた。

「でもあの様子じゃ捜査は時期に打ち切りになるだろうな。警察も自殺と見ているようだし」

 礼子は憤慨した。自分は彼女と言葉を交わすことがあった。そんなときはいつも、彼女は好きなオペラのことを話すのだった。彼女は将来を、やがて来る現実のことを、勇気を持って迎え撃とうとしているようだった。その言葉のいたるところに、鉛の扉の如く立ちはだかる現実への挑戦的な意思が散見された。彼女は生きようとしていた。やって来る生活を乗り越えようとしていた。彼女の小さな眼は、水晶の如く輝いて、いずれ生きるであろう生活を心行くまで味わいつくそうとする意欲をありありと映していた。

「もし治ったら一緒にスカラ座に行こうね」

 こう言って藤村は、いつの日か訪れる夢の日を待ち焦がれていた。

 藤村が自殺するはずがない。

 礼子はこう思った。

「お願いだから機嫌を直してちょうだい。そうだ、忘れていたわ。あれを渡すのを」

 杉崎はそう言うと、車椅子を押して、礼子を再び病室へと戻した。礼子はベッドの上に寝た。布団の中には毛布が追加されている。夜ともなれば肌寒い。季節はゆっくりと初冬へと移っているのだった。

「ここで待っていてちょうだい。約束していたものをもってくるから」

 そう言って数分後、礼子は先ほどの怒りとはうって変わって、喜びに眼を輝かせた。

「約束していた病院の地図よ」

 そう言って杉崎は、折りたたまれたノートパソコンほどの大きさの紙を礼子に渡した。

「見てもいい?」

 そう尋ねる礼子に、杉崎は笑顔で頷いた。

 だがまもなくして、礼子は自分の期待が半ば裏切られるのを感じた。その地図は確かに聖セシリア病院のものであったが、完全なものではなかったのである。

「第一病棟と、第二、第三病棟、ならびに第四病棟…。これだけじゃ分からないわ。ここって病棟は十個あるんでしょう?半分も網羅されてないなんて」

「それでもやっと手に入れたのよ」

 杉崎は言った。

「もう一度言うわよ礼子さん、いや、探偵さん」

 杉崎は半ば冗談交じりにこう言った。

「まず聖セシリア病院は明治の中ごろに建てられた。その当時の建築物は関東大震災で倒壊して、今残っているのは院長室がある旧第七実験室の建物よ。今の聖セシリア病院の建物は昭和初期、高名な建築家、内田祥三によって建てられたの。彼の建築には一種独特の傾向があるわ。

たとえばあれをご覧」

 そう言って杉崎は病室の窓を開けると、目の前に広がる病棟を指差していった。

「まずどの窓もゴシック様式のアーチで飾られている。間に立つ柱の頭には、くの字型をした柱頭で飾られた柱があるの。後はスクラッチタイルで装飾されているのが特徴ね」

 杉崎はここまで言うと、再び窓を閉じ、鍵を掛けた。

「私が知っている限りの内田の手による建築物は、この第三病棟と第一、第二、第四、第五の五つよ。それらはこの山の中に、本を立てて並べたように整然と建てられているわ」

 杉崎は言った。

「そしてもう一つ、残りの五病棟は大正の時になって、新たに建てられたものなの。第五病棟までは、建築指揮に当たった内田祥三とは異なって、この病院が大きく、発展していくに連れて建て増しされていったものなの。だから場所もまちまちで、礼子さん、こういうの聞いたことある?密教の寺院は山の中に、隠れるように絶妙に場所を選んで建てられているということ。それは山の中と言う環境では、平地に建てられた禅宗の寺のように整然とした伽藍配置ではなく、既存の山を生かして、それと共生するかのように建てられているの。この病院の第六から第十までの病棟も同じよ。この病院は山の中にあるから、その自然の地形を生かして、森とともに、山の中にうずくまるようにして立っているのよ」

「ちょっと待って」

 礼子が言った。

「今までのこと、このノートにまとめるから」

 そう言うと礼子は、一冊の大学ノートを取り出し、一ページ目をめくると、シャーペンを手に、病棟の配置図を描いた。

「第一から第五までは私も良く知ってる。病院の正門から見て一列に、整然と建てられている」

 礼子はシャーペンで正門をあらわす記号を小さく線で描くと、その向かい側に、五つの長方形の箱を描いた。

「ここまでは私も良く知っているわ。でも第六病棟からが分からないのよね。杉崎さん、第六病棟って、やはり入院患者用の個室なの?」

 礼子のそんな問いに、杉崎は答えた。

「私も良くは分からないけど、集中治療室や特別病棟が第六以降の病棟にあると聞いているわ」

「じゃあ、眠り姫はこの辺りにいるのね」

 そう言って礼子は、四角く並んだ五つの箱の後ろ側、ノートの罫が薄青い轍を残している部分を大きく丸で囲んだ。

「第六病棟以上が謎な領域なわけね。ねえ杉崎さん、本当に分からない?何でもいいから知っていることを教えて」

 そう言われて杉崎は、少し口元を歪めて困ったような顔つきをすると、こう言った。

「私たちが関わるのはこの第三病棟までだから、それ以上は分からないわ」

 面会の終了を告げる放送が流れた。礼子はハトサブレーの礼を言った。

「また来るからね」

 笑顔でそういうと、この青年は病室を去っていった。

 夕食後、礼子は件のノートを見返して、一人推理に没頭した。そして決意した。礼子は杉崎の許可を取ると、病院の一階、受付にある公衆電話から家に電話した。

「コンパスと三角定規?」

 電話にでた母親の優美子は不思議そうな声で言った。

「そう、コンパスと三角定規。正確なやつね。今度のお見舞いの時に持ってきて。

 こうして一週間の後、礼子は病室で、週に三度、必ず病院を訪れる母親を出迎えて、その後、一つのコンパスと、二枚の三角定規を手にしたのだった。

 杉崎はそれを見ると、一体何に使うのかと尋ねた。

「病院の地図を作るの」

 礼子は眼を輝かせてこう答えた。

 翌日、礼子は杉崎と共に、車椅子に乗って病室をでた。その手には一冊の大学ノートとコンパス、二枚の三角定規があった。

「じゃあ杉崎さん、お願い」

「どこまで行けるか分からないわよ」

 こうして二人は、病室を出て、第六病棟まで続く渡り廊下のある一階へと向かった。

 季節はもう冬だった。枯葉のまい散る一階の渡り廊下の向こうには、第六病棟が、巍然たる威容を誇って立ちはだかっていた。


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