まひるのはなし。
鉄棒に座っていた日を覚えてる。太陽の,どれくらい熱かったかは忘れてる。
こんな風に,脚を風に飛ばされるほど軽い木の枝みたいにふらふらさせて,両手だけはしっかり冷たい鉄を掴んでる。まめのない,さかむけの,少し黒い手のひらに,鉄の匂いが沁みていく,血と混じって心臓で嗅ぐ。
それからふざけてその手離して,体そらせてコウモリみたいにぶら下がったりして,服がめくれて風に吹かれたお腹と背中に2人とも,しっとり汗をかいていた。
「まひる」
その声に振り向いた。空を見ていた両目に部屋は随分暗かった。「さっきまであんなに暗いところにいたのか」と驚いて,明るい地面に足をつけようと,冷たいつま先をやる気なさそうにのばしてみても,当然何も触れないで,そのはるか下にアスファルトの通路とか,自転車とか,植木とかが見えていた。太ももの隙間に,エプロン姿の小太りの,サンダルをはいた賢い豚のような女の小人が入り込んだので,膝を合わせてつぶし悲鳴を聞いた。
「アブナイワヨー」
「ハチナイワヨー」
という返事が,おそらく彼女に注意した主婦の耳には「オチナイワヨー」に聞こえたろうとぼくは思った。「まひる」ともう一度呼ぶが,いつの間にか外に視線を戻していた彼女はもう振り向かなかった。ぼくを忘れたか,あるいは名前を忘れたか,聴覚を失ったか,ただ無視しているのか。
「落とすぞ」と脅迫しかけて,「落ちるぞ」も「落とすぞ」も,彼女には意味のない言葉だと気づいた。呆れてかかとを引きずりながら小さな背中に近づいていく。「落ちるぞ」「落とすぞ」近づいていく。外は随分明るいようだ。彼女はまるで後光が差しているかのようだ。人間ではないようだ。手を伸ばして飛行機を止めようとしている。やめろ,お前がそうすると,飛行機は本当に落ちるぞ。華奢なキングコングを後ろから捕まえると,彼女は「3つ」と相変わらずベランダの柵に座ったまま,両手を空に伸ばし指を開花する花びらのようなぎこちなさで広げながら言った。それからぼくの右肩に頭を乗せて,暗い部屋をさかさまに眺めながら「黒い」と言った。3つは彼女が足の親指と人差し指で摘んで戻した花の数であり,指で捻じ曲げて元に戻した枝の数であり,蹴り飛ばした人間の数である。それはコウモリになると耳から流れて忘れてしまう数なのだそうだ。「まひる,降りるよ」そういってぼくは彼女を抱えてベランダに両足をつけさせた。お尻のあたりについた柵のサビを払ってやる間,彼女はただじっとしていた。それから一言「かえる」と言った。
「まひる」
「まひる」
何度も呼んだ,何度も呼ばれた。
真昼間からアスファルトに,プールの水ごと倒れていたから「まひる」。
うちあげられたクジラより,ずっと小さい体だけれど「まひる」。
そうしてぼくは目を覚ます。晴れた日には公園の前を通って帰る。