にわとりとひよこ
給水塔の影に寝そべって、彼女は煙草をくゆらせていた。
何に誘われたのか、隣で真っ白い鳩がぴょんぴょんと飛び跳ねている。
鶏に似ていた。
―にわとりとひよこ―
「あ、ハッパ吸ってる。いけないんだ」
重いドアをうんしょと開けて、屋上に入ってきた黒髪の少女は、今しがた入ってきたドアの上で煙を揺らめかす栗毛の少女を見つけて言った。
ぎしりときしんだ扉の音に驚いて、真っ白い鳩が一羽、青い空を背にして飛び立つ。
栗毛の少女は焦った風もなく、二本指で煙草を持ち上げて口から煙を吐いた。
「・・・ハッパじゃねえよ」
「じゃ、それ何?」
「・・・バット」
ほとんど上履きの裏と立ち昇る煙しか見えない栗毛の少女に、黒髪の少女は首を傾げて見せた。
「何、それ」
「・・・ほら、野球でさ、球を打つ細い棒あるじゃん?あれと似たようなもん」
「・・・ふうん」
黒髪の少女は納得したように頷いて、朽ちかけた鉄のはしごに手をかけた。
歯抜けになった古いはしごを、黒髪の少女は小さな体でゆっくりと登りきる。
「こんなとこで何してたの?」
給水塔にすがってよろよろと立ち上がって、黒髪の少女は少しだけ近くなった空を見上げた。
「・・・休んでた」
「授業中なのに?」
「授業中だから」
栗毛の少女はそう言って、また煙草を口にくわえた。
黒髪の少女は首を傾げつつ、栗毛の少女が鼻から煙を吐き出す様を眺めていた。
「どうして?」
「・・・大人になるとさ、好きなときに好きなことができなくなんの」
「だから?」
「だからな、あたしは好きなときに好きな事すんの」
「・・・よくわかんない」
「そっか」
寝そべって、空だけを見上げていた栗毛の少女は、面白くもなさそうに煙を吐いて、初めて黒髪の少女の方へ目をやった。
「・・・けど、知らなかったな。あんたこそ何やってんだ」
「私?」
「あんたみたいなのでも授業サボるんだ?」
揶揄すように笑った栗毛の少女に、黒髪の少女は三度首を傾げて見せた。
「担任の爺がうるせえのさ。少しは前原を見習えってな」
「・・・どうして?」
「評定平均、あたしの五倍くらいあるじゃねえか」
「じゃあ、朝比奈さんも私の五倍取ればいいよ」
「やだよ、あたしもう一回留年するんだもん」
くわえた煙草から灰が落ちた。
灰皿はなく。コンクリートの上に落ちた熱い灰は、風が吹くたび宙を舞う。
「なんで?まだこの学校に残るの?」
「うん。ずうっと残る」
「ずうっと?」
「うん。そしたら、大人にならなくて済むだろ」
大分短くなった煙草を、栗毛の少女は名残惜しむようにちまちまと吸った。
「大人にはなるよ」
「ならないよ」
「なるよ」
「何で?」
「だって。いつかここを出て行くんだもん。だからお仕事探して、大人だからお金稼ぐんだよ。だから皆お仕事探したり大学行ったりするんだよ?」
「・・・」
さも当たり前のように、黒髪の少女は言った。
栗毛の少女は冷ややかに、そんな黒髪の少女を眺めていた。
「・・・じゃ、お前こんなとこにいる暇ないじゃん。なんで授業サボってんの?」
「んとね、進路指導室で資料探してたらね、いつの間にかチャイム鳴ってたの」
「あー、らしいな」
小さく笑って、栗毛の少女はもう三分の一くらいまで短くなった煙草を、青空に掲げて眺めた。
「じゃあ、朝比奈さんはどうして授業サボって、ここでバット吸ってるの?」
悪気も邪気も見えない顔で、黒髪の少女は聞いた。
「・・・さっきも言ったじゃん、大人になりたくないの」
「バット吸ってると、大人にならないの?」
「ううん、バットでもメンソでもキャメルでもいいの。ただ隠れて吸ってると、大人にならない気がすんの」
「・・・ふうん」
黒髪の少女は、頷きながら首をかしげた。
「朝比奈さんは、大人にならないんだ」
「うん、ならない」
「私も、朝比奈さんみたいにしてたら大人にならない?」
「さあ、知らない」
「・・・えっとね、多分、私は大人になっちゃうと思うな」
「・・・」
栗毛の少女は、掲げていた煙草を口にくわえて、火が唇につくギリギリまで吸った。
もう指先でつまむのが精一杯な吸殻を口から放して器用にもてあそびながら、栗毛の少女は黒髪の少女を見ていた。
「・・・あんた、ひよこに似てるな」
「・・・ひよこ?」
黒髪の少女が首をかしげて、栗毛の少女はだるそうに上半身を起こしながら頷いた。
「何にも知らないみたいなきらきらした目してさ、ヨチヨチ好き勝手歩き回ってさ、それで皆に可愛がられてさ。んで、いつの間にか真っ白になって、せかせか歩き回るようになって、毎日すっげえ早い時間に起きんの」
ふっと、栗毛の少女は鋭く笑った。
「あんたはひよこに似てんよ」
「・・・朝比奈さん、ひよこ飼ってたことあるの?」
「ああ、うん。縁日で買ったちっちゃい水色のひよこ」
「ひよこって水色なの?」
「ああ、それがだんだん黄色くなって、その内白くなって、朝早くから鳴くようになって、そのうち飼い主が要らなくなってどっか飛んでくの」
「ふうん。朝比奈さんって、いろんな事知ってるね」
「まあな、あんたの知らない事は大体知ってる」
栗毛の少女は背中を丸めて、ぽろぽろ葉っぱをこぼしながら煙草をもてあそび続けた。
「私の知ってる事は?朝比奈さんは知ってる?」
「知らんね。知ると留年できなくなるし、知ると大人になるから」
「ふうん」
黒髪の少女は、栗毛の少女の指で踊る煙草を目で追いながら、難しげに言う。
「うんとね、私、ひよこは好きだよ」
「・・・そっか」
頷きながら、栗毛の少女は空を見上げた。
見上げて、今日はずいぶんと近いなとつぶやく。
「何が近いの?」
首をかしげた黒髪の少女に、栗毛の少女は首を振って答えた。
「なんでもない」
栗毛の少女は、もてあそんでいた煙草を親指で弾いた。
「ひよこは、あたしも好きだ」
まだ火のついた煙草の切れ端は、茶色の葉っぱをぱらぱらと青空に撒き散らしながらしばらく宙を舞って、やがて校庭へと落ちていった。
(おしまい)