2 彼女の弱音
ユリは痛みと闘いながら、自宅にある道場で舞の練習を続けた。何度も、何度も。しかし、どんなに我慢しても神楽鈴を手に舞を続けることはできず、ことある事に刺すような鋭い痛みが走っては神楽鈴を落とす。その繰り返しだった。
何度目かの神楽鈴を落としたとき、ユリは深いため息とともに大の字になって冷たい道場の床に寝転んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
天井をじっと見つめたまま、乱れる息づかいだけがやけに耳に響いていた。神楽鈴を握るたびに激痛が走り、その痛みに耐え、しかし限界が来て鈴を落としてしまう。そして再び鈴を握る。
弓道部の誰もが認めたユリの精神力は、限界を迎えていた。もうここまでだろうか。あきらめの言葉が何度も胸を締め付ける。続けられない悲しさと悔しさが、ユリの目から頬を伝ってこぼれ落ちた。
不意に道場の扉が開く音が聞こえた。
ユリは慌てて涙を拭って上体を起こした。開かれた扉には意外な人物の姿があった。
「……伊吹くん?」
「あの、舞の方はどうなのかなと気になって……」
本当は舞ではなく、ユリ自身の方が気がかりだったがそれを口にすることはできずに、アオイはどこか気恥ずかしそうな表情で言った。
つい先日、アオイに強がった態度を見せたユリだったが、今は虚勢を張ることもできなくなっていた。
「…………」
「先輩?」
ユリは沈んだ表情のまま押し黙った。ユリの姿は、今までアオイが見たこともない、とても弱々しくて小さく見えた。そのまま放っておけば消えて無くなりそうなほど、これまでのユリらしさはどこにもなかった。
「先輩、やっぱり手が……」
アオイは静かにユリのもとへ歩み寄った。近づいてもユリの存在感は希薄で、それどころかますます小さくなっていくようだった。
「……り……も……」
「え?」
俯いたユリから消え入りそうな震える声が漏れる。小さく光るものが、ユリの顔からこぼれ落ちて床を濡らした。
「やっぱり、ムリかも……」
「先輩……?」
「やっぱりムリよっ! 少し触れただけで凄く痛いのに、ずっと鈴を持ったまま舞い続けるなんてムリ! できないよっ!!」
「…………」
ユリは隠すことなく、目を赤く腫らした泣き顔をアオイにさらけ出した。アオイはユリの泣き顔を初めて見た。弱々しく、触れれば簡単に崩れてしまいそうなユリの姿は、ユリではないまったくの別人のように見えた。
弓道部では部員たちの憧れで、的を見据える顔は凛々しくて、どんなことにも揺るがない強い精神をもつユリはどこにもいなかった。そこには、苦痛に耐えきれず、やりたいことを続けられないでいる一人の女の子がいるだけだった。
「先輩」
泣き崩れるユリに、アオイは何か声を掛けなければと必死で考えた。
「僕には、先輩がどれだけの痛みに耐えてきたのか分かりません……」
アオイはゆっくりと慎重に言葉を探し選びながら続けた。
「ここで舞を止めて、病院に行ったって誰も先輩を責めはしませんよ」
「…………」
ユリの瞳からは、まだ涙が止まることなく溢れ続ける。アオイはできる限り優しく、穏やかに言葉を紡いだ。
「止めることはいつでもできますよ。でも、続けることは今この時にしかできません。これまで先輩が頑張ってきたことを僕は知ってます。弓道部のこと、舞のこと、手のことも。でも、だからこそ、諦めないで欲しいんです。今まで頑張ってきた先輩を、先輩自身が見捨てないで欲しいんです」
「伊吹くん……」
これは正しいことだろうか。先輩を追い詰めるだけなんじゃないか。アオイは悩みつつも、それでも自身の願望を言わずにはいられなかった。やりたいことを諦めて欲しくはなかった。
「弓道部部長の緋桐ユリは強くて、凛々しくて、優しくて、僕の憧れの存在なんです」
「え……」
アオイは自分が発した言葉に思わず頬を赤らめた。
「あ、いや……僕だけじゃなくて、部員みんなの憧れなんです。今みたいに諦めようと思うことがあっても、でもやっぱり最後には立ち上がって欲しいんです」
アオイを真っ直ぐに見つめるユリの瞳は、少しずつ本来の明るさを取り戻しつつあった。それまで流れ続けていた涙はいつの間にか止まっていた。
「伊吹くん」
「は、はいっ!」
「……生意気」
「す、すいません……その……」
しかし、ユリはくすりと微笑んだ。
「でも……ありがと」
ユリは立ち上がりながら右腕で涙の跡を拭い、大きく深呼吸をした。
「はぁ~、まさか後輩に救われるとはね」
「先輩……」
「うん、やっぱり伊吹くんに部長をやってもらえて良かった」
「いえ……先輩に比べたらまだまだ……」
ユリは静かに首を横に振った。
「私は良かったって思ってる。間違ってなかったって」
ユリは穏やかに微笑んで言った。それを見たアオイはようやく安堵した。
「それじゃあ僕、もう行きますね。練習の邪魔になるんで」
アオイが扉からでようとしたとき、ユリは背後から声をかけた。
「ねぇ、伊吹くん」
「何ですか?」
「その、私が泣いてたことは内緒にしておいてね」
「もちろんです」
ユリの家をあとにするアオイを見送り、ユリは練習を再開した。神楽鈴を持つ手は相変わらず激痛が走る。そのたびにアオイの言葉を思い出して、ユリは舞を続けた。
舞の練習は陽が沈んで外が暗くなっても続けた。
遠くから人々の賑わいが、かすかに耳に届いた。還魂祭の初日の今日は〈送り火〉の日だ。時間的にも、もう舞殿の前で送り火がついたかもしれない。そのようなこと考えながら、流れる汗をそのままに、ユリは練習を続けた。
神楽鈴を持つ限り、痛みはユリを襲い続ける。だが、何度も繰り返してきたためか、痛みが少なくて済む持ち方のコツを掴み始めていた。少しずつではあるが、神楽鈴を持ち続けられる時間が長くなっていた。
不意に、痛みと汗から神楽鈴がこぼれ落ち、大きく音を立てて床に転がった。そのとき、閉じられた扉からガタンと音がした。
「誰?」
おそるおそる開かれた扉から、ユリの従妹である柊カエデの姿があった。
「ごめんねユリちゃん。覗き見するつもりはなかったんだけど……」
「カエデ?」
カエデは申し訳なさそうに言った。
三歳年下の可愛らしい妹のようなカエデに、それまで張り詰めていたものが一気にほどけた。
「なんだ、来てたのなら言ってくれれば良かったのに」
「だって……舞の練習を邪魔しちゃ悪いと思って……」
「そんな気を遣わなくていーの」
ユリは床に置いたタオルをそっと拾い上げると、顔や腕を流れる汗をゆっくりと丁寧に拭き取った。
「ねぇ、練習の方はどう?」
「んー、まぁまぁ……かな」
訊ねるカエデに、当たり障りのないようにユリは答えた。しかしカエデは、その言葉を疑うようにじっとユリを見つめた。
「な、なに?」
「本当に? なんだか疲れがたまってる感じだよ? それに少し目の周りが赤いような……」
カエデは昔からそうだった。普段はふわふわとした、おっとりした感じがあるのに、なぜか妙に鋭いところもある。それでも手のことを話すつもりはないユリはごまかし続けた。
「大丈夫だって言ってるでしょ。それより、後ろの二人は?」
ユリは話題を逸らそうと、扉からこちらを覗き込んでいるカエデと同い年くらいの男の子と女の子を見て言った。
「ああ、水樹アカネちゃんと周防ナツメくん。二人とも同い年で私の友達なの。ユリちゃんがここで練習してるって聞いたから、一緒に見に来たの」
「そうなんだ。無理矢理連れてきたんじゃないの?」
ユリはカエデをからかうように言った。
「違うよー」
「ま、そういうことにしておいてあげる」
カエデは二人を置き去りにしたままユリと話し込んでいたのを申し訳ないと思ったのか、二人の元へと戻っていった。
「ごめんね二人とも」
カエデは弾んだような声で言うと、ユリがその後ろから、
「カエデが無理に引っ張ってきたんだって? ごめんね」
「無理矢理じゃないよー」
カエデは頬を膨らませて反論した。怒っていることを主張しているつもりのその表情には、まったくの凄みはなく、むしろ可愛らしくさえ見えた。
「明日、舞殿で舞をやるから。良かったら二人も見に来てよ」
二人はカエデの可愛い反論に笑いながら、はい、と短く答えた。
ユリは三人を見送り、その姿が見えなくなったのを確認すると扉をそっと静かに閉めた。床に転がったままの神楽鈴を拾おうと指先に柄が触れたとき、苦悶の表情を浮かべた。じっと見た手のひらには、痺れるような鋭い痛みが残る。
「いよいよ明日、か……」
きつく目を瞑ったユリの顔は、どこか祈るように見えた。
一度深呼吸をすると、真剣な面持ちでユリは練習を再開した。その日は日付が変わるまで練習を続けた。