1 激痛
パンッ。小気味良い音が辺りに響いた。
弓道衣に身を包んだ緋桐ユリは、静かに腕を降ろして手を腰にあて、小さく息をつく。ユリが放った矢は二十八メートル先にある的の3の白を射貫いていた。
「部長?」
「伊吹くん」
ユリが振り返ると、同じ弓道部の伊吹アオイの姿があった。その日の部活はすでに終わり、夏の熱い日射しも届かないこの時間、アオイは制服に着替えて学校指定のバッグを抱えていた。
「どうしたんですか。今日の部活ならもう終わって、みんな帰りましたよ?」
「うん、ちょっと気分転換にね」
ユリたち三年生はすでに引退していた。部に顔を出すのは稀で、夏休み中の今では尚更だった。それは弓道部の元部長であるユリも例外ではない。
ユリはバッグからタオルを取り出すと、額から流れる汗を拭き取った。
「ああ、ひょっとして還魂祭の……」
「そう。神楽舞の練習をしてたんだけど……。三年間続けた弓道だからかな、急にハイ引退ですって言われてもちょっと寂しいし。で、気分転換も兼ねて……ね」
賢木町でもっとも大きな神社である緋桐神社では、毎年〈還魂祭〉と呼ばれる祭事が行われている。還魂祭は三日間行われ、初日には故人の魂を導くための〈送り火〉と呼ばれる火が焚かれる。二日目には故人と賢木町の人々が楽しく過ごせるようにと緋桐神社の舞殿では神楽舞が行われる。三日目には再び故人を送り出すための〈送り火〉として、無数の蛍が放生されることになっている。
ユリは二日目に行われる神楽舞で、初めて舞うことになっていた。これまでは弓道部の活動もあって舞の練習時間が取れなかったが、引退した今では毎日のように舞の練習をしていた。
「やっぱり舞の練習って大変なんですか?」
「う~ん、そうだね。正直言うと、踊り自体が苦手なのよね」
照れくさそうに頭を掻きながら、ユリは苦笑いをした。
「でも、部長なら大丈夫ですよ」
「ねぇ伊吹くん」
はぁ、と息をついて、ユリは咎めるようにアオイを見つめた。
「な、何ですか?」
「部長って言うの止めない? 私はもう引退してるんだし。それに新しい部長は君でしょ」
やや咎めるような口調でユリは言った。
「そ、そうですけど……僕にとっての部長はやっぱり緋桐先輩で……」
「伊吹くん」
ユリはもう一歩踏み込むようにアオイを見つめた。
「わ、分かりました……緋桐、先輩」
「よしっ」
ユリは満足げに微笑を浮かべた。アオイはその不意打ちの微笑に鼓動が高鳴る。
整った顔立ちにすらりと伸びた白く細い手足に、後ろでまとめられた長く艶やかな黒髪をもつユリは、弓道部だけでなく校内でも際立っていた。
後輩の面倒見も良く、誰にでも気さくに話しかける姿勢もまた、好印象の要因となっていた。とくに、弓を射るときの凛と引き締まった表情は、男子だけでなく女子部員からも熱い眼差しを集めた。アオイも他の部員たちと同様に、ユリに対して憧れ以上の感情を抱く一人だった。
「伊吹くん。私はもうしばらくいるから先に帰っていいよ。戸締まりも私がやっておくから」
「はい、分かりました」
アオイは挨拶をしてからユリを残して道場をあとにした。再び一人になったユリは左手に弓を、右手に矢を持ってゆっくりと両腕を上げる。流れるような動作で、左手で弓を押し出すと同時に右手は弦を引いた。的を見据えたまま、弓を引ききった状態から矢が放たれた。
それは突然の出来事で、何の前触れもなくユリの身に起きた。
朝、目が覚めたユリはいつものようにベッドから起きて着替えようと寝間着に触れたとき、電流が走ったかのような鋭い痛みがユリの両手に広がった。
「っ……!」
あまりの痛さにユリは思わず両手を開いて、じっと見つめた。特に外傷はなく、いつもと変わらない手のひらがあった。しかし、両手には確かに痺れるような痛みが残っている。ユリは確認するかのようにもう一度服に触れると、やはり鋭い痛みが両手を襲った。
「何……これ」
ユリは何度か試すうちに、何かに触れただけで痛みが起きること、ゆっくりと触れれば多少は痛みが軽減されることが分かった。しかし、なぜそうなったのか、その原因は分からないままだった。
ユリは少しでも痛みを抑えられるようにゆっくりと衣服を着替え、自室を出た。食卓に並んだ朝食も、静かに箸を持ってゆるやかな動作をすることで、何とか済ませることができた。
自宅にある道場で、いつものように舞の練習をしようと神楽鈴を持つが、目に見えない痛みは容赦なくユリの両手を襲う。
「もう、何なのこれ!」
ユリは苛立ちを隠せず、思わず声を荒らげた。大きくため息をついて気持ちを落ち着かせると、練習を中止して道場を後にした。
駆け出すように家を出たユリは、あてもなくただ賢木の町を歩いた。鮮やかな青一色の空からは、夏の陽光が容赦なく降り注がれている。そこらじゅうから聞こえてくる蝉の鳴き声は、夏の暑さとユリの苛立ちを増長させる。
暑い日射しを受けながらも、ユリの足はいつの間にか賢木高校へと辿り着いていた。高いフェンスに囲われた高校の外周に沿って歩いていると、遠くからパンッという音が聞こえてくる。
校内に目を向けると、弓道部の練習が行われていた。
「…………」
ユリは自身の手のひらを見つめた。
病院へ行けば原因や治療法は分かるかもしれない。でもそうしたら、医者に舞を止められるかもしれない。還魂祭まであと数日しかないのに……それは嫌。どんなことがあっても、ちゃんと舞はやりたい。でも……。
こんな状態で、還魂祭当日は舞うことができるだろうか。ユリは頭の中をよぎった不安を否定するように、強く頭を振って追い出した。
「緋桐先輩!」
不意に声を掛けられた、ユリは驚いたように振り向いた。そこには息を切らした、弓道衣姿のアオイが立っていた。
「伊吹くん」
「先輩、何かあったんですか?」
「え……? な、何もないわよ。伊吹くんこそ急にどうしたの?」
アオイは乱れた呼吸を整えるように深呼吸をして、落ち着きを取り戻す。
「さっき、道場から先輩が見えて。俯いてて何だか元気がなさそうだったから……」
ユリは先程まで見ていた弓道場に目を向けた。弓道場では部員たちが黙々と練習を続けていた。こちらから見えると言うことは、向こうからも見えていたのかと、ユリは納得した。
「だから……何でもないって言ってるでしょ。心配性だなぁ、伊吹くんは。ほら、早く戻りなさいよ。部員たちが真面目に練習してるのに、部長がこんなところにいちゃダメでしょう」
ユリは明るく振る舞っていたがどこかぎこちなく、それがアオイをより不安にさせる。
「先輩、やっぱり何かあったんじゃないですか。何というか、いつもとちょっと違うっていうか……」
「だーかーらっ。何でもないって言ってるでしょう。それじゃあ私、もう行くね。部活、頑張ってね」
ユリはこれ以上詮索されないよう、強引に話を終わらせて歩き出した。
「ちょっ……先輩っ!」
やっぱり様子がおかしい。いつもの先輩らしくない。ユリが何と言おうと、アオイは素直にユリの言葉を受け取れなかった。
立ち去ろうとするユリを引き留めようと、アオイがユリの手をつかんだ瞬間、
「ああっ!!」
「せ、先輩?」
ユリは手を捕まれると同時に、その激痛に耐えられず声をあげた。それほど強く握ったつもりのないアオイはユリの反応に驚き、反射的に手を放した。アオイから解放されたユリは捕まれた手を庇うようにして、痛みに耐えるようにその場に座り込んだ。
「ぃ……っ……」
「え……先輩。手、どうかしたんですか?」
「な、何でもない、から……く……大丈夫だから、気に、しないで……」
どんなに言葉では強がって見せても、今のユリには説得力はなかった。ユリの身に何が起きているのか分からないアオイは、みっともなく狼狽えた。
「えっと……先生を呼んだ方が……あ、いや、救急車の方が……」
「ダメッ!!」
「え?」
アオイはユリの叫びにも似たようなその声に驚いた。
「だ、大丈夫だから。しばらくしたら治まるから。誰も呼ばないで、お願い……」
「先輩……」
ユリの必死の懇願に、アオイはただ苦しむユリを見ていることしかできなかった。
「さっきはごめんね、伊吹くん」
痛みが治まり落ち着きを取り戻したユリは、アオイに素直に謝った。
「い、いえ……でも、本当に大丈夫ですか?」
「うん、とりあえずは……ね」
それから二人のあいだに沈黙が続いた。ユリは誰にも知られたくなかった手のことをアオイに知られたことをどうするか、アオイはユリに何と声を掛ければいいのか分からないでいた。
知られてしまった以上は、もう隠すことはできないと観念したユリは、静かに沈黙の壁を切り崩した。
「はぁ~。見られたからには、もう隠せないわね」
「先輩……」
「昨日からこうなの。朝起きたら、手で何か触れようとするとすごく痛むの。でも、これを誰かに知られたら、病院に行けっていわれるだろうから」
「当たり前ですよ。病院に行った方がいいに決まってるじゃないですか」
ユリは静かに首を横に振った。
「だめ。それだと、舞ができなくなっちゃう。私はちゃんと舞をやり遂げたいの。だから今は行けない。還魂祭が終わるまでは……」
ユリの眼差しはどこまでも真剣で、揺るぎない意思が宿っていた。
ユリの精神的な強さは、同じ弓道部の部員としてアオイはよく知っていた。だからこそ弓道では誰よりも上達し、部長を務められたのだと。近くでユリを見てきたアオイにはそれがよく分かっていた。
再び二人のあいだに沈黙が降りる。
アオイはさんざん悩んだ末に、ようやく口を開いた。
「分かりました。このことは誰にも言いません」
「伊吹くん……」
「その代わり約束してください。還魂祭が終わったら、必ず病院に行くって」
「うん……ありがと」
ユリはアオイが出した結論が素直に嬉しかった。俯いたユリの口元はわずかに緩み、それはアオイからは見えることはなかった。
「ほら、はやく道場に戻りなさい。みんな伊吹部長を待ってるわよ」
ユリは気持ちを切り替えて、本来の明るい笑顔でアオイに戻るよう促した。その笑顔に安心したアオイは「分かりました」とだけ言い残して、道場へと戻っていった。
アオイの後ろ姿に向けて、ユリは誰にも聞こえないような小さな声でもう一度「ありがとう」と呟いた。