馬車に乗っていたのは……
怒りに任せて外へ飛び出したレオナルドだったが、徒歩でクロエの屋敷まで向かうには距離があるため街で辻馬車を捕まえることにした。リンデン家所有の馬車より遥かに乗り心地の悪い辻馬車に揺られカレンデュラ家の屋敷に辿り着く。馬車酔いでふらつきながらも門前で門番に詰め寄った。
「……おい、クロエはいるか?」
「は? 誰だ貴様は」
屋敷の主人を横柄に呼び捨てる不審者を前に、門番は鋭い眼光で射抜くように睨んだ。
彼らはレオナルドの顔を知っていたが、目の前にいる、髭が伸びて人相の悪くなった男と結びつけることはできなかった。軟禁生活のせいで身支度が整わないレオナルドは、いつもの貴公子然とした姿とは程遠く、見た目からして不審者そのものであった。
「なんだその口の利き方は!? 私はリンデン家の子息にしてクロエの婚約者だぞ! 門番風情がそんな口を利いていいと思っているのか?」
「……リンデン家のご子息? 嘘をつくな。公爵家のご子息がこのような薄汚い格好で、しかも辻馬車などに乗ってやってくるなど、あり得ないだろう?」
「……っ!! し、仕方ないだろう! 急いでいたのだから!」
「薄汚い」と指摘されたことでレオナルドは恥ずかしさを覚え、先ほどまでの勢いが失せてしまった。
公爵家の子息として身なりにはかなり気をつかっていた彼は他人から「汚い」などと言われたことは一度もない。
屈辱で顔を歪め、恥ずかしさに頬を赤らめ俯くレオナルドを門番は鬱陶しそうに手で追い払った。
「何であれ貴様のように怪しい人物をお嬢様に近づけるわけにはいかない。さっさと去れ」
「なっ……お前! この私にそんな態度をとって許されると思っているのか!」
「怪しい人物を屋敷に近づけないことが我々の仕事だ。いいからさっさと去れ。でないと力づくで追い返すぞ」
槍を構えた門番を前にレオナルドは思わず小さく悲鳴をあげ、身動きが取れなくなる。
膠着状態が続いたその時、向こうの方から馬車が近づいてきた。
「……あれは!」
馬車にカレンデュラ家の紋章を見つけた瞬間、レオナルドはクロエが乗っていると直感し、慌てて駆け寄った。
「クロエ! いるんだろう!? 私だ! レオナルドだ!」
レオナルドが近づくと馬車が停まり、御者は訝しげに彼を見た。窓がゆっくりと開き、中の人物が姿を現す。
「……レオナルド君? きみ、その姿はどうした?」
「え……!? あ、カ、カレンデュラ公爵閣下……」
馬車に乗っていたのはクロエではなく、彼女の父カレンデュラ公爵だった。
本人ではなく父親が現れたことにレオナルドは完全に動揺し、勢いを失ってその場に立ちすくむ。
カレンデュラ公爵は突如として姿を現したレオナルドを目にし、その粗末な身なりに眉をひそめた。
「何の用かは知らぬが、人の屋敷を訪れるのならばそれ相応の服装をしてくるものではないか? それとも当家は身なりを気にするに値しないとでも?」
要約すると「汚ねえ格好で人の家に来んなよ」という嫌味に、レオナルドは恥ずかしくなり顔を逸らす。
「す、すみません……。急いでいたもので……」
「急いでいた? 何をそんなに急いでいたんだね?」
「えっと……それは……」
流石に格上の公爵に対して「僕の恋人を何処にやった!」などという発言など出来るわけもなく、かといってこのまま帰るわけにもいかない。帰ってしまえば再び母によって物置部屋に軟禁されかねないのだから。そうなってしまえば、シェリーの行方を追うことすらできなくなる。
シェリーの行方が分からなくなったのをクロエのせいだと決めつけたレオナルドは、どうにかしてクロエに会わせてもらおうと公爵に懸命に伝えようとした。
「実は……友人の行方が分からなくなってしまって……」
「……ほう、友人が。それは由々しきことだな」
「はい、そうなんです。それでクロエならば居場所を知っているのではないかと思い、こうしてやってまいりました」
「クロエが君の友人の居場所を……? その友人はクロエとどういう関係なんだね?」
「えっ……!? あ、いや……それは……」
レオナルドの友人の行方をなぜクロエが知り得るのか、と公爵は眉をひそめた。
レオナルドもさすがに真実を告げるわけにはいかず、口を噤む。
「クロエは君の友人と特別親しい仲なのか? 婚約者でもない男とそんなに親しくしているとは、父親として許容しがたいな……」
「あ、いえ、友人は男性ではなく……」
「なに? では、君の友人は女性なのか? ……ふうん、君はその女性の友人がよほど大切なようだな。身なりも気にせず、従者すらつけずに家を飛び出すほどに彼女を心配しているのか……」
この時点で公爵はその”友人”にレオナルドが好意を持っていることを察した。
娘と婚約中にも関わらず、他所の女に好意を抱く不誠実さに公爵のレオナルドへの好感がどんどんと下がっていく。
「あ……い、いえ、その……そういうわけでは……」
どんどん眉間の皺が深くなる公爵を前にレオナルドはすっかりと委縮してしまった。
ここで諦めて帰ればいいものを、シェリーのことを心配するあまり彼はとんでもない墓穴を掘ってしまう。
「その……私とその友人の仲を邪推したクロエが、友人に何かを言ったのかと……」
「は? ……貴様、今何と言った?」
その聞き捨てならない一言に公爵の怒気が一気に膨れ上がった。
見たこともないほど怒りの表情を露わにする公爵に、レオナルドはそこで初めて自分がとんでもない失言をしたと気づく。
「貴様はクロエがその友人とやらに危害を加えたと言いたいのか?」
「あっ、ち、違うんです! その可能性があるかと思っただけで……」
「可能性だと? 貴様は我が娘が悋気を起こして他者を害するような分別の無い人間だと思ったのか? ふざけるなよ……クロエがそんなつまらぬ女と思うたか! 我が娘を馬鹿にするのも大概にしろ!!」
公爵の怒声が轟いた瞬間、レオナルドは「ひっ!」と情けない悲鳴を漏らし、そのまま腰を抜かした。
愛娘を愚弄された怒りはそれでも収まらず、自ら馬車を降りてレオナルドの前に立ちふさがる。
「大人しく聞いていれば好き勝手言いおって……。図に乗るなよ、小僧! 他者を排除してまで手に入れたいと願うほどの価値が貴様にあるとでも? クロエがそこまで深い情を貴様如きに抱いているとでも? 自惚れるのも大概にしろ! 婚約中に別の女にかまけるようなくだらぬ男は我が娘に相応しくない! 帰れ! 二度とその顔を見せるな!」
あまりの迫力に恐れをなしたレオナルドは青ざめた顔で震えを止められぬまま、その場を逃げるように後にした。
その時の彼にはもはやシェリーの名を思い出す余裕すらなく、ただ、凍り付くような恐怖だけが頭を占める。
レオナルドが立ち去ったあと、公爵はあの男を娘の婚約者に選んでしまった自らの判断を激しく悔いた。
婚約期間中に平然と不貞に走り、その相手に何かあれば婚約者のせいにしようとする──そんな人として救いようのない屑だったとは──。
怒りよりも娘への申し訳なさのほうが胸に強く募っていく。
その瞬間だった。公爵の体が不意にぐらりと揺れたのは。
「──旦那様っ!!」
倒れ込みそうになる公爵の体をその場にいた門番が慌てて支えた。
青白い顔で意識を失った公爵の姿に場の空気は一瞬で混乱に包まれるのだった。




